聖書からのメッセージ

世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
第一礼拝・第二礼拝は同じメッセージです。

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9月

9月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 18章18-30節
人にできないことが神には

26  それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
27  イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 人間の基準は神とは違う

「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と告白する指導者は、先週出てきたパリサイ人と同じタイプです。
自分やちゃんとしている。よくやっている。努力してきた。周りもそう認めているし、自分も心から信じていました。
自分で自分を正しいと思い、真っ直ぐに生きていると思うタイプの人ですが、「何をしたらいいか」という最初の質問からズレていました。
何かをすることで、神の子どもに値すると認められることは事実上、不可能です。

 

  1. 神よりも大切な「何か」

この指導者はお金を手放すことには、大きな抵抗がありました。イエスは私たちの深い部分に触れられます。
魂に触れると言ってもいいかもしれません。
私たちは「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という最も基本的な命令にも十分に応じることができません。
むしろ、心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして愛してくれるのは神様の側ではないでしょうか。
神に近づけば近づくほど、神の大きさと自分の小ささに気づくものです。

 

  1. 手放すことも恵みによって

自分の富をキリストの足もとに置く覚悟はあるでしょうか。
私たちはお金ではなくても、自分の大切にしているものをイエス・キリストの足元に置き、手放す覚悟はあるでしょうか。
もう少し、丁寧に語るなら、神は最も大切なひとり子、イエス・キリストを手放すほどに私たちを愛しています。
神の愛が信頼に足ると体験するほど、私たちは自分の大切なものを神の前に手放すことができるようになるだろうなと思います。
覚悟というと、自分の決断のような感じがするかもしれませんが、手放す信仰もまた神の恵みから始まります。

 

■一緒に考えてみましょう

・この指導者にお金を手放すようにとイエスは促したとしたら、私には何を手放すようにとチャレンジをされるでしょうか。
じっくり考えてみたり、親しい人に聞いてみたりして、自分の盲点に光を当ててみましょう。

8月

8月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 17章11-19節
感謝する人、しない人

17  すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18  この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. ツァラアトという呪い

ツァラアトが見つかったら「汚れている」と叫び、共同体の外に出ていかなければなりませんでした。
ツァラアトの治療方法はありません。元に戻せるとしたら、神の奇跡だけです。
イエスがツァラアトの人をきよめたという情報が彼らの耳にも届いていたことでしょう。
イエスがこの村に来てくれたので、必死に彼らは「あわれんでください」と叫びました。
「あわれんでください」とは神に対する祈りの中で使われる言葉です。イエスを救い主として信仰を告白しているのと同じことです。

 

  1. イエスの言葉を信じ、従った人たち

もしかしたら、聞いていた情報を違うと思ったかもしれません。
以前は「私の心だ、きよくなれ」とツァラアトの人に直接、触れて、癒されました。
なのに、今回は「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われただけでした。
彼らはイエスの言葉を信頼し、祭司のところに向かい、その途中できよめられたことに気づきます。
イエスを信じ、従った彼らの信仰が奇跡を実現させたのです。
このあと、イエスのところに感謝を伝えに来たのは1人のサマリア人だけでした。

 

  1. 本質を見誤らないように

イエスが使った「他国人」という言葉は、エルサレム神殿で正式に使われている言葉でした。
他国人はここまでしか入ってはいけませんというエリアが決められていました。
一番遠くで我慢させられるのが他国人、次は女性のエリア、最も近づけるのは男性という括りが神殿で礼拝する時に存在していました。
そのエリアを守れなかったら殺されてしまうほど、厳しい決まりでした。
イエスには意味のない区別でした。生まれではなく信仰が本質なのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・神からの祝福に対して、感謝をしないままにしていたことはあるでしょうか。
・当時「サマリア人」に対する偏見があったように、私たちはどんな偏見があるでしょうか。

7月

7月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 16章1-13節
小さなことに忠実に

10   最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 伝統的な解釈

伝統的な解釈では、不正な管理人が、主人の財産を浪費し、首になりそうになり、借りている人たちの好意を得るために借りているものの数を減らして帳簿を改ざんしました。
この場合、不正をしていた管理人の将来に備えた危機対応に抜け目がなかったと誉められたという解釈がなされます。
自分が首になりそうだと分かったら必死になって生き延びる方法を考えたように、
イエスの弟子として永遠に至る道を歩くときに、必死になっているか、という弟子への警告がなされているのです。

 

  1. もう一つの解釈

聖書の伝統では、お金を貸してお金儲けをすることは禁じられていました。
法律の抜け道として、ものを貸して、利息を取るということが行われていたそうです。
この管理人がしたのは、利息分を減らして、借りていた人を喜ばせつつ、律法の定めに従った契約に修正することで、主人の名誉を回復させることになった。これが賢いと誉められる理由だという見解です。そうだとしたら、この世のお金を増やすことだけを考えるよりも、
むしろ、困っている人を助けるためにお金を使いなさい。これが永遠へと至る生き方なのです。

 

  1. 神に託されたものという価値観

お金の扱い方を具体例に挙げながら、忠実でありなさいと言われます。小さな日常的な事柄をはじめとして、私たちは神への忠実さが問われています。
「管理人」という言葉から、私たちの人生の全ては神に託されたものであるという聖書の視点を思い出したいと思います。
私たちが自分で手に入れたと思うようなことも神から委ねられ、託されたものであり、
それを私たちは不正に管理するのか、忠実に管理できるのかが問われています。

 

■一緒に考えてみましょう

・神に託されたものに忠実でしょうか。もっと危機感を持って管理しなければならないことについて何か思い当たるでしょうか。
人を助けるために何ができるでしょうか。

6月

6月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 14章15節
あなたも神のパーティーに

15  イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 神からの招待を断る人たち

皆が、同じように断るなんて、あり得ないことでした。しかも、どれも盛大な宴会を断る理由に値するとは思えない理由なのです。
まだ話は続きますが、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人たちへのイエスの警告が読み取れます。
神の国で食事をするなんて、なんて幸せだと口では言いながら、招かれていたにも関わらず、あなたは断るではないかと。
イエスが招待するのをやめたのではなく、彼らが自分で招待を断ったのです。
私たちは神の国の食事の招待に気づかずに、自分の都合を優先させてしまうことはないでしょうか。

 

  1. 文字通り、誰もが招かれている

この主人の夕食会には、たくさんの席があります。だから、もっと多くの人を招くことができます。
そこで、街道や垣根のところまで行きなさいと言われます。街道というのは、町と町を結ぶ道路のことです。
垣根というのは、おそらく町の外にあるぶどう畑の垣根を指すだろうと言われていて、
街の中の人では足りず、街の外まで行って、人を連れてきなさいと主人は言われたのです。
街の外の人となると、同じ民族ではない可能性があります。
また、街の外に追いやられた社会的に立場の弱い人たちも含まれます。イエスの福音はこのように広いのです。

 

  1. 恵みを受ける人とは

食事をするというのは、親しさの象徴ですから、普通は、人を選んで、一緒に食卓を囲むのです。
しかし、この家の主人は、誰でも食卓に客として加えます。
つまり、食卓の友として数えるには、あまりに汚れているとか、あまりにもみじめだとか、決して言わないのです。
これは私たちが何度も、繰り返し、確認すべきことです。神が恵みを示して、それを受け取る人は、誰もが恵みの食卓に加えられるのです。
ただ、神の招待を断るかどうかは私たち次第なのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・神のパーティーにふさわしい人とは、どのような人でしょうか。

5月

5月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの手紙第一 4章19節
愛を知り、分かち合う

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン
1. ここに神の愛が
神がひとり子、イエス・キリストをこの世界に遣わしました。
イエスは私たちの罪のために(そして、この世すべてのために)、身代わりに、十字架で神に捧げられた「いけにえ」だと聖書は教えます。
イエスが私たちの身代わりになり、罪の罰を受けられたので、私たちは罪に責任を負わなくてよくなったのです。
罪は私たちを苦しめません。罪の呪いから解放されました。イエスの十字架のいけにえに基づく罪の赦しが神の愛の本質なのです。
ここに神の愛があると言われます。

2. 互いに愛し合いなさい
イエスが示した神の愛は、他者のために自らを捧げる生き方でした。
イエスの愛に本当の意味で触れるなら、イエスのように私たちも他者のために、自らを捧げるという神の愛を分かち合う道を歩き始めることになります。
これが神から新しい命をいただくということであり、神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、
私たちの赦しを必要とする人々を赦すという神の愛を分かち合う、新しい人生を生きるということです。

3. 聖霊の導きの中で
今日はペンテコステを記念する礼拝です。聖霊が神から与えられたことを思い出す日です。
すでに神は私たちに御霊を与えてくださっているのです。ですから、私たちは神のうちにとどまることができるし、神も私たちにとどまるのです。
この信仰共同体の中で、私たちは愛することを学んでいるところです。
聖霊の導きに私たちが身を委ね、神の家族を信頼して生きる中で、神ご自身がまず愛を示してくださったように、神のご栄光を私たちに表してくださいます。私たちはこの神の素晴らしさを目撃し、賛美し、証し、神と人に仕えましょう。

■一緒に考えてみましょう
・今日も、神の愛に立ち返りましょう。どのような時間が神の愛に立ち返るのを助けてくれるでしょうか。
神の愛に戻ったら、何に目を向けるようにと促されるでしょうか。

4月

4月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 12章34節
宝物は何ですか

34  あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 自分のことで頭がいっぱい

16-20節に出てくるお金持ちは「私の」という言葉を何度も使っていました。
私の作物、私の倉、私の穀物。私の財産。このお金持ちの生き方、ものの見方が「私の」という言葉に表れています。
彼の人生は、自分のことで頭がいっぱいです。
溢れるばかりに祝福され、たくさんの収穫を手に入れたとき、神を愛し、人を愛するという生き方について彼は考えたでしょうか。
彼は自分のことだけ考えていました。目の前の財産を信じ、神を無視した人生でした。

 

  1. 心配に振り回されない

後半は神に全面的に信頼して大丈夫だという話です。私たちはさまざまな心配に囲まれているかもしれません。
イエスに従うと決めたら迫害されるかもしれません。
安全に暮らせたとしても、お金や食べ物、着る物、生活のために必要なものは、たくさんあるでしょう。
しかし、神は心配するのをやめなさいとはっきり言います。
神は恵み深いお方であり、神が満たしてくださるから、心配しなくて大丈夫だというのがイエスの約束です。

 

  1. 天に宝を積む「施し」

神に宝を蓄える方法が最後に明らかにされます。施しをすることです。
これは恵みのリズムで生きることです。神から恵みをタダでいただいたら、その恵みを次の人に手渡していくということです。
自分のことだけ考えて、視野が狭くなり、神や周りの人が見えなくならないようにするのが「施し」です。
施しのための出発点は、まず神が私たちを愛してくれているということ。
神の愛を思い起こすことが、神と周りの人に恵みを分かち合うことにつながります。

 

■一緒に考えてみましょう

私たちは一度、立ち止まりたいと思います。私たちは何を求めて、何を貯めようとしているでしょうか。
倉があるとしたら、そこに何が入っているでしょうか。
自分のことだけ考えて生きているのか、神と人を愛することを考えながら生きているのか、しばらく振り返ってみましょう。

3月

3月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 11章14-15節
イエスは本物か、偽物か

14さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口をきけなくする悪霊であった。
悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。
15しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. イエスは悪霊の力なのか

イエスの働きを、神による聖なる働きではなく、悪霊による力だと非難する人たちがいました。
また、イエスを試すことを目的として、証拠を見せろとギリシャ語の動詞を見ると、繰り返して要求した人たちが出てきます。
イエスが悪霊を神の指によって追い出しているから、もうここは、神の国の一部になっているし、神の手の中にあなたがたはいるのだとイエスは言います。
とても大切な約束です。悪霊の支配から解放されているなら、イエスは私たちに神の国の中での生活をもう始めているのと同じだと約束してくれています。

 

  1. 外国人も神を求めたのに

29-32節では、ニネベの人々と南の女王について語られます。共通点は「外国人」と「神に立ち返った」(悔い改め)です。
預言者ヨナは、大きな魚に食べられ3日目に助け出されたことで有名ですが、
ヨナは外国の町ニネベで悔い改めのメッセージを伝え、ニネベの人々は悔い改めたという記録があります。
南の女王も、外国人であり、ソロモン王の知恵を求めました。
外国人も神を求めたのに、なぜイエスを前にして心を固くしているのでしょうか。

 

  1. 祝福を選びなさい

明かりは神の象徴です。この文脈では神の言葉、悔い改めのメッセージも含まれるでしょう。
イエスを通して、神に戻ってくる方法が示されています。
「神のことば」に耳を傾けることができる人はイエスを育てた母よりも祝福された人だとイエスは言います。
福音を喜んで受け取る人もいれば、反対に攻撃してくる人もいます。
私たちは神の光をいただくこともできるし、闇を選ぶこともできます。イエスが本物か、偽物か、私たちが判断するのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・イエスが神を明らかに示していても、それを悪霊の力だと呼ぶ人たちはいます。そういう人たちがいたとしても、イエスを救い主と告白できるでしょうか。

2月

2月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 10章42節
イエスの足元に座ることから

42  しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 誰もが招かれている

2000年前のイエスの文化では、女性は台所でマルタのようにもてなしの準備をするのが当たり前でした。
しかし、マリアは、男性の弟子たちに混じって、イエスの足元に座っていました。
イエスも、弟子たちも、このことについて、何も言っていません。これがイエスのグループの特徴でした。
男性も女性も一緒に、イエスの足元に座ることができる。
イエスは当時の常識的な感覚にとらわれずに、イエスご自身が女性の立場をきちんと保証するのです。
「こどもを連れてきなさい」と言われたことにも通じるイエスの一貫した姿勢を見ることができます。

 

  1. マルタの不満

私たちは、きっと多くの人がこのマルタの気持ちを理解できるでしょう。
マルタは一生懸命、やっているのです。別に、マルタは目の前に責任を放棄したいわけではありません。
彼女は喜んでもてなしをしたかっただけです。
イエスは私たちの常識の反対をいくので、時に、挑戦的に映ったり、私たちを不満にさせたりすることもあります。
そういう時こそ、信仰の成長のチャンスです。神の価値観が私たちのうちで育とうとしているのです。

 

  1. スケジュールの見直しは必要ですか

この出来事の直前、前回2/5にお話しした内容を思い出してください。
良きサマリア人と呼ばれる話がありました。「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きてるんだ」と言えるかもしれないです。
誰があなたの隣人かと考えるよりも、あなたは隣人になるために、行動しなさいとイエスは言われました。
行動することは大切です。でも、良い行動をするために、イエスの足元に座る時間がなくなってしまうようなスケジュールは、見直さなければならないのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・マルタのように不満をイエスご自身に伝えるということは大切な習慣です。
・スケジュールの見直しは必要でしょうか。

1月

1月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮

 

17  さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

■アウトライン

  1. モーセの時代から変わらない人の本質

この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。

 

  1. 勇気を出して信仰の旅に

17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。

 

  1. 幼子だから神に信頼できる

成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。

1月

1月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮

 

17  さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

■アウトライン

  1. モーセの時代から変わらない人の本質

この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。

 

  1. 勇気を出して信仰の旅に

17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。

 

  1. 幼子だから神に信頼できる

成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。

12月

12月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 2章8-12節
居場所、ここに

 

8  さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9  すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10  御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11  今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12  あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 羊飼いが神の民の代表

羊飼いたちが神の民を代表して、大きな喜びを聞き、赤ちゃんを見つけると告げられたのです。
つまり、最初のゲストとして、救い主の誕生を見てきなさいと羊飼いたちが、代表として選ばれたのです。
時の権力者が招かれたのではなく、夜、野宿をしながら羊の群れの世話をしている人たちが、最初のゲストに選ばれました。
見ず知らずの羊飼いが会いに行ける距離に、イエス様はいてくださいます。これが救い主と私たちとの距離感です。

 

  1. 恵みに感謝する

御使いの話した通り、羊飼いたちは救い主の誕生を目撃し、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。
この記録を読んで、ある言葉を思い出しました。
「神の本質が恵みであるとすれば、神の民である人間の本質は、私たちの感謝である。」神の恵みというのは身に余るようなプレゼントです。
私にはもったいなくて受け取れないような贈り物が神の恵み、本質だとするなら、神の民、神の子供として育てられる人間の本質は、
いただいた恵みに対する感謝だというのです。このような感謝の積み重ねが、神の子どもになっていくことだと私は思います。

 

  1. 教会が居場所の1つに

私は教会のコミュニティは可能性に満ちていると感じます。理想的な教会だとは言いません。簡単に解決できない問題もあります。
すぐに癒すことのできない傷もあります。それでも、常にイエス・キリストを中心にお招きし、忍耐強く一緒にいるながら、
ここで神の恵みを見せてくださいと祈るなら、その祈りは実現していくと心から信じています。なぜなら、それは神の願いと重なるからです。
ただし、神は人の気持ちを無視して、強引に物事を進めるのではなく神様は場所を作って待っています。行くかどうかを決めるのは私たち自身です。

 

■一緒に考えてみましょう
・この1年を振り返って、恵みを数えて感謝しましょう。

11月

11月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 9章17節
神に養われる生き方

17  人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

■アウトライン

  1. 神の代理人として遣わされる12弟子

12人の弟子はイエスの代理人として、神の支配を宣べ伝えることと、病気を治すことの二つの仕事が与えられました。
悪霊をコントロールし、病気を癒す力によって、神がここを文字通り治めていること、支配していること、
神の優しい手の中にあることを示す証拠となるのです。
この旅を通して、神の支配がここにあることを伝え、イエスに託された権威と力を使うことで、
身に余るほどの感謝を受けたことでしょうし、拒絶されることも多くあったことでしょう。

 

  1. 「旅には何も持って行かないように」

この意味は、神に頼って旅に出なさいというメッセージです。
神の働きを託されている人は、神から託された力と権威によって、人々を癒し、助けることができるから、
神から恵みを受け取った人たちから、必要なものを受け取る。これがイエスの言いたいことです。
ある町に行ったら、一つの家に入り、そこに留まるというのは、自分の環境を整えることに心が奪われ、神の使命が覆われてしまわないようにとのことです。究極的な養いは神にあることを学ぶ旅です。

 

  1. 宣教の特等席で感動してほしい

この人たちを帰しましょうと言う弟子たちの指摘は真っ当に思えます。
弟子たちには群衆を助ける食糧はないのです。しかし、イエスの代理人として与えられた立場があれば話は別です。
どれほど荒れ果てた場所であろうと、物が不足していようと、神様がもてなしたい人を、神様の恵みによって、弟子たちがもてなすことができるのです。
実際、弟子たちが配り、弟子たちが人々の満足している姿を一番近くで見るのです。
イエス様は一緒に奉仕する人を探しています。
人手不足だからではありません。宣教の特等席で一緒に感動してほしいのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・今の時代、私たちはどのような時に、神の国(神の力強くも、優しい手で守られている)を感じるでしょうか。
・宣教の特等席への招待を受けているとしたら、自分の率直な気持ちはどうでしょうか。

10月

10月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:片山 信彦 兄
聖    書:ガラテヤ人への手紙6章1節~2節
柔和な心で生きる

 

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 「柔和」という言葉から直ぐに思い出す聖書箇所がありますね。

マタイ5章5節「 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
「柔和な人」別訳では「へりくだった人」とあり、その人は土地を受け継ぐような豊かさを得る、ということでしょう。
この言葉は詩編との関連で語られているようです。

詩編37節11節 しかし、柔和な人は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。
マタイの福音者11章28節~29節では、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。

柔和な心で生きるのは、豊かさを受け継ぐ秘訣であり、キリストの様な他の人を生かす生き方だと教えられますね
ですので、柔和ということは、謙遜とかへりくだる、ということですが、
それは決して弱々しいとか、力が弱いということではないと思います。豊かな生き方です。

 

  1. 柔和かどうかはどうしたらわかるのか?

皆さんは自分は柔和な人だと思っていますか?
自分は柔和な、穏やかな人だと思っていいても、ちょっとしたことでムっとしたり、表には出なくても心の中で怒りが出たりするのは柔和とは言えなのでしょう。
柔和とは、自分一人でいる静かな時に、自分は柔和な心でいられると言うことではなく、他者とのかかわりの中で、人との関係の中で柔和さというものが分かるのだ、とある方が書かれています。
「柔和」ということは、他者とのかかわりの中であらわになるので、ガラテヤ書で「柔和な心で正してあげる」。
そして、互いに重荷を負い合うという関係性の中で柔和に生きるようにと勧められています。

 

  1. 「炊き出しの列に並ぶイエス」のスライドを見る

「作者のアイへンバーグさんは、芸術家の鋭い眼で、いったい神さまはどちらの側にいるんだろう、
炊き出しをする側なのか、それともそれを受ける側か、ということを考え、そして表現しています。
普通ならボランティアする側、助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいておられる、とイメージしてしまう。
しかし、彼は『そうではない。神さまはむしろ、手助けを必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩たちと共に立っておられるんだ』と見抜いたのです」(「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に」本田哲郎著 岩波書店)

他者の中にそれも疲れた人、重荷を負っている人、弱く小さいと思われている方々に寄り添っておられるイエスを見出し、
そのイエスの生き方に倣おうとすることが柔和な心で生きるということにつながる様に教えられています。

礼拝の時間

grade

第一礼拝

10:00-10:30

ピアノとベース
現代的な曲も

第二礼拝

11:10-11:40

パイプオルガン
伝統的な曲が中心

子ども礼拝

11:10-11:50

赤ちゃんから小学校6年生まで
保護者の方も

礼拝に来た人

grade
62
第一礼拝
50
第二礼拝
25
子ども礼拝

9月17日の出席者

礼拝に関するよくある質問はこちらにまとめてあります。
少しでも不安がありましたら、お問い合わせください。
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