世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
第一礼拝・第二礼拝は同じメッセージです。
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ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 18章18-30節
人にできないことが神には
26 それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 人間の基準は神とは違う
「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と告白する指導者は、先週出てきたパリサイ人と同じタイプです。
自分やちゃんとしている。よくやっている。努力してきた。周りもそう認めているし、自分も心から信じていました。
自分で自分を正しいと思い、真っ直ぐに生きていると思うタイプの人ですが、「何をしたらいいか」という最初の質問からズレていました。
何かをすることで、神の子どもに値すると認められることは事実上、不可能です。
- 神よりも大切な「何か」
この指導者はお金を手放すことには、大きな抵抗がありました。イエスは私たちの深い部分に触れられます。
魂に触れると言ってもいいかもしれません。
私たちは「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という最も基本的な命令にも十分に応じることができません。
むしろ、心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして愛してくれるのは神様の側ではないでしょうか。
神に近づけば近づくほど、神の大きさと自分の小ささに気づくものです。
- 手放すことも恵みによって
自分の富をキリストの足もとに置く覚悟はあるでしょうか。
私たちはお金ではなくても、自分の大切にしているものをイエス・キリストの足元に置き、手放す覚悟はあるでしょうか。
もう少し、丁寧に語るなら、神は最も大切なひとり子、イエス・キリストを手放すほどに私たちを愛しています。
神の愛が信頼に足ると体験するほど、私たちは自分の大切なものを神の前に手放すことができるようになるだろうなと思います。
覚悟というと、自分の決断のような感じがするかもしれませんが、手放す信仰もまた神の恵みから始まります。
■一緒に考えてみましょう
・この指導者にお金を手放すようにとイエスは促したとしたら、私には何を手放すようにとチャレンジをされるでしょうか。
じっくり考えてみたり、親しい人に聞いてみたりして、自分の盲点に光を当ててみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 18章9-17節
高慢になるリスク
9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「自分は正しい」という錯覚
パリサイ人もイエスの弟子たちも、神の恵みの邪魔をしているのに気づかないだけでなく、
自分は正しいことをしていると錯覚しているという共通点があります。
パリサイ人は自分で決めたルールを守っていることで信仰深いと勘違いをし、取税人を心の中で裁きます。
イエスの弟子たちは当時の価値観に影響され、幼い子どもたちを価値のない存在と見なし、イエスから引き離そうとしました。
イエスは何がずれているのか、明らかにしてくださいます。
- 神に全面的に頼る生き方
取税人のように、自分の罪を認め、神に心からの助けを求める人を神は憐れむとイエスは教え、
数にも数えられないような幼い子どもたちから信仰の本質を学ぶようにと弟子たちに語りました。
小さな子どもは本能的に、頼るということを知っています。小さな子どもが全面的に頼るように、
私たちも全面的に神に頼ることを学ばなければ、神の王国、神がここですでに働いていることを見つけることはできないのです。
全ての人は罪人で、神の恵みによって救われるという信仰の本質に立ち返るようにとこの出来事は語りかけています。
- 失敗に気づくことから
失敗は少ない方がいいと思うかもしれませんが、自分では気づいていないだけで、
私たちは失敗ばかりと言ったほうが現実を的確に表現しているかもしれません。
大切なのは失敗に気づくことです。失敗に気づかないまま「私は正しいことをしている」と思っていたら、
いつまでも神様は必要ありません。失敗したら、恥ずかしいと思うかもしれませんが、
隠し続けていても、何も変わりません。失敗を神の光の中に差し出すことが、あわれんでくださいという祈りです。
■一緒に考えてみましょう
・失敗に気づかないまま「私は正しいことをしている」と思っていたら、いつまでも神様は必要ないでしょう。
今日、神の優しい光の中で何に注意を向けたらいいでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 18章1-8節
粘り強い祈りが世界を変える
1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
3その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
4この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
5このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。
そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。』」
6主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
7まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。
だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 訴えを聞いてくれない裁判官
イエスは神を愛することと人を愛することが大切だと教えました。イエスのたとえに出てくるこの裁判官は聖書の価値観とは反対です。
「神を恐れず、人を人とも思わない」と書いてあります。神様が旧約聖書の中で、特別に守ろうとする3つの立場の人たちがいます。
やもめとみなしごと在留異国人ですが、この裁判官は、神も人も大切にしないので、やもめだから、助けてあげようとは全く考えないようです。
実際、やもめの訴えを彼は聞こうとしません。
- それでも訴え続ける女性
この女性は裁判官に訴え続けました。ひっきりなしにやって来てと書いてあるように、彼女は何度も何度もやって来ました。
社会的な後ろ盾もない彼女に残された武器は、粘り強さ・あきらめない心だけでした。
何度も嫌な思いをしたでしょうし、失望しそうになったことでしょう。実際に、落胆し、落ち込んだ日もあったでしょう。
でも、彼女は粘り続け、最後にはあのひどい裁判官が動いたのだとしたら、
愛と正義を兼ね備えた神に対して、粘り強く頼む人がいるなら、確かに神は行動してくださるに違いありません。
- 粘り強い祈りは主に届く
神様は私たちを見ています。私たちの忍耐を見ています。イエス様が私たちの期待するタイミングで来ないことがあります。
それでも、諦めてはいけません。「主よ、来てください」と教会は祈り続けて来ました。粘り強い祈りが私たちに求められています。
大きな、派手な信仰は必要ありません。からし種のような小さな信仰で十分です。小さな信仰で、粘り強く祈りましょう。
この小さな信仰を通してゆっくり、でも確かに神の王国はこの世界に表されるのです。
■一緒に考えてみましょう
・祈りの答えがほしくて私たちはせっかちになるかもしれませんが、どのようにして忍耐強く失望せずに祈り続けることができるでしょうか。
・諦めそうになっている祈りがあるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 17章20-37節
神の愛が見えますか
20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イエスが使った宣教の合言葉「神の王国」
ルカ4:43で「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。
わたしは、そのために遣わされたのですから」とイエスは語りました。
イエスが伝えたかった福音、それは「神の国」に関することだと言われます。
イエスは「神の国」という言葉を「神が王として支配する」という意味で使いました。
イエスの宣教というのは、今まさにイエスご自身が王として行動し、神の王国を、今ここで、実現しているということを示したのです。
神の国をからし種にたとえたように、小さなことが次第に大きくなっているプロセスでもあります。
- イエスが見えず、苦しい経験をしても
イエスは「人の子の日を見られない日が来る」と言いました。イエスの弟子として歩く決心をしたけど、イエスが見えない・祈っても助けが来ない気がする。そういう真っ暗な夜のような時期をクリスチャンは経験すると語りました。聞こえのいい言葉にすがりたくなるかもしれません。
ですが、追いかけてはいけません。苦難の中でも、イエスが見えないと思っても、神の愛は私たちから決して離れませんから、
私たちも神様に忠実でいることができますように。
- 終わりの時は恐怖を煽るためではない
終わりの時に関する聖書の伝えたいメッセージは、恐怖を煽ることではありません。
終わりの時は「いつか」は分からないから、今日も神と共に誠実に忠実に心を込めて生活しましょう。
やがて悪は裁かれ、苦しみから救われます。ツァラアトのようにあの人はここにいてはいけない、共同体の外に行けと誰も言われないように。
神の憐れみに頼り、お互いを迎えることができますように。まず人の子が苦しみ、教会も苦難の時代を通り、栄光へと至るのです。
■一緒に考えてみましょう
・「今、ここ」に目を向けたら、「神の王国」(イエスが王、キリスト、救い主として行動している)を見つけることができるでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 17章11-19節
感謝する人、しない人
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ツァラアトという呪い
ツァラアトが見つかったら「汚れている」と叫び、共同体の外に出ていかなければなりませんでした。
ツァラアトの治療方法はありません。元に戻せるとしたら、神の奇跡だけです。
イエスがツァラアトの人をきよめたという情報が彼らの耳にも届いていたことでしょう。
イエスがこの村に来てくれたので、必死に彼らは「あわれんでください」と叫びました。
「あわれんでください」とは神に対する祈りの中で使われる言葉です。イエスを救い主として信仰を告白しているのと同じことです。
- イエスの言葉を信じ、従った人たち
もしかしたら、聞いていた情報を違うと思ったかもしれません。
以前は「私の心だ、きよくなれ」とツァラアトの人に直接、触れて、癒されました。
なのに、今回は「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われただけでした。
彼らはイエスの言葉を信頼し、祭司のところに向かい、その途中できよめられたことに気づきます。
イエスを信じ、従った彼らの信仰が奇跡を実現させたのです。
このあと、イエスのところに感謝を伝えに来たのは1人のサマリア人だけでした。
- 本質を見誤らないように
イエスが使った「他国人」という言葉は、エルサレム神殿で正式に使われている言葉でした。
他国人はここまでしか入ってはいけませんというエリアが決められていました。
一番遠くで我慢させられるのが他国人、次は女性のエリア、最も近づけるのは男性という括りが神殿で礼拝する時に存在していました。
そのエリアを守れなかったら殺されてしまうほど、厳しい決まりでした。
イエスには意味のない区別でした。生まれではなく信仰が本質なのです。
■一緒に考えてみましょう
・神からの祝福に対して、感謝をしないままにしていたことはあるでしょうか。
・当時「サマリア人」に対する偏見があったように、私たちはどんな偏見があるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 17章1-10節
「ゆるす」という選択肢
3 あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。
4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 赦し、赦される
イエスの弟子たちは、神に赦されていることを知っているので、「あなたが赦されたように、あなたも人を赦しなさい」とはっきりイエスは語ります。
私たちはこの教会のような共同体で体験していくことができます。
ただ、私たちは、1回赦し、2回赦し、段々とストレスや怒りが溜まっていき、もう3回目なんだけど!と我慢の限界に達したりすることがあるでしょう。
それでも、私たちが悔い改め、赦しを与え、赦しを受け取るとき、この世界は神の似姿に一歩、近づいていきます。
- 今ある信仰で十分!
使徒たちは信仰を増し加えてくださいとお願いしました。イエスは小さな信仰があれば、神様の奇跡を目撃できますと言っています。
これは弟子たちへの叱責の言葉ではありません。むしろ、私たちがわずかな信仰、頼りない信仰と自分で思っているかもしれない信仰であっても、
ゼロでないなら、少しだとしてもその信仰でイエスに頼るなら、十分だと言われるのです。
そうすれば、あなたにとって信じられないことが起こると神様が約束してくれているのです。
- なすべきことをしただけです
こういう言葉が口から出てくるような奉仕をさせていただけたらと思います。
これだけのことをした!これだけのお金を捧げた!と主張したくなることがあるかもしれません。
神は「よくやった!忠実なしもべだ!」と評価する場面もあるので、もちろん、見ていてくれるのですが、
今日のポイントは、弟子の生き方です。弟子は神に赦された同じように赦します。
イエス様がしもべとなって私に仕えてくださるから、私も奉仕します。受けた恵みを、次の人に渡していく。
恩着せがましくない。これが神の国での弟子の生き方です。
■一緒に考えてみましょう
・「なすべきことをしただけです」と心から思えた瞬間を振り返ってみましょう。きっとあるはずです。その経験を大切にしたいと思います。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 16章19-31節
無視すべきではなかった人
25 するとアブラハムは言った。
『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 死んでから慰めを受ける
葬儀の様子は描かれていませんが、きっとお金持ちは葬式も豪華で、立派なお墓に葬られたことでしょう。
一方で、ラザロは貧しい人たちが入るお墓に入っていたことでしょう。
聞いている人たちの予想に反して、イエスはラザロが天使たちによってアブラハムの懐(祝福の場所の象徴)に運ばれたと言います。
連れて行かれたという言葉には、いるべき場所に戻るというニュアンスが含まれています。
死んだ後、ようやくいるべき場所に戻ることができました。
- 愛の反対は無関心
お金持ちは人生ですべての良いものを受け取ってきましたが、それを当然のことと思い、祝福を分かち合いませんでした。
つまり、自分の託されている財産をラザロと分かち合わず、自分のことだけ考えてき生きていました。
愛の反対は無関心だと言われます。お金持ちからしたら、ラザロのことを憎いとは思わなかったでしょうが、
ラザロに関心を払おうとも思わなかったことでしょう。
私たちは今、愛をもって関心を向けるべき人はいるでしょうか。
- 真剣に神のことばを聞いているか
すでに聖書は警告を与えています。ただし、真剣に耳を傾ける人はあまりに少ないのです。
あとから後悔しても遅いのです。律法・預言者は、表面的な信仰ではなく、神を知ること、愛することを求めます。
神を愛することは、周りの人を愛し、仕えることと結びついています。
私たちは神に委ねられた賜物を神と他者のために使っているでしょうか。
私たちは真剣に神の警告に耳を傾けているでしょうか。
金持ちも、その兄弟も、神のことばを甘く見ていました。私たちは真剣でしょうか。
神は今日も戻ってきなさいと私たちを招き、探してくれます。
■一緒に考えてみましょう
・無視しそうになるけど、無視すべきではない人に目を向ける勇気を与えてくださいと一緒に祈り合いましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 16章14-18節
お金に心を奪われないで
14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。
人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 人の賞賛に心が奪われる
パリサイ派の人たちは、簡単に手に入る、賞賛に満足していました。
それは人々から、あの人はすごい、立派だ、よくできた人だ、と言われるような人からの賞賛の声です。
彼らは、施しと言って、貧しい人たちにお金をあげるという行為を日常的にしていました。行為としては信仰の行為。神様のためにしていそう。
だけど、実際には、神に心は向いていないことがあります。これは、特に預言者たちが警告していますが、神の前では、忌み嫌われるものです。
- 自分の正しさを証明する誘惑
自分で正しい行動をして、自分の正しさを証明したくなる。これは一見、正しいようですが、自分が神になろうとする罪の道です。
神が私たちを探しに来てくれることを今日も思い出しましょう。私たちは自分の力で神の正しさに完全に到達することは不可能です。
ここに気づかないのがパリサイ派に通じる生き方です。私は不完全、むしろ欠けばかりだけど、私を尊いといい、
私のためにイエス・キリストが命を差し出し、全てをくださるのが神の愛です。神の愛ゆえに、
神から「私の子供」と言ってもらうのが聖書が教える救いの道です。
- なぜ離婚の話?
パリサイ人は、合法的に、離婚して、再婚できる抜け道を用意しました。
結婚している男性が他に結婚したい女性を見つけた時に、自分の欲求を実現するための一つの手段が離婚でした。
これがパリサイ人の生き方を象徴しています。神が与えた律法を自分たちの都合の良いように解釈し、周りからは神に従っているように見えるようにし、
自分でも神に従っていると思っている。神の真意を理解しようとせず、自分に都合のいい生き方への警告を受け止めましょう。
■一緒に考えてみましょう
・私の信仰は誰から始まっているでしょうか。探し求める神様からでしょうか。
パリサイ人のように自分の正しさでしょうか。欠けている私たちに恵みを与えるのが聖書の神です。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 16章1-13節
小さなことに忠実に
10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 伝統的な解釈
伝統的な解釈では、不正な管理人が、主人の財産を浪費し、首になりそうになり、借りている人たちの好意を得るために借りているものの数を減らして帳簿を改ざんしました。
この場合、不正をしていた管理人の将来に備えた危機対応に抜け目がなかったと誉められたという解釈がなされます。
自分が首になりそうだと分かったら必死になって生き延びる方法を考えたように、
イエスの弟子として永遠に至る道を歩くときに、必死になっているか、という弟子への警告がなされているのです。
- もう一つの解釈
聖書の伝統では、お金を貸してお金儲けをすることは禁じられていました。
法律の抜け道として、ものを貸して、利息を取るということが行われていたそうです。
この管理人がしたのは、利息分を減らして、借りていた人を喜ばせつつ、律法の定めに従った契約に修正することで、主人の名誉を回復させることになった。これが賢いと誉められる理由だという見解です。そうだとしたら、この世のお金を増やすことだけを考えるよりも、
むしろ、困っている人を助けるためにお金を使いなさい。これが永遠へと至る生き方なのです。
- 神に託されたものという価値観
お金の扱い方を具体例に挙げながら、忠実でありなさいと言われます。小さな日常的な事柄をはじめとして、私たちは神への忠実さが問われています。
「管理人」という言葉から、私たちの人生の全ては神に託されたものであるという聖書の視点を思い出したいと思います。
私たちが自分で手に入れたと思うようなことも神から委ねられ、託されたものであり、
それを私たちは不正に管理するのか、忠実に管理できるのかが問われています。
■一緒に考えてみましょう
・神に託されたものに忠実でしょうか。もっと危機感を持って管理しなければならないことについて何か思い当たるでしょうか。
人を助けるために何ができるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 15章11-32節
一緒に喜んでくれますか?
31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の愛が先にあって、悔い改めへ
何がきっかけで我に返ったかは記されていません。ですが、弟息子は少なくておも、お父さんの愛情を知っていました。
お父さんは家族だけでなく、家で働く人にまで大切にする人でした。聖書では、神のところに戻る決意を悔い改めと呼びます。
悔い改めは人間がすべきことだと見なされることがありますが悔い改める前に、神が探してくれるのであり、神の愛が常に先にあるのです。
この神の愛に気づかなければ、本当の意味で、悔い改めることはできません
- 威厳よりも愛情
弟息子のような愚かな息子を持った父親というのは、周囲からの視線が痛かったはずです。
こんな息子が帰ってきたら、お前なんか知らんと言うかもしれないし、ぶん殴ってやらないと気が済まないかもしれませんが、
この父親は駆け寄って、抱きしめるのです。イエスの時代の父親は決して走り回ったりしないものでした。
走らないことが威厳を示すことでした。でも、このお父さんは息子を見つけたら、もうじっとしていられなくて、走って迎えるのです。
- 弟も兄も抱きしめたい父
兄息子は、一見すると父親のために働き、従順で、ちゃんとしている息子だと自分も思っていたと思うし、周りからもそう見られていたかもしれません。
ただ、この息子は自分のことだけ考える傾向にあり、神の愛の本質を理解できませんでした。
弟も兄もでこぼこですが、天のお父さんには大切な存在です。神様の愛は、信じられないくらい広く、深いのです。
放蕩して帰ってきた弟を一緒に喜んでほしいと、近くにいながらも父親の愛に気づいていない兄に問いかけます。
迷子を必死に探す神様は、今日、弟も兄も抱きしめ、一緒に喜びたいのです。
■一緒に考えてみましょう
・今日の私は弟のようでしょうか、兄のようでしょうか。私たちも成長し、父親のように振る舞えますように。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 15章1-10節
迷子を必死に探す神
9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 罪人と食事をする理由
取税人というのは、神を嫌っているし、神からも嫌われている人の代表的な職業の人です。
そういう人がイエスに近づこうとすることが驚きですし、イエスがそういう人を拒まずに受け入れて、食事をするということも、
聖書に従おうとするパリサイ人や律法学者たちには、理解できないことでした。罪人と一緒にいたら、自分まで汚れてしまうというのが当時の常識でした。
それなのになぜ、このようなことが起こったのか、イエスはたとえを使って説明します。
- いなくなった1匹の羊を探す
どれほど苦労したか、心配したか、大変だったかよりも、天では、1人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びが湧き上がります。
迷子になった羊の話で強調されているのは、必死に探しに行ったのは羊飼いの側だということです。
羊は自分で戻ってこられません。だから、羊飼いである神様が羊である人間を探しに来てくださるのです。
イエス様は良い羊飼いとして、羊のために、自分の命を捨てる覚悟で、迷子になった羊を探しています。
- 救いの喜びが原動力に
悔い改めるのを待っているのではなく、まず、神が探しに行く。いなくなった羊を探す羊飼いも無くしたお金を探す女性も必死に探しました。
この必死さこそ、失われた人を探し出そうとする神の熱意、情熱です。
それほど、全ての人が神にとっては大切な存在であり、神の愛に触れることによって、人は悔い改めへと進んでいくことができるのです。
イエスが罪人たちと喜んで食事をする理由はこれなのです。
罪人たちは見つけてもらった喜び、イエスは見つけることができた喜び、この喜びが御心がこの地で実現することであり、教会の原動力なのです。
■一緒に考えてみましょう
・いなくなった1匹を必死に探すような神の情熱を、どのような形で知っていますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 14章25-35節
苦難が待っていたとしても
26 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「家族を憎む」とは
家族を憎みなさいという言葉をイエスから聞くのは、かなり衝撃的かもしれません。
「憎む」という表現を理解するには、2つの選択肢があって、どちらを選ぶときに、
「一方を愛し、他方を憎む」という言い方をしたという知識が必要になります。
ここでは神、もしくは、イエスを愛することが省略されていて、それと比べて、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、
さらに自分は神と比べたら、愛としては優先順位が下がる。神様をより愛する。
そういう選択をしなさいという言葉です。これがイエスの弟子として生きるということです。
- 自分の十字架を背負う
「十字架を負って」というイメージは、当時、十字架で殺される人は、殺される日、自分の十字架の棒を死刑場まで自分で担がせるという習慣に由来します。イエスの弟子になる理由として、いい人だから、イエスの弟子として認められるという人は、これまで1人もいません。
私たちは欠けだらけ、傷ついていて、弱い。だから、神の恵みにすがるしかない。
そういう自分の正直な姿を神の前に晒し、人々の前に晒す準備ができた人が、イエスの弟子として、生きることができるのです。
- 弟子になることを計算する
この2つの話、塔を建てることと戦争するかを決断する王の話は、決断する前に、座って計算することが大切だと言っています。
これはどういう関係があるかというと、イエスの弟子になること、もしくは、イエスの弟子にならないことについて、ちゃんと計算しなさいという勧めです。
弟子たちが頼ることができるべきは、自分の弱さにもかかわらず、共にいて、支えてくれるイエスです。
財産への執着を捨てるのも、そのためだと言えます。
■一緒に考えてみましょう
・クリスチャンとしての「塩気」を自分は失っていないでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 14章15節
あなたも神のパーティーに
15 イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神からの招待を断る人たち
皆が、同じように断るなんて、あり得ないことでした。しかも、どれも盛大な宴会を断る理由に値するとは思えない理由なのです。
まだ話は続きますが、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人たちへのイエスの警告が読み取れます。
神の国で食事をするなんて、なんて幸せだと口では言いながら、招かれていたにも関わらず、あなたは断るではないかと。
イエスが招待するのをやめたのではなく、彼らが自分で招待を断ったのです。
私たちは神の国の食事の招待に気づかずに、自分の都合を優先させてしまうことはないでしょうか。
- 文字通り、誰もが招かれている
この主人の夕食会には、たくさんの席があります。だから、もっと多くの人を招くことができます。
そこで、街道や垣根のところまで行きなさいと言われます。街道というのは、町と町を結ぶ道路のことです。
垣根というのは、おそらく町の外にあるぶどう畑の垣根を指すだろうと言われていて、
街の中の人では足りず、街の外まで行って、人を連れてきなさいと主人は言われたのです。
街の外の人となると、同じ民族ではない可能性があります。
また、街の外に追いやられた社会的に立場の弱い人たちも含まれます。イエスの福音はこのように広いのです。
- 恵みを受ける人とは
食事をするというのは、親しさの象徴ですから、普通は、人を選んで、一緒に食卓を囲むのです。
しかし、この家の主人は、誰でも食卓に客として加えます。
つまり、食卓の友として数えるには、あまりに汚れているとか、あまりにもみじめだとか、決して言わないのです。
これは私たちが何度も、繰り返し、確認すべきことです。神が恵みを示して、それを受け取る人は、誰もが恵みの食卓に加えられるのです。
ただ、神の招待を断るかどうかは私たち次第なのです。
■一緒に考えてみましょう
・神のパーティーにふさわしい人とは、どのような人でしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 14章1-2節
こだわることですか
1 ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。
そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。
2 見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- その人も「神の子供」
水腫の病気の人は、欲望に負けた人、罪や汚れのために神から裁きを受けた人と見なされていたかもしれません。
そうだとしたら、神はこのようなタイプの人を癒すのでしょうか。
安息日に、自分の子供や家畜が井戸や穴に落ちたら助けるのに、この病人を癒すことには反対するのでしょうか。
パリサイ派の人たちにとっては、「自分の」子供でも、家畜でもないから、急がなくていいということでしょうか。
そうではないですねとイエスは暗に伝えるのです。
- 人からではなく神からの名誉を
7-11節でイエスは宴会で恥をかかないようにする方法を教えたいのではありません。
賞賛を浴びたいという誰もが避けて通れない願望をどう扱ったらいいのか示しているのです。
神を忘れて、ひたすら他人から名誉を求めることがあります。人からの評価に私たちは支配されることがあります。
思い出したいのは、誰からの評価を私たちは日々、気にしなければいけないかということです。
誰の声に常に注意を払うべきなのでしょうか。
「神は高ぶる者に敵対し、へりくだった者に恵みを与えられる」これは聖書が一貫して述べている神の原理です。
- 私たちが目を向けるべき人たち
キーワードは「お返し」という言葉です。「誰からお返しをもらうか」です。神に祝福された友情があり、家族関係があります。
それは良いことです。ただ、注意しなければいけないのは誰に目を向けるようにと言われているかということです。
「貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たち」を招きなさい。
自分の関心だけでなく、関心の外にいる人たちにも目を向けるようにと私たちは招かれています。
■一緒に考えてみましょう
・私が、こだわるべきことは何でしょうか。反対に手放すべきこだわりは何でしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 13章33節
使命からブレない
33 しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。
預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 先延ばしにしないで
とても興味深い質問から、今日の会話は始まります。「主よ、救われる人は少ないのですか」(23節)。
イエスは少ないとも、多いとも答えませんでした。戸はやがて閉まるのです。
ですから、先延ばしにしないで、戸が開いているうちに決断しなければいけません。
イエスと食事をしたか、教えを聞いたかどうかは問題ではなく、イエスのメッセージを聞いて、悔い改めて応答することが大切なのです。
私は大丈夫かと心配になるような話題かもしれません。
- イエスのブレない生き方
「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。」(33節)これがイエスの覚悟です。
神から託された使命に従う姿です。たとえ、大きな苦しみが伴おうとも、死が待ち受けていると分かっていても、決して逃げ出さない生き方です。
神がずっと願い続けてきたことは、神の民を守り、世話し、育てることでした。
しかし、エルサレムの街に代表される神の民は神の願いを聞かず、神の翼の下に入ることを拒んできたのです。
イエスを救い主として認めない彼らの判断によって、神から見捨てられる道を自分たちで選んだのです。
- 私たちのすべき努力とは
「狭い門から入るように努めなさい」(24節)。これは、私たちの根性が試されているのではありません。
「人にはできないことが、神にはできるのです」(18:27)とイエスは言います。
気合いと根性で乗り越えるのではなく神から恵みをいただき、私たちは救われるのです。
人に求められる努力とは、神の声に耳を傾け、恵みに応答する努力です。
復活のイエスがペテロに、私を愛しますか?と問われるように、私たちもイエスを愛するか問われているのです。
■一緒に考えてみましょう
・「狭い門から入るように努めなさい」は今日の私にとって、どのように響くでしょうか。しばらく祈ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 13章18節
祝福を見つけるコツ
そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「安息日」をどう理解するか
働くのは6日間、安息日には神の前に手を止め、神を礼拝する。
これは安息日の基本的な理解です。会堂司と呼ばれる人からしたら、イエスは聖書に書いてある原則を曲げているように見えたでしょう。
申命記5:15には、奴隷から解放されたことを祝うのが安息日の一つの目的だと記されています。
アブラハムの娘を悪い霊から解放し、神を礼拝することは、安息日にふさわしい行為なのです。
安息日の癒しに、神の国の本質が隠されているとイエスは言います。
- からし種とパン種と神の国
パン種とは、旧約聖書では聖さの反対側にあるものです。登場人物は男性ではなく、女性。
神殿が聖なる場所の代表だとしたら、家の中は日常の場所です。
イエスはあえて、パン種・女性・家という日常の中に神の国を見つけるようにと言われるのです。
これは当時の常識とは、大きく違っていました。このような場所で神の国を見つけなさいと私たちは招かれているのです。
立派なレバノン杉ではなく、小さなからし種に目を向けるように、聖さと俗とがあるなら俗のイメージを使って、イエスは神の国を表現されたのです。
- 期待する形とは違うかもしれない神の国
長く教会にいればいるほど会堂司のような反応をするかもしれません。
ですから、自分が違和感を感じるとき、立ち止まる余白を持ちたいなと思うのです。
違和感を神の前に差し出し、私の聖書の常識は神の心を表しているでしょうか?と一つ一つ、気になった時に、立ち止まり、祈っていく余白を持ちたいなと思います。
聖書をよく知っている宗教指導者たちは、嫌な顔をするかもしれないようなところに、神の祝福は隠れているかもしれないのです。
■一緒に考えてみましょう
・私たちは神の国をどのような形で実現していることを期待しているでしょうか。
もし、私たちの期待と違う形で、神の国が提示されたとき、どのように応答したらいいでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの手紙第一 4章19節
愛を知り、分かち合う
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. ここに神の愛が
神がひとり子、イエス・キリストをこの世界に遣わしました。
イエスは私たちの罪のために(そして、この世すべてのために)、身代わりに、十字架で神に捧げられた「いけにえ」だと聖書は教えます。
イエスが私たちの身代わりになり、罪の罰を受けられたので、私たちは罪に責任を負わなくてよくなったのです。
罪は私たちを苦しめません。罪の呪いから解放されました。イエスの十字架のいけにえに基づく罪の赦しが神の愛の本質なのです。
ここに神の愛があると言われます。
2. 互いに愛し合いなさい
イエスが示した神の愛は、他者のために自らを捧げる生き方でした。
イエスの愛に本当の意味で触れるなら、イエスのように私たちも他者のために、自らを捧げるという神の愛を分かち合う道を歩き始めることになります。
これが神から新しい命をいただくということであり、神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、
私たちの赦しを必要とする人々を赦すという神の愛を分かち合う、新しい人生を生きるということです。
3. 聖霊の導きの中で
今日はペンテコステを記念する礼拝です。聖霊が神から与えられたことを思い出す日です。
すでに神は私たちに御霊を与えてくださっているのです。ですから、私たちは神のうちにとどまることができるし、神も私たちにとどまるのです。
この信仰共同体の中で、私たちは愛することを学んでいるところです。
聖霊の導きに私たちが身を委ね、神の家族を信頼して生きる中で、神ご自身がまず愛を示してくださったように、神のご栄光を私たちに表してくださいます。私たちはこの神の素晴らしさを目撃し、賛美し、証し、神と人に仕えましょう。
■一緒に考えてみましょう
・今日も、神の愛に立ち返りましょう。どのような時間が神の愛に立ち返るのを助けてくれるでしょうか。
神の愛に戻ったら、何に目を向けるようにと促されるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 13章3節
このままで大丈夫?
3 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 悔い改めの機会に
おそらく神殿で、いけにえを捧げようとするガリラヤ人をピラトが殺した。これが1節で報告されている内容です。
イエスはピラトのひどい話を聞いて、ローマ帝国に対して怒りませんでした。ガリラヤ人が特別に罪深いとも言いませんでした。
そうではなく、イエスと一緒にいる人たちに向けた警告としました。あなたがたは悔い改めなさい。
どこに向かって歩いているか。何に関心があるのか。あなたの宝のあるところにあなたの心もある。
それは神なのかと、ここまでも繰り返して問いかけてきました。
- 実を結ばないいちじくの木とは
ぶどう畑がイスラエルの比喩として使われるように、いちじくの木はユダやエルサレムを指して使われることがあります。
神はイスラエルが悔い改め、救いの申し出を受け入れることを望まれますが、彼らは頑なに悔い改めないままです。
悔い改めの実を見つけることはできません。神は悔い改め、神のもとに帰ってくるのを待っています。
まだか、まだかと待っていますが、いつまでも待っているわけではない。神の裁きのタイミングが来るから、注意しなさい。
- 実を結ぶのを待っている神の種
私たちの関心はそれぞれ違うかもしれません。それは多様性です。違っていていいのです。
一致すべきは、主に立ち返り、主の声に耳を傾け、信仰の旅に出ることです。
神と人を愛するために何が託されているでしょうか。示されているかもしれないと感じることがあったら、分かち合ってください。
神様のやりたいことの種はすでに蒔かれているものです。芽が出るのを待っている種があるかもしれません。
皆さんのビジョン、願いを聞かせてください。
■一緒に考えてみましょう
・神に管理するようにと託されている思いやビジョン、願いの種はあるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 12章37節
急な来客、大丈夫?
37 帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。
まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- いつ神が来ても大丈夫?
イエスは私たちが想像していないような時に、想像していない姿で、すでに目の前にいるかもしれないのです。
私たちは無意識のうちに計算することがあります。「今日はまだ主人は帰ってこない」そういう時に、人に敬意を欠けることがあるのです。
特に自分よりも下の立場と思う人に敬意を表さないことがあるかもしれません。
誰にも見られていなかったら、ずるしたくなることがあるかもしれません。それが私たち人間の本質です。
いつ神に見られても大丈夫な生活をしなさいと、はっきり警告されているのです。
- 平和ではなく分裂
平和ではなく分裂。過激な言葉に驚かされますが、イエスは表面的な平和、見せかけの平和に満足しません。
イエスは課題があれば、課題に直面させます。抜き打ち検査のような突然の訪問を私たちはあまり歓迎しないかもしれませんが、真実を晒します。
これが福音を語るという一つの側面です。対立は避けて通れませんが、対立が目的ではありません。
罪に妥協したり目を逸らしたりするのではなく、救われること、解放される道をイエスは用意します。
- 天気は読めるのに、なぜ?
天気は読めるのに、なぜ天の神の御心を見分けようとしないのか。これもまた警告の言葉です。
あなたの心のあるところにあなたの宝もあると前回、読みましたが、本当に私の心が惹きつけられていることは何でしょうか。
神に託されているものの忠実な管理人でしょうか。
58-59節は、神の裁きはすでに始まろうとしているという警告です。
でも、まだ間に合うというメッセージです。神様はいつも待っていてくださいます。
■一緒に考えてみましょう
・私に神様は何を管理するように託しているでしょうか。私は忠実な管理人でしょうか?
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:コリント人への手紙第二6章2節
見よ。今は恵みの時
神は言われます。
「恵みの時に、私はあなたに答え、 救いの日に、あなたを助ける。」
見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 出エジプト記3章1節~5節
モーセはミデヤンという場所で羊を飼って生活していました。その場所で、「ここに近づいてはいけない。あなたの履物を脱ぎなさい。
あなたの立っている場所は聖なる場所だからです」という神様からの語りかけを聞いたとあります。
(5節)モーセは同胞のイスラエル人がエジプトで苦役を受け、差別され苦しんでいる状況を見て正義感から立ち上がりました。
その結果エジプト人を殺してしまい、それがかえって同胞の不信を買うことになり、身の危険を感じて、ここミデヤンの地に逃れてきました。
自分は、苦しんでいる人を助けようという正しい動機、正義感から行ったのに、なぜ身の危険を感じるようなことになるのか、
自分は悪いことはしていないのに、という思いを持ちながらミデヤンに逃れてきました。
ですから、ミデヤンに逃れてきたモーセにとっては、もはや神を信じることができない者になっていたのではないかと思います。
ですからモーセにとっては、失意と絶望、神のいない所、そこがミデヤンだったのです。
現代の私たちも似たような気持になることがあります。戦争があちこちで起きています。
国が滅びそうな時代を見て嘆き、差別や不公正がはびこる社会を見て絶望し、他者の言葉や行動を見てつまずき、自分の弱さを見て泣くこともあります。
その中で、自分の考えしか頼れない、他人は宛てにならない、自分の考えだけが信用でき、自分の思うとおりに生きるしかない、
神様なんていない、と思ってしまうこともあります。これが私たちの現実です。
その意味で私たちの今、現実はミデヤンだと言ってもいいくらいです。
2. でも、このミデヤンの地でモーセは、あなたの立っている場所は聖なるところです。
聖なる地なので、当時の習慣として清い場所では履物を脱いだようですので、
本当にここは聖なるところなので履物を脱ぎなさい、という語りかけを聞きました。
モーセにとっては、神不在と思える現実の真只中で神様からの語り掛けを聞くことは、
神様不在と思える所にこそ神様はおられる聖なる恵みのあるところだということを経験したのだと思います。
3. 第二コリント6章2節の後半の「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」という御言葉が響きます。
「見よ」とはどこを見るのでしょうか。何を見よ、言うのでしょうか。
「見よ」とは「上を見よ」、ということです。なぜ今が恵みの時なのだろう。なぜ今日が救いの日なのだろうと思う日があるでしょう。
でも、どのような現実であり、どのような自分であっても、その現実に主の恵みと救いが与えられるのだ。その主を「見よ」、というのです。
その救い主なる主を拝する時、それによってどんな現実も愛なる神のうちにあることを知ることができると聖書は語るのです。
主を見上げる時に、恵みと救いを与えてくださる主が共にいてくださることを心から覚え、感謝しましょう。
目を上げて、見て、晴らしい主がいてくださることを喜びましょう!!
4.詩編121:1~2節を連想しました。
私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主から来る。天地を作られたお方から。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 12章34節
宝物は何ですか
34 あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 自分のことで頭がいっぱい
16-20節に出てくるお金持ちは「私の」という言葉を何度も使っていました。
私の作物、私の倉、私の穀物。私の財産。このお金持ちの生き方、ものの見方が「私の」という言葉に表れています。
彼の人生は、自分のことで頭がいっぱいです。
溢れるばかりに祝福され、たくさんの収穫を手に入れたとき、神を愛し、人を愛するという生き方について彼は考えたでしょうか。
彼は自分のことだけ考えていました。目の前の財産を信じ、神を無視した人生でした。
- 心配に振り回されない
後半は神に全面的に信頼して大丈夫だという話です。私たちはさまざまな心配に囲まれているかもしれません。
イエスに従うと決めたら迫害されるかもしれません。
安全に暮らせたとしても、お金や食べ物、着る物、生活のために必要なものは、たくさんあるでしょう。
しかし、神は心配するのをやめなさいとはっきり言います。
神は恵み深いお方であり、神が満たしてくださるから、心配しなくて大丈夫だというのがイエスの約束です。
- 天に宝を積む「施し」
神に宝を蓄える方法が最後に明らかにされます。施しをすることです。
これは恵みのリズムで生きることです。神から恵みをタダでいただいたら、その恵みを次の人に手渡していくということです。
自分のことだけ考えて、視野が狭くなり、神や周りの人が見えなくならないようにするのが「施し」です。
施しのための出発点は、まず神が私たちを愛してくれているということ。
神の愛を思い起こすことが、神と周りの人に恵みを分かち合うことにつながります。
■一緒に考えてみましょう
私たちは一度、立ち止まりたいと思います。私たちは何を求めて、何を貯めようとしているでしょうか。
倉があるとしたら、そこに何が入っているでしょうか。
自分のことだけ考えて生きているのか、神と人を愛することを考えながら生きているのか、しばらく振り返ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 12章6節
神はあなたを忘れない
6 五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 誰を恐れるべきか
ここで初めてルカの福音書では、イエスが弟子たちを「友」と呼びます。
本当に大切なことを打ち明ける前に弟子たちを友と呼びました。
イエスが伝えたかったのは、誰を恐れるべきかです。神を恐れなさいという呼びかけが、繰り返されます。
数々の預言者、イエスの時代ではバプテスマのヨハネが殺されたように、
神に遣わされ、神の言葉を語るというのは、この世界から拒絶され、黙らせようとプレッシャーをかけられ、
時に、殺されることもある。そうであっても、恐れるべきは人ではなく、神なのだというのが友イエスからの正直な言葉なのです。
2.神は決して私たちを忘れない
当時、スズメは安く手に入るものでした。
小さなスズメを神が忘れないとしたら、なおのこと、神のイメージに造られた人間を神は決して忘れることはないのです。
これがイエスと父なる神との関係を確かに保証し、イエスは安心して、自分の使命を全うすることができたのです。
私たちが人々の前で、また隠れたところで、イエスを認めるのか、知らないというのか、どちらでしょうか。
私たちの態度がイエスの私たちへの判断に反映されるのです。
- 迫害への備え
聖霊が何を言えばいいか、助けてくださいと私たちが求めるとき、ちゃんと、その時、言うべきことを言わせてくださるというのが聖書の約束です。
私たちがイエス・キリストの弟子ならば、迫害や試練は避けて通れないものなのです。
だからこそ、お互いのために、祈ることができたらと思います。
新約聖書の中に何通も手紙が保存されたパウロも手紙の最後でよく教会の人たちに、私のためにも祈ってくださいと書いていました。(エペソ6:19など)
■一緒に考えてみましょう
・「神は私を忘れない」という真理を私たちが日々、思い出すために、どのような霊的な習慣が役に立つでしょうか。
・今、私はどのような祈りの助けを必要としているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 11章39節
内面を磨こう
39 すると、主は彼に言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 的外れな信仰
パリサイ人たちはモーセの律法を守るために、自分たちで考えたルールを律法に付け加えていました。
今回の「きよめの洗い」という習慣もパリサイ人の考えたルールの一つでした。
パリサイ人の考え方を明らかにするため、イエスはあえてそれをしませんでした。
パリサイ人が信じているルールを守ることが彼らの関心事になっていて、神の心、思いは後回しにされているという現実です。
旧約の時代から預言者たちが警告していたように、正義と神への愛を疎かにして、表面的な、目に見える部分だけ信仰的な行動をしても、それは的外れな信仰なのです。
2.重荷を負わせるか、重荷を背負うか
「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。」(11:46)
イエスの指摘は、私たちの信仰生活を振り返るきっかけをくれます。私たちの経験が周りの人への証になります。
イエスと一緒にいて、重荷が軽くなることを体験しているでしょうか。
それとも、クリスチャンとなることは重荷となるような信仰生活を送っているでしょうか。
本来イエスは重荷を背負ってくれます。
- 厳しい現実を突きつけられたあと
パリサイ人も律法学者も思わぬタイミングで、イエスからバッサリ切られた結果、激しい敵意を抱き、イエスとはっきりと対立するようになりました。
偽善、さほど大事でないことにこだわり、本当に大事なことを後回しにする。神の正義や愛が後回しにされ、他のことに関心が向いている。
人々を本物に導いているつもりが、逆に邪魔をしている。これらの厳しい言葉を、私たちは復活の光の中で自分を救い出す言葉として、受け止めることができるでしょうか。
■一緒に考えてみましょう
・復活の光の中で、この厳しい現実に目を向けることができますように。
イエスの叱責は、パリサイ人も律法学者も激しい敵意を引き起こしましたが、私たちはどう反応するでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 24章6節
三日目によみがえる
22 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 復活の朝の正直でリアルな記録
日曜日の明け方早くに、女性の弟子たちはイエスの墓に向かったのです。
すると、墓の石がわきに転がされ、主イエスのからだは見当たりませんでした。彼女たちは途方に暮れます。
この段階でも、復活ということを、誰も期待していませんでした。これが私たちにも通じる、正直で、リアルな記録です。
神様は私たちと一緒に神の働きに加わることを喜んでくださいますが、私たちが神の働きを信仰をもって応答できるとは限らないのです。
- 御使いによる決定的な言葉
御使いの言葉によって、イエスの墓がなぜ空なのかという理由が明らかにされます。クリスマスの前と似ています。
どのようにして復活が実現したのかは語られていません。
ただ、イエスが父なる神によってよみがえられたということが神の使いによって告げられます。
復活は神の神秘に属することです。私たちはこのプロセスを理性的にたどることはできません。
「イエスの言葉を思い出しなさい。そして、神の力の大きさと神の約束の確かさにあなたは信頼しますか?」と私たちは問われるのです。
- 目に見えるヒントはわずか
女性の弟子の驚くべき言葉を聞いても、弟子たちの心はまだ閉ざされたままで信じられませんでした。
イースターの朝、弟子たちは絶望の中にいました。
目の前で、すでに驚くべきことが起こっているにもかかわらず、真実として受け止めることができないままでした。
ペテロは立ち上がって、墓まで行きました。確かにそこにあったのはイエスの体を包んでいた亜麻布だけが残っていたのです。
目に見えるヒントはそれだけなのです。空の墓と亜麻布だけです。
■一緒に考えてみましょう
1ペテロ1:3には、復活によって私たちを新しく生まれさせてくださると記されています。
イエス・キリストの復活の新たないのちに生かされると、私たちはどう変わるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 13章22節
エルサレムへの旅
22イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 何に目が留まるか
この1年も礼拝では、ルカの福音書を読んでいきます。ルカの福音書の後半のテーマはエルサレムへの旅です。
エルサレムとはイエスが十字架にかけられるところです。1年かけて、イエスのエルサレムへの旅を一緒に歩きたいと思います。
イエスの旅というのは、目的地に急いで着くことを最優先にしているわけではありません。
このイエスの旅を一緒に歩きながら、私たちはそれぞれ何に注意が向くのか、
神様は何を見せようとしているのか、ぜひ祈りつつ、歩けたらなと思っています。
- イエスが熱望した食卓
イエスは過越の食事をしたかったと語ります(ルカ22:15)。イエスは食事の交わりを本当に大切にする文化の中で暮らしていました。
その中でも、この食卓は特別でした。過越の食事という神様がエジプトから救い出してくださったことを記念する食事でした。
もう1つ特別だったのは、この食事は弟子たちとイエスのために準備された食事だということです。
イエスが過越の子羊としていけにえになることを伝え、それを食べ、飲み、祝福に加わるように招きます。
- 誰もが招かれている
どれだけ私たちはボロボロでみすぼらしく、情けない姿だとしても、イエスは私たちのために命を差し出してくださいます。
新しいいのちを与え、罪を洗い流します。あなたは神の大切なこどもだということを、この杯を飲みながら、思い出すようにと語られます。
裏切る人の手もテーブルの上にあるように、この世界は未だに混沌としています。これが私たちの生きていく世界です。
イエスを覚えて、これを行うとは、イエスが生きたように、私たちも神の御霊に導かれ、混沌とした世界に自分自身を差し出していくということです。
■一緒に考えてみましょう
・イエスの食卓に私が招かれるとは、どのような意味が私にあるでしょうか。どのような祈りが心から溢れてくるでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 11章14-15節
イエスは本物か、偽物か
14さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口をきけなくする悪霊であった。
悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。
15しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イエスは悪霊の力なのか
イエスの働きを、神による聖なる働きではなく、悪霊による力だと非難する人たちがいました。
また、イエスを試すことを目的として、証拠を見せろとギリシャ語の動詞を見ると、繰り返して要求した人たちが出てきます。
イエスが悪霊を神の指によって追い出しているから、もうここは、神の国の一部になっているし、神の手の中にあなたがたはいるのだとイエスは言います。
とても大切な約束です。悪霊の支配から解放されているなら、イエスは私たちに神の国の中での生活をもう始めているのと同じだと約束してくれています。
- 外国人も神を求めたのに
29-32節では、ニネベの人々と南の女王について語られます。共通点は「外国人」と「神に立ち返った」(悔い改め)です。
預言者ヨナは、大きな魚に食べられ3日目に助け出されたことで有名ですが、
ヨナは外国の町ニネベで悔い改めのメッセージを伝え、ニネベの人々は悔い改めたという記録があります。
南の女王も、外国人であり、ソロモン王の知恵を求めました。
外国人も神を求めたのに、なぜイエスを前にして心を固くしているのでしょうか。
- 祝福を選びなさい
明かりは神の象徴です。この文脈では神の言葉、悔い改めのメッセージも含まれるでしょう。
イエスを通して、神に戻ってくる方法が示されています。
「神のことば」に耳を傾けることができる人はイエスを育てた母よりも祝福された人だとイエスは言います。
福音を喜んで受け取る人もいれば、反対に攻撃してくる人もいます。
私たちは神の光をいただくこともできるし、闇を選ぶこともできます。イエスが本物か、偽物か、私たちが判断するのです。
■一緒に考えてみましょう
・イエスが神を明らかに示していても、それを悪霊の力だと呼ぶ人たちはいます。そういう人たちがいたとしても、イエスを救い主と告白できるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 11章1節
二千年間継承された祈り
1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。
「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神に目を向け、お互いに目を向ける
主の祈りは、まず神に目を向けます。神が聖であるように、私たちにも聖さを与えてください。
私たちは罪で汚れています。神の愛と正義がこの社会の中で、私たちのうちに、実現していきますように。
このように、神と私たちの関係に目を向けます。その後で、神の子どもとして、ここ社会で暮らすために、必要なことを求めます。
後半は「私たちの」祈りです。私の祈りではなく、私たち、つまり横の繋がりを意識した祈りになります。
- 御国が来ますように
「御国」が何かという理解がとても大切です。
ルカによれば、イエスは悪霊を追い出し、病人を癒し、聖書の神について教えることを通して、神の王国、神の支配を目に見える形で表してきました。
私たちの日々の生活の中に。この社会も今なお、苦しんでいます。
ここに神の愛と正義が実現しますようにという社会のための祈りでもあります。
神ご自身に期待するしかないのですが、神の価値観を先に教えてもらった私たちが、この世界に対して責任を果たしていくことができるように、
どうか恵みを与えてくださいという私たちの祈りでもあります。
- しつこさも大切だし、神の寛大さかもしれない
5-8節の部分は30年後には聖書の翻訳が変わるかもしれません。
友達のしつこさではなくて、家の人が恥知らずになりたくないので、という風に変わる可能性があります。
粘り強く祈ることの大切さをルカはもう少し後で語りますので、それも大切なことです。
でも、ここは神の寛大さに注目されているかもしれません。
面倒だと神は思わずに、私たちを聖とするため、私たちに御国を表すために、寛大な心を持っている。
だから求めなさいと続くかもしれません。
■一緒に考えてみましょう
・祈りとは私の要求を通すのではなく、神の御心に私たちの心と行動を向けるものだとしたら、私たちの祈りの生活はどう変わっていくでしょうか。
・主の祈りの中で、特に今日、注目したい部分はどこですか。
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:マタイの福音書25章27節
一タラントも隠さない
マタイの福音書 25章14節~18節
天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。
するとすぐに、五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
マタイの福音書 25章27節
それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。
そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 私たちキリスト者は地上で⽣きていくときに⼤切な⼆つの視点があると⾔われています。
それは、⼗字架の様に縦と横の関係、視点です。まずは神様との関係で、
私たちキリスト者は主イエスに愛され、罪赦されている存在であるということです。
これは縦の関係と⾔えます。そして、それを始まりとして、その恵みの中で横との関係を築いて⾏くことがキリスト者の⽣き⽅です。
2. 財産を預けられた 3 ⼈がいました。⼀⼈は 5 タラント。⼀⼈は 2 タラント。もう⼀⼈は 1 タラントを預けらえました。
この 1 タラントは現代で⾔えばいくら位かというと、1 タラントは 6,000 デナリ。1 デナリは 1 ⽇分の労賃だそうですので、
仮に⼀⽇ 1 万円の労賃とすると、1 タラントは 6,000 万円となります。ですから、5 タラントは 3 億円。2 タラントは 1 億 2 千万円。
すごい⼤⾦ですね。問題は 6,000 万円預けられた⼈が地⾯に⽳を掘ってこのお⾦を隠しておいた、ということです。
この記事と似ているたとえ話はルカの福⾳書 19 章 20 節にも出てくるのですが、
そこでは、「ご主⼈様、ご覧ください。あなた様の 1 ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました」
(1 ミナは 100 ⽇分の労賃だそうなのでここでは 100 万円になる)布に包んでしまっておいたか、
⽳を掘って隠しておいたかは別にしても、与えられたものを使わずに隠しておいたのです。
3. このたとえ話から私たちは何を学ぶべきでしょうか?
お⾦を預けた⼈は、しもべを持つほどに裕福な⼈でしょう。
ルカの福⾳書では、この⼈のことを、「ある⾝分の⾼い⼈」と書いています。この⾝分の⾼い⼈はしもべにお⾦を預けています。
その預けた額は違いますが、皆に預けているのです。私たちも神様から預かっている物があることを⽰しています。
それは神様が私たちを信頼して、ひとりひとりにふさわしいものを預けていると⾔っても良いでしょう。
でも、他の⼈を⾒ると、あの⼈はあんな⼤きなものを預けられているのに⾃分にはこんなに少い、と思えるかも知れません。
⾃分に与えられている賜物なんて少しだし、ちっぽけなものだと思っているかもしれません。
あるいは、そもそも、⾃分には何が預けられているか分からない。
⼈と⽐べるわけではないが⾃分には賜物などない、と預けられたものが分からない、と思っているかもしれない。
あるいは、このしもべの様に、⾃分に与えられた賜物をどう使った良いのか分からない。
何をしたら良いのか、どこで賜物を使えるのか分からない、という⼈もいるかも知れません。
この聖書箇所は、いやいや、必ずだれにでも神様から与えられた賜物があります。
それを⼈と⽐べたり、隠すのではなく、使いなさい。という励ましです。
使い⽅が分からなかったら銀⾏に預けるように、まずは神様に⼼を開いて、委ねなさい。神様に⼼を開いて、
委ねることならできるでしょう。そして神とともに賜物を捜すことに歩み出すのです。
そうすれば銀⾏に預けた時に利⼦がつくように、
私たちの歩みが⾃然、⾃分にふさわしい賜物を⽤いる場所、⽅法が⾒つかる、ということではないでしょうか。
4.そのように歩んだある元宣教師のあかしを紹介します。
ペテロ第⼀の⼿紙 4 章 10 節
説教者:松井 将幸 神学生
聖 書:ローマ人への手紙15章22-29節
恵みは分かち合ってこそ
22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを何度も妨げられてきました。
23 しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。
また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、
24 旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、
まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。
25 しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。
26 それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。
27 彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。
異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。
28 それで私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニアに行くことにします。
29 あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。
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ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章42節
イエスの足元に座ることから
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 誰もが招かれている
2000年前のイエスの文化では、女性は台所でマルタのようにもてなしの準備をするのが当たり前でした。
しかし、マリアは、男性の弟子たちに混じって、イエスの足元に座っていました。
イエスも、弟子たちも、このことについて、何も言っていません。これがイエスのグループの特徴でした。
男性も女性も一緒に、イエスの足元に座ることができる。
イエスは当時の常識的な感覚にとらわれずに、イエスご自身が女性の立場をきちんと保証するのです。
「こどもを連れてきなさい」と言われたことにも通じるイエスの一貫した姿勢を見ることができます。
- マルタの不満
私たちは、きっと多くの人がこのマルタの気持ちを理解できるでしょう。
マルタは一生懸命、やっているのです。別に、マルタは目の前に責任を放棄したいわけではありません。
彼女は喜んでもてなしをしたかっただけです。
イエスは私たちの常識の反対をいくので、時に、挑戦的に映ったり、私たちを不満にさせたりすることもあります。
そういう時こそ、信仰の成長のチャンスです。神の価値観が私たちのうちで育とうとしているのです。
- スケジュールの見直しは必要ですか
この出来事の直前、前回2/5にお話しした内容を思い出してください。
良きサマリア人と呼ばれる話がありました。「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きてるんだ」と言えるかもしれないです。
誰があなたの隣人かと考えるよりも、あなたは隣人になるために、行動しなさいとイエスは言われました。
行動することは大切です。でも、良い行動をするために、イエスの足元に座る時間がなくなってしまうようなスケジュールは、見直さなければならないのです。
■一緒に考えてみましょう
・マルタのように不満をイエスご自身に伝えるということは大切な習慣です。
・スケジュールの見直しは必要でしょうか。
説教者:安藤 理恵子 師
聖 書:マタイの福音書19章13-15節
子どもに未来を与える神
〜安全な居場所を見つける〜
13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。
すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。
14 しかし、イエスは言われた。
「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。
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説教者:ブライアン・ラスキー 師
聖 書:ルカの福音書18章18-30節
どれだけやれば十分か?
18 また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
20 戒めはあなたも知っているはずです。
『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」
21 するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
22 イエスはこれを聞いて、彼に言われた。
「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
23 彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
24 イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
26 それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」
29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、
30 必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」
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説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章29節
隣人愛の範囲
29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とはだれですか。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「自分は正しい」という罠
神と人を愛する。これが聖書の根幹にある教えです。律法の専門家は隣人とは誰かとイエスに質問しました。
律法の専門家は隣人とは誰かという質問の答えをすでに持っていました。彼は自分では隣人を愛しているつもりでした。
「自分は正しい」、すでにできているという思い込みの中にいる限り、彼は本当の意味での隣人を愛することから離れたままなのです。
ここにイエスは光を当てます。自分は正しいという思い込みからイエスは救い出そうとされるのです。
- 誰が隣人になったか
イエスは質問を変えたことに気づきましたか。元々は「隣人は誰ですか?」から始まりましたが、最後に問いかけたのは「誰が隣人になったか?」でした。
隣人は誰かと議論し続けることよりも、あなたが困っている人の隣人になりなさいとイエスは言われるのです。
神と人を愛するということは決して簡単な道ではありません。
私たちが勝手に簡単な道に変えて、偽の安心で満足することがありませんように。イエスと共にイエスの道を歩き続けられますように。
- サマリア人とイエスの生き方
サマリア人が被害者に近づくという選択は、血まみれになってその人を持ち上げ、歩けない人を乗せて歩き、
自分のポケットから別の人のためにお金を出し、感謝されることもなく、嫌われ続けるかもしれない、そういう危険を冒すことを意味しました。
イエスが十字架に向かって覚悟を決めて歩くとは、まさにこのような生き方なのです。
神が私たちの隣人になってくれたのは、私たちも必要としている人の隣人になりなさいという神の使命を託されているということなのです。
■一緒に考えてみましょう
・私は誰の隣人になるようにと神様に召されているでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮
17 さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- モーセの時代から変わらない人の本質
この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。
- 勇気を出して信仰の旅に
17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。
- 幼子だから神に信頼できる
成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。
■一緒に考えてみましょう
・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章51節
イエスの覚悟、弟子の覚悟
51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 苦難と栄光を見据えた旅
マタイやマルコの福音書では、イエスはガリラヤからエルサレムへさらっと移動しますが、ルカは10章ほどかけた長い旅として描きます。
アブラハムが生まれ故郷を離れて旅を始めたように、出エジプトから約束の地を目指したように、バビロンへ捕囚に連れて行かれ、
また約束の地へ戻ったように、旅というのは聖書によく出てくるイメージです。
この福音書を読む読者たちも、信仰の旅をしている最中であり、どこで何をしていたとしても、
主イエスと一緒に宣教をしている旅仲間として見るようにという現代の教会へのメッセージだとも言われます。
- 1歩目から拒まれる
「あなたがたは、自分たちのことを知らないのです。人の子は、命を奪うためではなく、救うために来たのです」
後の時代の人が55節でイエスが叱った内容として、聖書に付け加えた言葉として知られている言葉です。
ルカのオリジナルの言葉として書いていませんが、でもイエスの主張を伝えています。
イエスは、裁きの警告をするが、裁きそのものは後に来ることが多いのです。
なぜなら、神は寛大で人々に振り返る時間を与えてくださるからです。
- 新たな1歩を踏み出す覚悟
イエスが十字架を通って、栄光に至る、その第一歩を踏み出す場面で、57-62節のやりとりが行われているのです。
そこそこの現実で、自分が困らなければいいような気がするかもしれませんが、
イエスは本気です。ほどほどのクリスチャンでいいと思っているかもしれません。
しかし、イエスは新たな一歩を踏み出すように迫ります。
日々、私たちの注目を逸らそうとする出来事は多くありますが、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいられますように。
■一緒に考えてみましょう
・イエスの覚悟と弟子の覚悟はいつも温度差があるでしょう。それは私たちにも言えることです。
今日、どのような語りかけを神から受けているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章46節
的外れな議論
46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 偉大な神が人の手に渡される
人々を苦しめる悪魔の力が描かれますが、イエスは悪霊から救い出しました。
神の偉大さに人々が驚いている中で、イエスは自分に起こることを告げるのです。
イエスは神の偉大さを表し、人々から拍手喝采されるのではなく、最後は人々から拒絶され、裏切られ、死刑にされることになる。
この落差に驚かされますが、イエスは救い主として、この道を歩いていかなければなりません。
ここに神の神秘が隠されています。私たちの常識は揺さぶられ、イエスの価値観が身についていくのです。
- 誰が偉いかという的外れな議論
当時、こどもは、取るに足らないと見なされる小さな存在の象徴です。
誰からも相手にされず、見向きもされない存在のこどもと、自分は同じなんだとイエスは言うのです。
これが神の神秘です。見向きもされない人を受け入れる人は、イエスを受け入れるのと同じだとイエスはここで語っています。
誰が一番偉いかという議論をする弟子たちに向かって、むしろ小さい人に目を向ける心を持ちなさいとイエスは言われています。
これこそ、神の生き方なのです。
- 的外れな生き方でも、神は
弟子に目を向けるなら、今日、読んだ部分だけでも、悪霊を追い出すことができず、
イエスの受難の預言を理解せず、誰が偉いかに関心があり、他のグループを規制しようとする。
どれも、的外れな生き方です。日々、十字架を負って、イエスについて行くという生き方とは、程遠いと言えます。
これが弟子の現実であり、私たちでもあると思うのです。
それでも、主イエスは私たちと一緒にいることをやめませんし、私たちに忍耐強く関わってくださるのです。
的外れなことがあっても、新しい1年も、私たちもイエスから離れずに、生活していきましょう。
■一緒に考えてみましょう
・イエスを受け入れることと、取るに足らないと感じる人を受け入れることは同じことだと言われるなら、私はどのような人に改めて目を向けるように促されているでしょうか。
説教者:佐々木 望 牧師
聖 書:ヨシュア記 1章1-11節
新しい時代に向かって
1 主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。
4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。
わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。
これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。
そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。
そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。
『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。
あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章18-20節
初詣は教会で
18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。
「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ルカ福音書の前半の山場
イエスは一体、誰なのだろうかと弟子たちも思っていたし、その地域を治めていたヘロデすら、誰なんだと思っていました。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(20節)この問いかけは私たちにとっても重要です。
年の初めの今日は、Holy Longing、聖なる憧れという話から始めましたが、
私たちは自分の心の奥底で、本当のところ、何を求めているのか自分自身に聞いてみたいと思っています。
- 受難と復活という救い主の道
多くの苦しみを受け、当時の聖書の専門家たちから捨てられ、殺され、3日目によみがえる。
これが救い主の運命だとイエスは語りました。救い主のイメージとは全く違います。私たちの想像する救い主とも全く違うと思います。
しかし、ここに神の深い計画があるのです。人は生まれながらにどこまでも自分勝手ですが、
イエスは人のために命を差し出す生き方があると模範を示します。
神に自分を差し出すなら、私たちは生きるというのは、本当に神の奇跡です。
- イエスの最後(出エジプト)について
旧約聖書をモーセ律法と預言書と表現することがあるのですが、モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表していて、
聖書の約束がイエスによって実現しようとしていることが暗示されています。
31節の「最後」という言葉は出エジプトを意味する言葉であり、イエスのエルサレムでの十字架の死が、新しい出エジプトだというのです。
エジプトの奴隷生活から救い出され、イスラエル民族は神の民として、この世界の光となる使命を受けました。
同じように、イエスを信じる人たちは神との関係を回復し、この世界の光となるように使命を受けるのです。
■一緒に考えてみましょう
・新しい年を迎えた私たちの内側にある燃える火に目を向けてみましょう。
私たちの内側に「聖なる憧れ」に至る声を聞くことはできるでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮
17 さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- モーセの時代から変わらない人の本質
この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。
- 勇気を出して信仰の旅に
17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。
- 幼子だから神に信頼できる
成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。
■一緒に考えてみましょう
・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章51節
イエスの覚悟、弟子の覚悟
51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 苦難と栄光を見据えた旅
マタイやマルコの福音書では、イエスはガリラヤからエルサレムへさらっと移動しますが、ルカは10章ほどかけた長い旅として描きます。
アブラハムが生まれ故郷を離れて旅を始めたように、出エジプトから約束の地を目指したように、バビロンへ捕囚に連れて行かれ、
また約束の地へ戻ったように、旅というのは聖書によく出てくるイメージです。
この福音書を読む読者たちも、信仰の旅をしている最中であり、どこで何をしていたとしても、
主イエスと一緒に宣教をしている旅仲間として見るようにという現代の教会へのメッセージだとも言われます。
- 1歩目から拒まれる
「あなたがたは、自分たちのことを知らないのです。人の子は、命を奪うためではなく、救うために来たのです」
後の時代の人が55節でイエスが叱った内容として、聖書に付け加えた言葉として知られている言葉です。
ルカのオリジナルの言葉として書いていませんが、でもイエスの主張を伝えています。
イエスは、裁きの警告をするが、裁きそのものは後に来ることが多いのです。
なぜなら、神は寛大で人々に振り返る時間を与えてくださるからです。
- 新たな1歩を踏み出す覚悟
イエスが十字架を通って、栄光に至る、その第一歩を踏み出す場面で、57-62節のやりとりが行われているのです。
そこそこの現実で、自分が困らなければいいような気がするかもしれませんが、
イエスは本気です。ほどほどのクリスチャンでいいと思っているかもしれません。
しかし、イエスは新たな一歩を踏み出すように迫ります。
日々、私たちの注目を逸らそうとする出来事は多くありますが、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいられますように。
■一緒に考えてみましょう
・イエスの覚悟と弟子の覚悟はいつも温度差があるでしょう。それは私たちにも言えることです。
今日、どのような語りかけを神から受けているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章46節
的外れな議論
46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 偉大な神が人の手に渡される
人々を苦しめる悪魔の力が描かれますが、イエスは悪霊から救い出しました。
神の偉大さに人々が驚いている中で、イエスは自分に起こることを告げるのです。
イエスは神の偉大さを表し、人々から拍手喝采されるのではなく、最後は人々から拒絶され、裏切られ、死刑にされることになる。
この落差に驚かされますが、イエスは救い主として、この道を歩いていかなければなりません。
ここに神の神秘が隠されています。私たちの常識は揺さぶられ、イエスの価値観が身についていくのです。
- 誰が偉いかという的外れな議論
当時、こどもは、取るに足らないと見なされる小さな存在の象徴です。
誰からも相手にされず、見向きもされない存在のこどもと、自分は同じなんだとイエスは言うのです。
これが神の神秘です。見向きもされない人を受け入れる人は、イエスを受け入れるのと同じだとイエスはここで語っています。
誰が一番偉いかという議論をする弟子たちに向かって、むしろ小さい人に目を向ける心を持ちなさいとイエスは言われています。
これこそ、神の生き方なのです。
- 的外れな生き方でも、神は
弟子に目を向けるなら、今日、読んだ部分だけでも、悪霊を追い出すことができず、
イエスの受難の預言を理解せず、誰が偉いかに関心があり、他のグループを規制しようとする。
どれも、的外れな生き方です。日々、十字架を負って、イエスについて行くという生き方とは、程遠いと言えます。
これが弟子の現実であり、私たちでもあると思うのです。
それでも、主イエスは私たちと一緒にいることをやめませんし、私たちに忍耐強く関わってくださるのです。
的外れなことがあっても、新しい1年も、私たちもイエスから離れずに、生活していきましょう。
■一緒に考えてみましょう
・イエスを受け入れることと、取るに足らないと感じる人を受け入れることは同じことだと言われるなら、私はどのような人に改めて目を向けるように促されているでしょうか。
説教者:佐々木 望 牧師
聖 書:ヨシュア記 1章1-11節
新しい時代に向かって
1 主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。
4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。
わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。
これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。
そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。
そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。
『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。
あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章18-20節
初詣は教会で
18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。
「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ルカ福音書の前半の山場
イエスは一体、誰なのだろうかと弟子たちも思っていたし、その地域を治めていたヘロデすら、誰なんだと思っていました。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(20節)この問いかけは私たちにとっても重要です。
年の初めの今日は、Holy Longing、聖なる憧れという話から始めましたが、
私たちは自分の心の奥底で、本当のところ、何を求めているのか自分自身に聞いてみたいと思っています。
- 受難と復活という救い主の道
多くの苦しみを受け、当時の聖書の専門家たちから捨てられ、殺され、3日目によみがえる。
これが救い主の運命だとイエスは語りました。救い主のイメージとは全く違います。私たちの想像する救い主とも全く違うと思います。
しかし、ここに神の深い計画があるのです。人は生まれながらにどこまでも自分勝手ですが、
イエスは人のために命を差し出す生き方があると模範を示します。
神に自分を差し出すなら、私たちは生きるというのは、本当に神の奇跡です。
- イエスの最後(出エジプト)について
旧約聖書をモーセ律法と預言書と表現することがあるのですが、モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表していて、
聖書の約束がイエスによって実現しようとしていることが暗示されています。
31節の「最後」という言葉は出エジプトを意味する言葉であり、イエスのエルサレムでの十字架の死が、新しい出エジプトだというのです。
エジプトの奴隷生活から救い出され、イスラエル民族は神の民として、この世界の光となる使命を受けました。
同じように、イエスを信じる人たちは神との関係を回復し、この世界の光となるように使命を受けるのです。
■一緒に考えてみましょう
・新しい年を迎えた私たちの内側にある燃える火に目を向けてみましょう。
私たちの内側に「聖なる憧れ」に至る声を聞くことはできるでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章8-12節
居場所、ここに
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 羊飼いが神の民の代表
羊飼いたちが神の民を代表して、大きな喜びを聞き、赤ちゃんを見つけると告げられたのです。
つまり、最初のゲストとして、救い主の誕生を見てきなさいと羊飼いたちが、代表として選ばれたのです。
時の権力者が招かれたのではなく、夜、野宿をしながら羊の群れの世話をしている人たちが、最初のゲストに選ばれました。
見ず知らずの羊飼いが会いに行ける距離に、イエス様はいてくださいます。これが救い主と私たちとの距離感です。
- 恵みに感謝する
御使いの話した通り、羊飼いたちは救い主の誕生を目撃し、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。
この記録を読んで、ある言葉を思い出しました。
「神の本質が恵みであるとすれば、神の民である人間の本質は、私たちの感謝である。」神の恵みというのは身に余るようなプレゼントです。
私にはもったいなくて受け取れないような贈り物が神の恵み、本質だとするなら、神の民、神の子供として育てられる人間の本質は、
いただいた恵みに対する感謝だというのです。このような感謝の積み重ねが、神の子どもになっていくことだと私は思います。
- 教会が居場所の1つに
私は教会のコミュニティは可能性に満ちていると感じます。理想的な教会だとは言いません。簡単に解決できない問題もあります。
すぐに癒すことのできない傷もあります。それでも、常にイエス・キリストを中心にお招きし、忍耐強く一緒にいるながら、
ここで神の恵みを見せてくださいと祈るなら、その祈りは実現していくと心から信じています。なぜなら、それは神の願いと重なるからです。
ただし、神は人の気持ちを無視して、強引に物事を進めるのではなく神様は場所を作って待っています。行くかどうかを決めるのは私たち自身です。
■一緒に考えてみましょう
・この1年を振り返って、恵みを数えて感謝しましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2:1-7
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章67-69節
「でこぼこ」の恵みが伝わる
67 さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。
68「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、 しもべダビデの家に立てられた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 気まずさが表に出た後
ザカリヤは長年、祈ってきたけど、いざ、男の子が与えられると聞いて、すぐに神の約束を信じることはできませんでした。
神の前に正しい歩みをしていたザカリアでしたが、神の喜びの知らせを信じられませんでした。このような場面が罪の気まずさです。
人の罪や弱さが明らかになり、成熟や聖さに向かう中で、神はザカリヤを見捨てません。
この後、ザカリヤはエリサベツの妊娠を通して、神の約束が実現していくことを自分の人生の中で体験しました。
- 喜びは伝わっていく
エリサベツの悩み、苦しみを知っていました。どうすることもできないことでした。
そういう中で、神様がエリサベツに大きな憐れみをかけてくださったことは、周りの人にとっても大きな喜びとなりました。
信仰を持っている人たちが悩みつつ、苦しみつつも、神と共に誠実に生きる姿を通して、神の恵みは自然と伝わっていくと言えるかもしれません。
私たちは時間をかけて神への賛美に至ることをクリスマスを待ち望む時期に、思い出せたらと思っています。
- すでに何かが始まっている
すぐに信じられない場合でも、神は恵みを与え、エリサベツは妊娠し、無事に出産が守られ、ザカリヤは神の約束に従い、ヨハネと名付けました。
クリスマスの時期、神様の福音が伝わりますようにと祈ります。必死に福音を伝えなければと力むこともありますが、神の福音は伝わっていきます。
神はすでに動いていて、すでに何かが始まっています。神の働きに気づき、私たちも神のなさることに信頼し、興奮し、喜んでいるなら、
自然と「でこぼこ」の恵みは伝わっていくでしょう。
■一緒に考えてみましょう
・話せるようになったザカリヤが神を賛美したように、私たちの口から神への賛美が溢れてきた時はあるでしょうか。しばらく思い出してみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:マタイの福音書 1章18-19節
でこぼこのままいられる関係
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 不安が大きな恵みに
ヨセフは自分の無実を証明し、マリアを訴えることもできましたが、密かにマリアと別れ、周りからの誤解を甘んじて受けることにしました。
ヨセフというのはよくできた人でした。しかし、御使いが現れ、自分の想像とは全く違う形で、ヨセフは父親になるようにと神に呼ばれました。
御使いに言われた「イエスと名付けなさい」という意味は、救い主の父親として生きなさいという意味でした。
神から途方もない使命をヨセフはいただいたのです。
- 「恐れるな」「一緒にいる」という約束
マリアにもヨセフにも主の使いが語った言葉があります。「恐れるな」という言葉です。
神様から託され働きを始めようとするとき、不安や心配、恐れを感じるのは自然なことです。
「恐れるな」と言われる神は、神が蒔いた種の成長を確かに守り、豊かな実を結ばせてくださいます。
マタイは「インマヌエル」という神の古代の約束も思い起こさせてくれます。「神が私たちと共にいる」という意味です。
この神の言葉に信頼し、ヨセフは父となることを決断します。
- 気まずさのための安全な場所
「真実を愛する共同体は、罪の告白の気まずさ、赦しの気まずさ、癒しの気まずさのために安全な場所を作ります。
真実と告白が実践されているところでは、共同体は忠実さ、つまり、メンバーが自分の罪と弱さを明らかにし、
成熟と聖性に向かって進むときにお互いを見捨てないという保証を頼りとします。」クリスティーン・ポール『共同体の中で生きる』より
マリアとヨセフの離婚の危機は神様によってもたらされ、神様によって回復させられました。
気まずさを体験し、お互いを見捨てないことを彼らは深く知ったことでしょう。
■一緒に考えてみましょう
・私たちの生活を振り返って、どのような場面で「恐れるな」「一緒にいる」という神の約束を思い出すことができたらいいと感じますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章28-29節
自分のでこぼこを受け止める
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 御使いとマリアの温度差
この御使いの言葉は非常に重要です。
「マリア、喜んでください。あなたは神からの恵みを受ける人なんです。神様が特別にあなたと共にいてくださいます!」と御使いに言われたのです。
マリアはこの言葉にひどく戸惑ったと書いてあります。神の代理である御使いとマリアとの間に大きなギャップがあります。ここに注目したいと思います。
御使いはお祝いしたいと思っていますが、マリアはひどく戸惑っていましたし、恐ろしいと思っていました。
- 戸惑っても、会話を止めない
マリアの戸惑いは、人が聖書の神と出会う場面を非常にわかりやすく伝えています。
神は恵みを与えようとしても、受け取る側の人間はすぐに喜ぶことはできないのです。
しかし、御使いはここで諦めません。言葉を続けます。マリアは耳を傾けました。自分の疑問を率直に伝えるなど、会話を続けました。
御使いが語ったことの全てを、マリアは正確に理解したかどうかはわかりませんが、
マリアは「神様に仕えるしもべです。神の計画が実現するように」と祈りました。
- 神の目で自分を見つめ直す
実は人は自分の力だけでは、自分のでこぼこを受け止めることはできません。
できたと思っても、私たちの受け止め方は歪んでいたり、偏っていたりします。神の目で、自分を受け止める。
これが聖書の知恵なのです。自分の評価ではなく、神の評価、神が私をどう見ているかという視点で、自分のでこぼこを見直すと、
今までは気づかなかった、神の恵みが自分にも注がれていることを発見できると聖書は約束しています。
最初は戸惑っても、神のことばに耳を傾け続けることを止めないでください。あなたは神の大切な息子であり、娘なのです。
■一緒に考えてみましょう
・神の目で、改めて自分を見つめ直したら、どのように神の目に自分が映っているか想像してみましょう。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章17節
神に養われる生き方
17 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の代理人として遣わされる12弟子
12人の弟子はイエスの代理人として、神の支配を宣べ伝えることと、病気を治すことの二つの仕事が与えられました。
悪霊をコントロールし、病気を癒す力によって、神がここを文字通り治めていること、支配していること、
神の優しい手の中にあることを示す証拠となるのです。
この旅を通して、神の支配がここにあることを伝え、イエスに託された権威と力を使うことで、
身に余るほどの感謝を受けたことでしょうし、拒絶されることも多くあったことでしょう。
- 「旅には何も持って行かないように」
この意味は、神に頼って旅に出なさいというメッセージです。
神の働きを託されている人は、神から託された力と権威によって、人々を癒し、助けることができるから、
神から恵みを受け取った人たちから、必要なものを受け取る。これがイエスの言いたいことです。
ある町に行ったら、一つの家に入り、そこに留まるというのは、自分の環境を整えることに心が奪われ、神の使命が覆われてしまわないようにとのことです。究極的な養いは神にあることを学ぶ旅です。
- 宣教の特等席で感動してほしい
この人たちを帰しましょうと言う弟子たちの指摘は真っ当に思えます。
弟子たちには群衆を助ける食糧はないのです。しかし、イエスの代理人として与えられた立場があれば話は別です。
どれほど荒れ果てた場所であろうと、物が不足していようと、神様がもてなしたい人を、神様の恵みによって、弟子たちがもてなすことができるのです。
実際、弟子たちが配り、弟子たちが人々の満足している姿を一番近くで見るのです。
イエス様は一緒に奉仕する人を探しています。
人手不足だからではありません。宣教の特等席で一緒に感動してほしいのです。
■一緒に考えてみましょう
・今の時代、私たちはどのような時に、神の国(神の力強くも、優しい手で守られている)を感じるでしょうか。
・宣教の特等席への招待を受けているとしたら、自分の率直な気持ちはどうでしょうか。
説教者:荒木 泉 宣教師
聖 書:エペソ人への手紙2章8-10節
恵みによって備えられた人生を歩む
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 8 章 44 節
勇気を出して頼ってみる
44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 神に見放された人はいない
イエスに促され、震えながらも彼女は正直に自分の身に起こったことを全て話しました。
彼女は神から見放された人のように 12 年間も扱われてきた人ですが、イエスから見たら、神から見放された人など、誰もいないのです。
「安心」とはヘブル語のシャローム、神からの平和、平安です。イエスは女性の信仰を認め、神との平和を保証しました。
彼女の体だけでなく心も癒されたことでしょう。大胆に、勇気を出して神に頼る人を神はきちんと受け止めてくださいます。
2. 信仰が問われるヤイロ
娘が死んだと報告を受けたヤイロにイエスは「恐れないで信じなさい」と言われます。
もしここで諦めたらイエスは家に行かなかったでしょう。ヤイロは必死に恐れないで信じようとイエスにしがみついたのです。
家に着いたら、イエスのすることを親族はあざ笑いました。ここでも、ヤイロはイエスを信じるか問われるのです。
イエスの約束、イエスの行動を信じることは周りの人々から笑われるようなことにもなります。
それでも信じるかと問われます。
3. イエスは汚れを避けない
当時、聖さを保ことは社会の中で最も大事なことでした。神と人を愛することより、自分が汚れないことが優先される社会でした。
出血している女性と死体というのは最も汚れたものの代表的なものです。誰も触りたくない、避けたい、線を引きたいと思うことなのです。
しかし、イエスは女性がイエスに触ることを許しましたし、死体に触れて「子よ、起きなさい」と命じられました。
イエスは私たちの汚れに触れることを嫌がりません。これが十字架の罪の赦しにつながります。
イエスは私たちの汚れを表に出し、そして洗い流してくださるのです。
■一緒に考えてみましょう
・今、大胆に神にしがみつきなさいと促されているように感じることはあるでしょうか。振り返ってみましょう。
・イエスは私たちの汚れを避けることはありません。むしろ、汚れに触れて、聖めてくださいます。
神の赦しは私たちの間で共有する価値観になっているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 8章24節
絶体絶命からの救出
24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。
イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 人生の嵐の中で
古代世界では、海や湖は悪魔の支配を象徴する場所であり、終末には神に滅ぼされると言われる場所というイメージがあります。
もう1つ、眠ることは神の守りの象徴です。イエスは海・湖の真ん中にいても、神に守られ、支配されていることをよく理解していました。
慌てふためいている弟子とイエスは対照的です。イエスの弟子も、人生の嵐に巻き込まれます。
私たちにはもう限界に見えても、そこから救い出してくださるのが私たちの神なのです。
- イエスの支配の中にいる
「レギオン」というのは、名前というか、数千人の兵士の一団を指す軍隊の言葉だそうです。
ルカが説明しているように、1つの悪霊が彼を縛っていたのではなく、文字通り、大勢、数千規模の悪霊が彼のところに入っていたのです。
数千規模の悪霊との戦いは壮絶なものだったでしょうが、嵐の場面と同様にイエスの前では大したことではないかのように、
イエスがこの状況を支配していることが描かれています。32節には「許す」という動詞が二度出て、イエスが完全に支配していることを強調しています。
- 代理人に選ばれた人
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」(39節)とイエスは悪霊につかれた人に使命を託します。
普通は服を着ないで、墓に住んでいたような人を、自分の代理人にしないかもしれません。これがイエスらしい人選なのです。
私たちも神のしたことを語ることができます。イエスを前にして、ある者は近づき、ある者は距離を置いたように、
全ての人が私たちを歓迎することはありません。それでも、現代における神の物語を語る務めを託されているのです。
■一緒に考えてみましょう
・「神があなたにしてくださったこと」の中から印象に残っている話を聞かせてください。
・イエスに支配されていることを確信したい領域があったら、一緒に祈りましょう。
ルカの福音書講解
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:ガラテヤ人への手紙6章1節~2節
柔和な心で生きる
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「柔和」という言葉から直ぐに思い出す聖書箇所がありますね。
マタイ5章5節「 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
「柔和な人」別訳では「へりくだった人」とあり、その人は土地を受け継ぐような豊かさを得る、ということでしょう。
この言葉は詩編との関連で語られているようです。
詩編37節11節 しかし、柔和な人は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。
マタイの福音者11章28節~29節では、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。
柔和な心で生きるのは、豊かさを受け継ぐ秘訣であり、キリストの様な他の人を生かす生き方だと教えられますね。
ですので、柔和ということは、謙遜とかへりくだる、ということですが、
それは決して弱々しいとか、力が弱いということではないと思います。豊かな生き方です。
- 柔和かどうかはどうしたらわかるのか?
皆さんは自分は柔和な人だと思っていますか?
自分は柔和な、穏やかな人だと思っていいても、ちょっとしたことでムっとしたり、表には出なくても心の中で怒りが出たりするのは柔和とは言えなのでしょう。
柔和とは、自分一人でいる静かな時に、自分は柔和な心でいられると言うことではなく、他者とのかかわりの中で、人との関係の中で柔和さというものが分かるのだ、とある方が書かれています。
「柔和」ということは、他者とのかかわりの中であらわになるので、ガラテヤ書で「柔和な心で正してあげる」。
そして、互いに重荷を負い合うという関係性の中で柔和に生きるようにと勧められています。
- 「炊き出しの列に並ぶイエス」のスライドを見る
「作者のアイへンバーグさんは、芸術家の鋭い眼で、いったい神さまはどちらの側にいるんだろう、
炊き出しをする側なのか、それともそれを受ける側か、ということを考え、そして表現しています。
普通ならボランティアする側、助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいておられる、とイメージしてしまう。
しかし、彼は『そうではない。神さまはむしろ、手助けを必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩たちと共に立っておられるんだ』と見抜いたのです」(「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に」本田哲郎著 岩波書店)
他者の中にそれも疲れた人、重荷を負っている人、弱く小さいと思われている方々に寄り添っておられるイエスを見出し、
そのイエスの生き方に倣おうとすることが柔和な心で生きるということにつながる様に教えられています。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 8章11節
神のことばは「種」
このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 女性に光を当てるルカ
他の福音書記者がずっと後まで言及しない女性たちが登場します。
実際、彼女たちは十字架を見守り、埋葬の手助けをし、墓に一番乗りしました。
イエスの旅は、女性たちのサポートがあったという面をルカは明らかにします。
イエスの前では、当時あった、人種の壁もなければ男女の壁、職業の壁もなく、文字通り、イエスが出会うあらゆる人に福音を伝えていたことがわかります。元々は全然違う生活をしていても、一緒にいてイエスに仕え続けたのです。
- どのような土になるか
この4つの土のたとえによって、自分はどのように神のことばに反応する人生を歩んでいるのか、歩みたいか、祈るように促されています。
これは一回の決断というより、人生をかけて、どのように神の言葉に応答するかということなのです。
信じてすぐに悪魔が信仰を取り去ることもあれば、試練のときに身を引いてしまうこともあります。
思い煩いや、お金、快楽で遮られてしまう日があったとしても、神のことばにしがみつき、実を結ぶ生き方がここにあります。
- 「聞く耳のある者は聞きなさい」
イエスは家族を否定しているのではなく、弟子たちがみことばを受け入れることを励ましていると言われます。
イエスにとっての家族とは、みことばに応答する人なのです。神の言葉を聞いて行うなら、実を結ぶだけでなく、イエスの母、兄弟、姉妹になります。
明かりを付けるのは、光を隠すためではなく、部屋にいる人が見えるようにするためです(16節)。
光は神様を表します。光があるのに隠したりしないように、神のことばの種が蒔かれたのは実を結ぶためです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」「聞き方に注意しなさい」と言われています。
■一緒に考えてみましょう
・「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われているということからわかるように、これは運命論ではありません。
どの土に落ちたかを決めるのは神であるという意味でこの話は語られていません。私たちの「聞き方」を振り返りなさいと言われているのです。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 7章50節
人生を変える「ゆるし」
50 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 赦された女性の精一杯の奉仕
罪深い女性にも常識はあります。このような場面で出ていくことは一般的な行動ではないことは彼女もわかっていました。
それでも、罪が赦された感謝を彼女は自分の精一杯の行動でイエス様に伝えたかったのです。
イエスもまた、周りの人から変な目で見られるリスクを負いつつ、彼女からの奉仕を受け取りました。
彼女もイエスも、周りに流されず、勇気ある決断をしました。ただ、パリサイ人シモンは先入観から、この状況を理解できなかったのです。
- 安心して行きなさい
「安心して行きなさい。」この言葉を今日、私たちは心に留めましょう。
私たちの過去は変えられません。しかし、神はその負債を免除すると言われます。
あなたの信仰があなたを救ったのです。神が免除するというのだから、誰があなたを責めるのか。
周りの人からはあなたを歓迎しないかもしれないけど、神はあなたを歓迎する。
あなたは神に喜んで迎えられている。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。
- 「どう始める、伝道」
この良い知らせを伝えなさいと使命を受けています。今いる場所でお互いを歓迎し合うように招かれています。
わかっています。歓迎するのは簡単なことではありません。教会の中でも、失敗することもあるでしょう。
しかし、あきらめずに、チャレンジし続けたいのです。私たちは誰もが神に赦され、愛され、歓迎されているのです。
イエス様はパリサイ人シモンの家にゲストとして行きました。彼もまた神に招かれているからです。
人生を変える神様からの圧倒的な赦し、温かい歓迎を私たちが受け止め、歓迎を表す人にさせていただきたいと願います。
■一緒に考えてみましょう
・今の私が神様に託されている第一歩は何でしょうか?私の内側から自然と湧き上がってくる行動は何でしょうか?
神様は私にどこに目を向けるように促しているでしょうか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 7章34節
大酒飲みとディスられたのは誰
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 自分の期待と違う
バプテスマのヨハネと言えば、ルカの福音書でイエスよりも先に登場した特別な使命を受けた人物ですが、
牢屋の中のヨハネは、自分の確信が揺らいでいました。イエスこそ救い主だと考えていましたが、
イエスはヨハネが期待していたようなことをしていないのです。
バプテスマのヨハネのような特別な使命を託された人でも、神のなさることと自分の想定していることとの間に、開きがありました。
神の計画を理解しているつもりでも、私たちには理解できないことがこの世界には起こります。
- 神の計画の本質を問い続けたい
当時、多くの人たちが理解していた、また期待していた救い主というのはローマ帝国の支配から解放してくれるという救い主でした。
それも聖書の一部に基づいた理解でしたが、神の救いの計画はもっと根本的なことから刷新するものでした。
神の支配の中に、祝福に値しないと思っている人たちを含めて、全ての人が招かれる。これが神の計画なのです。
ヨハネでさえ、イエスの働きの本質を理解することに苦労しました。
私たちも、神の働きの本質を理解するのに苦労したとしてもそれは不思議ではありません。
期待と違っても、問い続けたいのです。
- 共通している点としていない点
ヨハネとイエスの働きで共通していた点は、罪人とみなされる人を招き、彼らは罪を認め、神に立ち返りました。
自分はすでに神を十分に理解していると考えている宗教家たちの多くはヨハネとイエスを拒み、批判を受けました。
批判の内容は正反対です。バプテスマのヨハネは禁欲主義で、イエスは罪人と一緒に食事をするので大食いだの大酒飲みだのと悪口を言われます。
ヨハネとイエスは全然タイプが違いますが、それぞれの方法で人々を神に導くのです。
■一緒に考えてみましょう
・自分の期待とは異なる答えが神様から返ってきたと思うような出来事は思い浮かぶでしょうか。
そこから神の本質について学ぶことはあったでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 7章13節
もう泣かないで
主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 人生のどん底の女性に声をかける
夫に先立たれてしまった女性が、一人息子も亡くしてしまった。かける言葉がありません。
このような人生のどん底とも言える状況にいる母親を見て、イエスは深く憐れんだと書いてあります。
内臓がぎゅーっと締めつけられるという言葉です。私たちが「かける言葉が見つからない」と思うような場面を前に、
イエス様もまた、この状況を見て、誰よりも心を痛めたのです。そして、声をかけます。
「泣かなくてもよい」もう泣かないでと言うのです。
- 信仰はどこに
信仰はどこにあったのでしょうか。百人隊長のしもべは百人隊長の信仰によって癒されましたが、
この出来事では、誰が信仰を持っていたのでしょうか。それはイエスご自身です。
イエスは信仰が人々のうちに育っていくのを喜びますが、今回は、誰かの信仰がイエスを動かしたというよりも、
この母親の状況によってイエスの内側が動かされたのです。
イエスはあえて棺に触ります。イエスは自分が汚れる可能性があっても気にしません。
イエスの十字架はこの世界のすべての汚れを洗い清めてくださいます。
- イエスに触れてほしいところはありますか
イエス・キリストは無防備な、傷つきやすい人を招きます。
夫に先立たれ、一人息子をも失ってしまった、あのお母さんのような人が、イエスの愛を見つけることができました。
神の愛が届かないところはありません。イエスがあのお母さんを見て、居ても立っても居られなくなり、
手を伸ばし、泣かなくていいよと言われたように、イエスは私たちの現実の最も暗い部分に光を当てて、
手を伸ばし、もう泣かないでと言われ、汚れをイエスがすべて引き受けてくださり、私たちは癒されるのです。
■一緒に考えてみましょう
・イエスに触れてほしいところはあるでしょうか。ゆっくり振り返ってみましょう。
触れてほしいところに気づいたら、イエスに触れてくださいと祈りましょう。