聖書からのメッセージ

世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
第一礼拝・第二礼拝は同じメッセージです。

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3月

3月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 11章1節
二千年間継承された祈り

1  さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。
「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 神に目を向け、お互いに目を向ける

主の祈りは、まず神に目を向けます。神が聖であるように、私たちにも聖さを与えてください。
私たちは罪で汚れています。神の愛と正義がこの社会の中で、私たちのうちに、実現していきますように。
このように、神と私たちの関係に目を向けます。その後で、神の子どもとして、ここ社会で暮らすために、必要なことを求めます。
後半は「私たちの」祈りです。私の祈りではなく、私たち、つまり横の繋がりを意識した祈りになります。

 

  1. 御国が来ますように

「御国」が何かという理解がとても大切です。
ルカによれば、イエスは悪霊を追い出し、病人を癒し、聖書の神について教えることを通して、神の王国、神の支配を目に見える形で表してきました。
私たちの日々の生活の中に。この社会も今なお、苦しんでいます。
ここに神の愛と正義が実現しますようにという社会のための祈りでもあります。
神ご自身に期待するしかないのですが、神の価値観を先に教えてもらった私たちが、この世界に対して責任を果たしていくことができるように、
どうか恵みを与えてくださいという私たちの祈りでもあります。

 

  1. しつこさも大切だし、神の寛大さかもしれない

5-8節の部分は30年後には聖書の翻訳が変わるかもしれません。
友達のしつこさではなくて、家の人が恥知らずになりたくないので、という風に変わる可能性があります。
粘り強く祈ることの大切さをルカはもう少し後で語りますので、それも大切なことです。
でも、ここは神の寛大さに注目されているかもしれません。
面倒だと神は思わずに、私たちを聖とするため、私たちに御国を表すために、寛大な心を持っている。
だから求めなさいと続くかもしれません。

 

■一緒に考えてみましょう

・祈りとは私の要求を通すのではなく、神の御心に私たちの心と行動を向けるものだとしたら、私たちの祈りの生活はどう変わっていくでしょうか。
・主の祈りの中で、特に今日、注目したい部分はどこですか。

2月

2月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 10章42節
イエスの足元に座ることから

42  しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 誰もが招かれている

2000年前のイエスの文化では、女性は台所でマルタのようにもてなしの準備をするのが当たり前でした。
しかし、マリアは、男性の弟子たちに混じって、イエスの足元に座っていました。
イエスも、弟子たちも、このことについて、何も言っていません。これがイエスのグループの特徴でした。
男性も女性も一緒に、イエスの足元に座ることができる。
イエスは当時の常識的な感覚にとらわれずに、イエスご自身が女性の立場をきちんと保証するのです。
「こどもを連れてきなさい」と言われたことにも通じるイエスの一貫した姿勢を見ることができます。

 

  1. マルタの不満

私たちは、きっと多くの人がこのマルタの気持ちを理解できるでしょう。
マルタは一生懸命、やっているのです。別に、マルタは目の前に責任を放棄したいわけではありません。
彼女は喜んでもてなしをしたかっただけです。
イエスは私たちの常識の反対をいくので、時に、挑戦的に映ったり、私たちを不満にさせたりすることもあります。
そういう時こそ、信仰の成長のチャンスです。神の価値観が私たちのうちで育とうとしているのです。

 

  1. スケジュールの見直しは必要ですか

この出来事の直前、前回2/5にお話しした内容を思い出してください。
良きサマリア人と呼ばれる話がありました。「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きてるんだ」と言えるかもしれないです。
誰があなたの隣人かと考えるよりも、あなたは隣人になるために、行動しなさいとイエスは言われました。
行動することは大切です。でも、良い行動をするために、イエスの足元に座る時間がなくなってしまうようなスケジュールは、見直さなければならないのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・マルタのように不満をイエスご自身に伝えるということは大切な習慣です。
・スケジュールの見直しは必要でしょうか。

1月

1月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮

 

17  さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

■アウトライン

  1. モーセの時代から変わらない人の本質

この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。

 

  1. 勇気を出して信仰の旅に

17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。

 

  1. 幼子だから神に信頼できる

成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。

1月

1月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮

 

17  さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

■アウトライン

  1. モーセの時代から変わらない人の本質

この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。

 

  1. 勇気を出して信仰の旅に

17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。

 

  1. 幼子だから神に信頼できる

成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。

12月

12月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 2章8-12節
居場所、ここに

 

8  さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9  すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10  御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11  今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12  あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 羊飼いが神の民の代表

羊飼いたちが神の民を代表して、大きな喜びを聞き、赤ちゃんを見つけると告げられたのです。
つまり、最初のゲストとして、救い主の誕生を見てきなさいと羊飼いたちが、代表として選ばれたのです。
時の権力者が招かれたのではなく、夜、野宿をしながら羊の群れの世話をしている人たちが、最初のゲストに選ばれました。
見ず知らずの羊飼いが会いに行ける距離に、イエス様はいてくださいます。これが救い主と私たちとの距離感です。

 

  1. 恵みに感謝する

御使いの話した通り、羊飼いたちは救い主の誕生を目撃し、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。
この記録を読んで、ある言葉を思い出しました。
「神の本質が恵みであるとすれば、神の民である人間の本質は、私たちの感謝である。」神の恵みというのは身に余るようなプレゼントです。
私にはもったいなくて受け取れないような贈り物が神の恵み、本質だとするなら、神の民、神の子供として育てられる人間の本質は、
いただいた恵みに対する感謝だというのです。このような感謝の積み重ねが、神の子どもになっていくことだと私は思います。

 

  1. 教会が居場所の1つに

私は教会のコミュニティは可能性に満ちていると感じます。理想的な教会だとは言いません。簡単に解決できない問題もあります。
すぐに癒すことのできない傷もあります。それでも、常にイエス・キリストを中心にお招きし、忍耐強く一緒にいるながら、
ここで神の恵みを見せてくださいと祈るなら、その祈りは実現していくと心から信じています。なぜなら、それは神の願いと重なるからです。
ただし、神は人の気持ちを無視して、強引に物事を進めるのではなく神様は場所を作って待っています。行くかどうかを決めるのは私たち自身です。

 

■一緒に考えてみましょう
・この1年を振り返って、恵みを数えて感謝しましょう。

11月

11月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 9章17節
神に養われる生き方

17  人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

■アウトライン

  1. 神の代理人として遣わされる12弟子

12人の弟子はイエスの代理人として、神の支配を宣べ伝えることと、病気を治すことの二つの仕事が与えられました。
悪霊をコントロールし、病気を癒す力によって、神がここを文字通り治めていること、支配していること、
神の優しい手の中にあることを示す証拠となるのです。
この旅を通して、神の支配がここにあることを伝え、イエスに託された権威と力を使うことで、
身に余るほどの感謝を受けたことでしょうし、拒絶されることも多くあったことでしょう。

 

  1. 「旅には何も持って行かないように」

この意味は、神に頼って旅に出なさいというメッセージです。
神の働きを託されている人は、神から託された力と権威によって、人々を癒し、助けることができるから、
神から恵みを受け取った人たちから、必要なものを受け取る。これがイエスの言いたいことです。
ある町に行ったら、一つの家に入り、そこに留まるというのは、自分の環境を整えることに心が奪われ、神の使命が覆われてしまわないようにとのことです。究極的な養いは神にあることを学ぶ旅です。

 

  1. 宣教の特等席で感動してほしい

この人たちを帰しましょうと言う弟子たちの指摘は真っ当に思えます。
弟子たちには群衆を助ける食糧はないのです。しかし、イエスの代理人として与えられた立場があれば話は別です。
どれほど荒れ果てた場所であろうと、物が不足していようと、神様がもてなしたい人を、神様の恵みによって、弟子たちがもてなすことができるのです。
実際、弟子たちが配り、弟子たちが人々の満足している姿を一番近くで見るのです。
イエス様は一緒に奉仕する人を探しています。
人手不足だからではありません。宣教の特等席で一緒に感動してほしいのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・今の時代、私たちはどのような時に、神の国(神の力強くも、優しい手で守られている)を感じるでしょうか。
・宣教の特等席への招待を受けているとしたら、自分の率直な気持ちはどうでしょうか。

10月

10月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:片山 信彦 兄
聖    書:ガラテヤ人への手紙6章1節~2節
柔和な心で生きる

 

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 「柔和」という言葉から直ぐに思い出す聖書箇所がありますね。

マタイ5章5節「 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
「柔和な人」別訳では「へりくだった人」とあり、その人は土地を受け継ぐような豊かさを得る、ということでしょう。
この言葉は詩編との関連で語られているようです。

詩編37節11節 しかし、柔和な人は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。
マタイの福音者11章28節~29節では、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。

柔和な心で生きるのは、豊かさを受け継ぐ秘訣であり、キリストの様な他の人を生かす生き方だと教えられますね
ですので、柔和ということは、謙遜とかへりくだる、ということですが、
それは決して弱々しいとか、力が弱いということではないと思います。豊かな生き方です。

 

  1. 柔和かどうかはどうしたらわかるのか?

皆さんは自分は柔和な人だと思っていますか?
自分は柔和な、穏やかな人だと思っていいても、ちょっとしたことでムっとしたり、表には出なくても心の中で怒りが出たりするのは柔和とは言えなのでしょう。
柔和とは、自分一人でいる静かな時に、自分は柔和な心でいられると言うことではなく、他者とのかかわりの中で、人との関係の中で柔和さというものが分かるのだ、とある方が書かれています。
「柔和」ということは、他者とのかかわりの中であらわになるので、ガラテヤ書で「柔和な心で正してあげる」。
そして、互いに重荷を負い合うという関係性の中で柔和に生きるようにと勧められています。

 

  1. 「炊き出しの列に並ぶイエス」のスライドを見る

「作者のアイへンバーグさんは、芸術家の鋭い眼で、いったい神さまはどちらの側にいるんだろう、
炊き出しをする側なのか、それともそれを受ける側か、ということを考え、そして表現しています。
普通ならボランティアする側、助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいておられる、とイメージしてしまう。
しかし、彼は『そうではない。神さまはむしろ、手助けを必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩たちと共に立っておられるんだ』と見抜いたのです」(「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に」本田哲郎著 岩波書店)

他者の中にそれも疲れた人、重荷を負っている人、弱く小さいと思われている方々に寄り添っておられるイエスを見出し、
そのイエスの生き方に倣おうとすることが柔和な心で生きるということにつながる様に教えられています。

9月

9月

ルカの福音書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:片山信彦 兄
聖    書:ゼカリヤ書14章6節~7節
夕暮れ時に光あり

 

6 その日には、
光も、寒さも、霜もなくなる。

7 これはただ一つの日であり、
その日は主に知られている。
昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. ゼカリヤ書1章1節:「ダレイオスの第二年、第8の月」に預言者ゼカリヤに主のことばがあった。とあり、これは紀元前520年になります。
これはイスラエルの民がバビロン捕囚から帰還して、破壊された神殿の再建を行い、修復が完成したのが紀元前515年ですから、
神殿再建が進み完成したころに語られた預言であったと思われます。
神殿再建が進む中でイスラエルの人々は新しい時代が来て、辛かった過去から解放されて祝福が来るだろう、と希望を持ちました。
しかし、神殿再建後でもイスラエルの国の事態は混乱が続いて好転せず、人々が期待した良い結果は出なかったようです。
その様な中、ゼカリヤは、神様の変わることない真実と約束の確かさを語り続けて人々を励ましますが、
人々はなかなか耳を傾けないで不平不満の中にいました。それでも未来への希望を持ち続けるように語っているのがゼカリヤ書です。

2. 当時のイスラエルの状況は今日の日本や世界の状況と似ているところがあるようにも思えます。
ロシアによるウクライナ侵攻の結果、世界は戦争の危機に直面していますし、その他の国でも紛争があり、難問の問題は深刻です。
また、新型コロナの発生で社会は混乱していますし、経済も落ち込んでいます。異常気候の中で地球がどうなっているのだろうかとの不安も感じます。
クリスチャンである私たちも信仰が揺さぶられたり、生活が不安になってしまうことがあるかもしれません。
身体や心の弱さを覚えたり、仕事や家族のことでストレスが溜まることもあるでしょう。
クリスチャンであれば、信仰を守り、神殿ではないけれど教会を支え、奉仕もしているけれど、時として不安や不満に襲われることがあるかと思います。

3. だからこそ、ゼカリヤがイスラエルの民に勧めたように、日々の生活で困難の中にあっても神様と共に歩み、
心をこめて神様を礼拝し、毎日の生活を神様に喜ばれるように過ごし、神様の真実を信じて希望をもって歩むことが大切ではないかと教えられます。
そうするならば、それは光り輝くような生活につながるのではないかと思うからです。
昼の明るさだけではなく、夜であっても明るく輝く生活であり、夕暮れ時の暗くなって行くような時であっても光り輝く状態です。

4.このことは、私たち一人ひとりの一生を考えた時にも言えることです。私たちは自分の人生の始まりと終わりを自分で決めることは出来ません。
その意味では、私たちは生かされている存在です。今生かされている存在として、自分の人生のいつの時でも神様が共におられるならば、光り輝く存在と言ってよいと思います。お年を取られた方も大切な光り輝く存在です。身体的には弱って行き、認知症、身体の各部分の衰えを感じ、人生の最期に向かって精神的に不安が出てもきます。やりたいことができない、昔できたことができない、今何をしたかったのかさえもわからなくなる時もあります。
でも、人としての価値、存在は変わらないということです。何かができる、出来ないという貢献度というか、社会的な価値は変わるのかもしれませんが、
人生の夕暮れ時と思えるときでさえ、輝く存在です。たとえ肉体が衰え、思考能力が落ちても大切な存在であることに変わりはないのです。
神様がおられる人生は夕暮れ時でも、光り輝くところになる、と理解しても良いのではないでしょうか。

5.キングス・ガーデン東京はこのような理解に立って、高齢者のための働きを行っています。
キングス・ガーデンはそこを利用する方々は光り輝く存在で、その輝く光りに満ちた場所になりたいと願って設立されました。
神のおられる庭、まさに、キングス・ガーデンの由来です。高齢者ご自身が光を持っておられ、尊厳があり、輝く存在である。
その光を輝かせていただき、その光を職員も受けて、教えられつつ、働かせていただいています。

6.「夕暮れ時に光あり」 皆様の上に神様の祝福があり、光り輝く歩みになりますようお祈りいたします。

8月

8月

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 5章31-32節
救いようがないと思われても

 

31  そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。
32  わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 街の中にいても孤独

取税人という職業は、ユダヤの社会では、軽蔑されていました。しかし、いつもと違う目で見る人がいました。イエスです。
イエスはレビに目を留めて、「わたしについて来なさい」と招かれました。
先週、ツァラアトという病気の話をしました。この病気になると人として扱われなくなり、街の外に追い出されました。
取税人は街の中にいましたが、軽蔑され、孤独でした。イエスは救いようがないと思われる人を今日も、神の国に招くのです。

 

  1. 医者を必要としていると気づくか

健康な人は、パリサイ人のような人です。医者を必要としていると思ってないので、イエスは癒すことができません。
一方、病人は、取税人レビのような人です。「悔い改め」は重要な言葉で、心の変化、神への方向転換を意味します。
自分が「病気」であることを正直に認めるなら、赦しと神の恵みを見出すことができるのです。
イエスは罪人と呼ばれる人と一緒に食事をすることを通して、神の国の外にいると思われている人たちに奉仕されるのです。

 

  1. イエスの新しさを受け止める余白

取税人のように救いようがないと思われる人が招かれる。この新しさが私たちの常識になっていきますように。
この新しさを受け止める余白を持てるように祈りたいと思います。
パリサイ人のように「古い物が良い」と言いたくなることは私たちには必ずあると思います。
自分の常識に縛られ、信仰の目が曇り、イエスが言うところの、古いものにしがみつくことがありませんように。
私たちは罪人であり、欠けたところがあります。主の前に弱さもそのまま差し出し、従う時、欠けたところから神の恵みが溢れてくるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・パリサイ派のように「古い物が良い」と言っている部分に神様が光を当てようとしているとしたら、それはどのような部分でしょうか。
イエスがそこをどのように新たにしようとしているでしょうか。古いこだわりを手放せるようにお互いのために祈りましょう。

7月

7月

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:片山 信彦 兄
聖    書:使徒の働き 11章25節~26節
“キリスト者“誕生の逸話

 

25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。
弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 本日の聖書箇所は、このアンティオキアで、初めて信者がキリスト者と呼ばれたと書かれています。
    本日は「”キリスト者“誕生の逸話」と題して、少し想像力を働かせてこの背景を見てみたいと思います。
    そして、そこには、人生における“たまたま”と言える出来事があったことを再発見したいと思います。
  1. マルコ15:21~ ここにイエスの十字架を背負わされたクレネ人シモンという人物が出てきます。
    クレネ人はアフリカ東部の出身者だと言われています。つまりユダヤ人ではなく異邦人です。
    それなのに彼の出身地とアレクサンドロとルフォスという二人の息子の名前まで聖書に記されています。
    このシモンは、たまたまイエスが十字架に至る所に通りかかったのですが、この“たまたま”が彼の人生だけでなく、
    後の“キリスト者”誕生に大きな影響を及ぼすことになったのです。
    十字架を背負わされたシモンとその家族について、ローマ16:13では、シモンの息子ルフォスの母親、つまりシモンの妻をパウロは、「私の母」と呼んでいます。それほどシモン一家がパウロと親しい関係にあったことが想像できますが、なぜパウロはルフォスの母を「私の母」と呼ぶほどに親しかったのでしょうか。
  1. 使徒11:19~20 クレネ人の信者はエルサレムから迫害を逃れてアンティオキアに逃げたようです。
    シモン一家も信仰が与えられて、このクレネ人信者の中にいたのだと思われます。
    アンティオキアは当時のローマ帝国第三の都市と呼ばれるほど繁栄していた都市でしたからアンティオキアの様な大きな都市にいれば目立たない、と考えて逃れたのかもしれません。
    そのアンティオキアにパウロがバルナバによって連れられてきて、一年以上滞在しました。
    一年以上滞在したパウロの泊る所や炊事洗濯など日常生活の世話をしたのがシモン一家だったのではないでしょうか。
    シモン一家は家族ぐるみでパウロの生活の助けをしたので、パウロは「私の母」と呼んだのではないか、と想像できます。
  2. パウロはこのシモン一家に支えらえたので一年間アンティオキアに滞在でき、
    人々に福音を伝えることができたので信者たちが“キリスト者”と呼ばれるようになったのです。
    “キリスト者”誕生の陰には誠実に伝道者パウロを支えた一家の存在があったのです。
    たまたまシモンが通りかかり、無理矢理に十字架を背負わされたことから、シモン一家が“キリスト者”誕生の立役者になったと言っても良いでしょう。シモン一家は直接伝道の働きをしたのではないかもしれませんが、この一家がパウロを支えたことでこのアンティオキアからパウロの伝道旅行が始まり、キリスト教がローマ世界に広がる出発点ともなります。
    シモン一家はパウロの様にキリスト教の歴史の表舞台には出てこないけれど、陰で支えたに違いない人たちです。
    それが、シモン当人にとってはたまたまと思えることが出発点でした。
    でもそこに神様の計画があるのではないかと思わされますね。
  3. 皆さんが練馬教会に集うようになったのも、“たまたま”と思えることがきっかけだったかもしれませんね。
    人生の不思議です。シモンの様に、“たまたま”がきっかけで思いもかけない人生に踏み出すことも有るのではないでしょうか。
    たまたまの出会いによって後に良いことが起きるかも知れませんし、困難にぶつかるようなことがあるかもしれません。
    でもそのたまたまの出来事、出会いに真摯に向き合い、誠実に生きる時に神様の計画の中でその人に相応しい歩みができる。
    神の計画の中に生きることができるのではないかと思います。
    日々の生活の中で、“たまたま”を大切に、たまたまの基にある神様の計画を信頼して生きていきたい、とシモンの歩みから教えられるのです。

6月

6月

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 2章44-46節
少年イエス3日後に発見

 

44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
45見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
46そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 慌てふためき、必死に探すような時

12歳の息子が突然いなくなってしまうという場面には遭遇しないかもしれませんが、
イエスの両親のように、私たちが慌てふためき、後悔し、苦しむような時はあるかもしれません。
その後、必死に探して、思いがけない形で解決に至ることがあるかもしれません。
思いも寄らない神様の言葉を聞いて、受け止めることができますように。
もしかしたら、私たちが見失っただけで、神様はなすべきことをなし、働き続けていたのかもしれません。

 

  1. 芯のある生き方

心配していた両親とは対照的なのが神殿で議論しているイエスです。12歳の時点で、イエスは自分の人生の芯が見えていました。
「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(49節)。
天の父なる神の家である神殿にいる、もしくは天の父なる神の働きをしているということは、私にとって当然なことですとイエスは語ります。
軸のある生き方と言ったらいいでしょうか。私たちの人生にとっての中心は何でしょうか。

 

  1. すぐに理解できなくても、心に留める

「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(51節)と母マリアの姿勢が書かれています。
3日間、死ぬほど心配したかもしれません。イエスを見つけた際にその心配を伝えました。
親が自分の主張をするだけでなく、子供であるイエスの言葉に耳を傾け、心に留めようとすることです。
相手の話に耳を傾けるゆとりを持っているだろうかと思うのです。
その場で理解ができないことでも、言葉や出来事を心に留めて思い巡らす。
これが母マリアが繰り返し、行っていることなのです。

 

■一緒に考えてみましょう

・今日の出来事の中で、特に関心が向いた内容は何でしょうか。なぜ、そこに関心が向いたのでしょうか。

5月

5月

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:片山 信彦 兄
聖    書:マルコの福音書 5章25節~34節
気づき、探し、向き合うイエス・キリスト

25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。
「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.今日の箇所は、多くの群衆に囲まれたイエスの後ろからその群衆をかき分けて、でも静かに目立たない様に近づいて、
主イエスの衣(多分当時普通に着ていたと思える上着で、マタイ9:20のよれば、房が付いていた衣のようです)に触れて、
病が癒された女性の箇所です。
この個所をさっと読むと、12年も出血が止まらない婦人科系の病気を持っていた夫人が主イエスの衣に触れて病気が癒された。
主イエスには癒しの力を持った方だ、と読んでしまいます。でもこの個所にはとても深い物語があるように思います。

 

2. この女性がなぜ、主イエスの後ろから主イエスに近づいたかです。正面から出なく。
この女性は12年もの間、出血が止まらない病気で苦しんでいました。
いろいろな医者にかかったのですが医療費だけがかさみ、病気は一向に治りませんでした。
この病気のおかげで、この夫人は肉体的な痛みだけでなく、経済的にも苦しかったでしょう。
この種の病気にかかった人は、当時のユダヤ人の世界では宗教的にけがれた人と見られていたようです。
その結果、堂々と人前に出ることができない社会的にも差別される存在であったようです。
つまり、肉体的、経済的、宗教的、社会的、更には精神的にも大きな苦しみの中にいたのだと思います。
ですから、主イエスの前から来ることができなかった存在だったとのでしょう。でもこの女性は主イエスと正面から出会います。

この女性の態度や行動から、私たちは一人の存在として主イエスに触れるように進むべきこと。
主イエスと向き合う時は、自分の痛みや苦しみを隠すことなく、真実をすべて話すこと。
そうすれば、主イエスからの安心が与えられ、健やかに歩むことができる、ということを学びます。
と同時に、この女性の様に、自分は主イエスを求め、主イエスの触れるような行動をとっているだろうか、
そして何よりも恐れおののいてイエスの前にひれ伏してすべてを開け放して、
自分の真実の姿を主イエスの前にすべて出しているだろうかとも問われているようです。

 

3. この女性に対する主イエスの行動から私たちは学ぶことができます。

① 気づく:主イエスは私たちの存在に気付いてくださる方です。
決して私たちの存在を忘れることなく、私たちが主イエスに触れる時に私たちの存在気づいてくださる方です。

② 知ろうとする:そして私たちの持っている痛みや苦しみを深く知ろうとされる方です。
決して群衆として大勢のまとまりの中にいる人として見るのではなく、群衆の中から一人の人として知ろうとされる方です。
共同訳聖書では、「見つけようと」とあり、私たちを深く知ろうとして、私たちを一人の存在として探してくださる方です。

③ 向き合う:自分の前に出てきたこの女性と一対一で向き合い、その話を聞いてくださる方です。

④ 信仰に感動して、安心させる:そして、この女性の信仰に感動して、大丈夫ですよと声をかけ、安心させてくださる方。
安心させるような言動・行動をとってくださる方です。この主イエスが私たちに与えられている幸いを感謝します!

 

4. しかし、自分は何と人や物事に気づきにくい、鈍い存在なのだろうかとも思いますまた気づいても、
より深く知ろうとしているか、周りの人や出来事にしっかり向き合っているだろうか、
向き合っても安心を与えるような行動をしているだろうか、とも問われているようです。

主イエスに触れさせてくださいと主イエスを求め、主イエスと同じように、
気づき、向き合い、何らかの行動をとれる者とさせてくださいと祈りたいと思います。

4月

4月

受難週、イースター

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書 1章3節
外国人から見たイエス

 

私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. ルカだから伝えられる人がいた

ギリシャ語が流暢に扱えるルカだからこそ、ギリシャ人に向けた福音書を書くことができました。
ルカも自分の使命を理解していたでしょう。例えば、マタイの使命はユダヤ人クリスチャンに待ち望んでいた救い主キリストはイエスだと伝えることでした。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。ここにも「でこぼこがいい」の精神が見てとれます。
それぞれの背景が違う4つの福音書が残され、4人の視点を通して、イエスの福音の豊かさを受け取ることができるのです。

 

  1. 「神の友」となって一緒に読もう

「尊敬するテオフィロ様」という言葉遣いから、地位の高い人に向けた文章だということがわかります。
テオフィロという名前は、「神の友」という意味です。ただ、このテオフィロという人が本名なのかどうかは、学者の間でも意見が分かれます。
大事なことは、テオフィロという人に向けて書くという形を取ることで、当時のギリシャの背景を持った人たちが違和感なく、
イエス・キリストの記録を読み始めることができたということです。私たちも神の友となって一緒に読んでいきましょう。

 

  1. イエスの足元に座るような気持ちで

ルカは「私たちの間で成し遂げられた事柄について」と書き始めました。
この福音書は「私たち」の物語です。信仰を持つことは個人的な決断ですが、信仰は共同体の中で養われていきます。
礼拝の中で、私のことだけ考えるのではなく、一緒に神の前に、神の光に照らされる経験をしていくことを願っています。
テオフィロになって、すでに知っていることもあるでしょうが、ルカの福音書を通して、よりイエス様に近づくことができるように、
イエスの足元に座るような気持ちで、福音書に耳を傾けていきたいと願っています。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 3節の最後の「思います」という意味は、自分の考えを述べているというより、聖霊に促されたことを感じるときにルカが使う言葉です。
    聖霊の促しをどのような時に感じるでしょうか。

礼拝の時間

grade

第一礼拝

10:00-10:30

ピアノとベース
現代的な曲も

第二礼拝

11:10-11:40

パイプオルガン
伝統的な曲が中心

子ども礼拝

10:50-11:20

赤ちゃんから小学校6年生まで
保護者の方も

礼拝に来た人

grade
47
第一礼拝
29
第二礼拝
31
子ども礼拝

11月6日の出席者

礼拝に関するよくある質問はこちらにまとめてあります。
少しでも不安がありましたら、お問い合わせください。
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