聖書からのメッセージ

世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
第一礼拝・第二礼拝は同じメッセージです。

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5月

5月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2020/5/24

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書13章1-11節
人生の最後まで愛する姿

1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来た ことを知っておられた。
そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで 愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏 切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、 またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
4 イエスは夕食の席か ら立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入 れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、イエス がシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。
「主よ、あなたが私の足を洗 ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からな くても、後で分かるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないで ください。」
イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないこ とになります。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいので す。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切 る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 先生が「足を洗う」という非常識

当時、足を洗う仕事は、家の奴隷の仕事でした。土埃の道を歩いています。履いているのは 簡素なサンダルでしょう。
足は汚れています。汚れた足を洗うということは、最も品位を落と す仕事だったそうです。
家の奴隷の仕事は数多くありますが、誰もが避けたいと思う仕事が足 を洗う仕事でした。
選べる立場にあるなら、誰も、自分から引き受けるようなことはしない。
例えば、ユダヤ人の家だったら、ユダヤ人の奴隷はしないで外国の奴隷がする仕事だそうです。

2. イエスに足を洗ってもらう

「とんでもないです」とペテロみたいに断りたいかもしれません。だけど、恵みは実際に受 けることが大事なのです。
足を差し出し、汚れをイエス様に落としてもらうことに意味がある のです。
「自分で洗えます」と足を引っ込める人は、自分で人生どうにかできると思っているの と同じです。
確かに、自分の汚い部分を、自分の尊敬する師匠、先生に見せるなんて、非常に 恥ずかしいことかもしれませんが、
イエスはこの経験をして恵みを受けるが大事だと教えます。

3. 恵みを受け、恵みを手渡す人に

私たちの人生、思いも寄らない出来事が起こります。
時に、それは言葉にならない悲しみや 苦しみを伴うこともあれば、時に、言葉にならない喜びや感謝に溢れることもあるでしょう。
どのような時でも、私の前にひざまずき、あなたの汚れた足を出しなさいと言って、足を洗っ てくださるのがイエス・キリストです。
このお方は、私たちを最後の最後まで愛し抜いてくだ さいます。そして、「わたしについて来なさい」と足跡を残してくださるのです。

■一緒に考えてみましょう

●「死は自分の存在の消滅を意味するのではなく、むしろその存在を明らかにする道であると信 じているなら、それは人生で最も重要な課題です」(ナウエン)を聞いてどう思いましたか? l

●イエスに足を洗ってもらったような体験を思い出すことはできるでしょうか。
私にとっての神 からの恵みの体験はどのようなものがあるでしょうか。

2020/5/17

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ルカの福音書24章44-49節
神が約束されたもの

44.そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこう です。
わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなり ません。」
45.それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46.こう言われた。「次のよう に書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47.その名にって、罪の赦 しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
48.あなたがた は、これらのことの証人となります。
49.見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送り ます。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.「神の救いのご計画」と「イエスご自身の証言」は同じ(44 節)

イエスがここで言わんとすることは、旧約聖書全体が「わたし」のことを指し示しているという ことでした。
(例えば、 「イエスの預言者としての役割」については申命記 18 章 15-20 節、
「受難」 については詩篇 22 篇とイザヤ書 53 章、「復活」については詩篇 16 篇 9-11 節とイザヤ書 53 章 11-12 節を参照)。
聖書全体に記されている実に壮大な「神の救いのご計画」をイエスは「受 難と十字架、そして復活」でもって成し遂げ、
そのことを聖書から解き明かしたのです。だから、 私たちも聖書のみことばを味わうとき、
みことばそのものであられるイエスからの語りかけを聴こ うとする姿勢が大事になります。
主を信じる心が問われているのです。

2.私たちの心を開くイエス(45-48 節)

弟子たちは「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり」という内容を、生前 のイエスから何度も聴いていましたが、
その真の意味は隠されていました。しかし「このとき」弟 子たちの目の前に「よみがえりの主」がおられ、
そのお方から「心を開いて」いただいております。 目の前のお方のみわざを通して聖書のみことばが成し遂げられたことが、
弟子たちには「事実」と して心に迫ったことでしょう。物語はここで終わらず、イエスはみことばの成就に加え、
「ご自分 の名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、
とこれか ら起こる新たな展開を語り、その使命を弟子たちに、そして私たちに託すのです。

3.わたしの父が約束されたもの(49 章)

ここでイエスが言われた、「わたしの父が約束されたもの」こそ「聖霊」です。
神の霊であり、私たちを聖書の世界観へと導き、私たちの人生を本当の意味で導かれるお方です。
イエスを信じ、 世界の見え方や捉え方が変わったのは、聖霊なる神さまに導かれ、
私の人生が「神の救いのご計画」 の中にあることを知ったからに他なりません。
今、「神の国」を生きているという実感を与えるの が聖霊なのです。
聖霊なる神さまに導かれて、聖書を読むと、そのことばは単なる字ずらではなく、
イエスのいのちが宿った「いのちのことば」であること、私たちを生かすおことばであることがわ かるでしょう。

■一緒に考えてみましょう

あなたにとって聖霊の導きだと感じる出来事を思い出し、数え上げてみましょう。

2020/5/10

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:エペソ人への手紙2章14-22節
人間関係にキリストの平和を

14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉 において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。 こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされ ました。
17 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平 和を、福音として伝えられました。
18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊 によって御父に近づくことができるのです。
19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人で も寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
20 使徒たちや預言者たち という土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。
21 このキリスト にあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。
22 あなたがたも、 このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 神と人の平和が人と人をつなぐ

パウロの手紙を読んだ最初の読者にとっては、2 つのものを 1 つにするというのは具体的に は、
ユダヤ人とギリシャ人、2 つの民族がイエス・キリストを信じ、一つになることでした。
文化も言葉も何もかも違う人たちが一緒にやっていく。想像するだけで、トラブルだらけで大 変だろうなと思います。
イエス・キリストが神と人との間に平和をもたらしたのは、人と人が つながるため、一つになるため、神の愛が人と人との間をつなぐためなのです。

2. 教会は建物ではなく、人と人のつながり

土台の要の石はイエス・キリストで、その上に建物が組み合わされていきます。
この組み合 わされるパーツが私たち一人一人なのです。
元々は全然違うタイプの人たちがお互いの間に壁 を作るのではなく、壁を壊して一つとなり、一つのからだ、一つの人間、一つの教会が神によ って創造されます。
教会とは、建物ではなく、人と人のつながりだと言われるのは、このため です。
人と人とが一つになるとき、そこには聖霊の助けがあり、神の住まいとなります。

3. 現実の教会が理想とかけ離れていることに失望する時

21節を思い出してください。日本語の翻訳だと読み取りづらいのですが、この文の中心とな る動詞は「成長する」です。
「現在、成長中」と言ったらニュアンスが伝わるでしょうか。教会 は、すでに完成して、完璧な状態だとは書いていません。
当時の教会が人種の違い、男女の違 い、社会的立場の違いを乗り越えようとしたように、今の私たちも成長中、工事中、
人と人が 神様によって一緒に組み合わされている途中。
まだ道なかば。この道では簡単ないとわかって いたパウロは、手紙の後半でできる限りの努力を勧めます。
ぜひ4:1-6を読んでください。

■一緒に考えてみましょう

あなたはどちらに近いですか?
ある人は神の国生活を始めたばかりで、新しい価値観に馴染む のに時間を必要としています。
別の人は、新しい人を受け入れる中で元々のルールの変更を余 儀なくされ、ストレスを感じることがあります。
一つになるために聖霊の助けが不可欠です。

2020/5/3

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ローマ人への手紙8章12-17節
私が神の子に

12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。
肉に従って生きなければならないという、 肉に対する義務ではありません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになり ます。
しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
14 神の御 霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊 を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。
この御霊によって、私たちは「アバ、父」と 叫びます。
16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証しして くださいます。
17 子どもであるなら、相続人でもあります。
私たちはキリストと、栄光をとも に受けるために苦難をともにしているのですから、
神の相続人であり、キリストとともに共同相続 人なのです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 「愛されたい」「認められたい」「評価されたい」

このような欲求を満たすのは、「肉」 (人間の根本的な欲求)に従うのがいい!とこの社会は 言うかもしれません。
一時的な満足感を得られたとしても、欲望のままに生きて、永遠へと続 く安心感、満足感を手にしている人はどれくらい、いるのでしょうか。
欲望に導かれるまま進 む先は、「死」だと聖書ははっきり書いています。
神様に信頼し、聖霊によって欲望に抵抗する 力をもらうことが本当の意味で、欲求を満たすこと、生きる道なのです。

2. 家での自分で神と親しくなる

15 節の「この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます」という部分に注目します。
「アバ」というのはアラム語で、イエスの時代、話し言葉として使われていました。
イエスが 「アバ、父」(マルコ14:36)で祈っているように、イエスと父なる神様との関係と同じような 関係に私たちも招かれています。
アバという言葉は、父親を意味しますが、「パパー」と呼ぶよ うな親しさが表現されています。
家の中でプライベート空間で親と親しく話すイメージです。

3. 聖霊が「神のこども」と保証する

御霊ご自身が、私たちが神の子供であることを証ししてくださいます。
「あなたは神に愛さ れている」「神に受け入れられている」「神のこどもだよ」と御霊ご自身が私たちの霊と共に保 証してくれています。
この声を、今日は受け止めましょう。「お前が神の子になれるわけない」 って言ってくる人がいるかもしれませんけど、神ご自身が言われます。
「あなたは神の子ども」 だと。神に愛され、受け入れられています。格好つけなくて大丈夫。そのままのあなたのまま で、あなたは神の子どもなのです。
天のお父さんが、苦しい時も共にいて支えてくださいます。

■一緒に考えてみましょう

「アバ」を自分の母語に訳してみましょう。私にとってしっくりくる、親密さを込めた神様へ の呼びかけ方は、どのような言い方になるでしょうか。
後でこっそりその言い方で、お祈りし てみてくださいね。

4月

4月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2020/4/26

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ルカの福音書 24章28-32節
心の内から熱くわき出る想い

28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、
30 イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
31 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
32 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.二人に強く勧められて一緒に泊まるイエス(28、29節)

13節から始まる「エマオ途上での物語」には二人の弟子が登場します。
エルサレムからエマオまでの道のりは約11キロ、歩くと2時間30分くらい。そこにイエスが加わり、三人は歩きながら語り合います。
しかし、二人の目はさえぎられていて、相手がイエスであることに気づきません。
話はしだいに盛り上がってきたのか、目的の村の近くにきて、二人はイエスに「一緒にお泊りください」と強く勧めます。
日も傾き、夕方になってきました。夜、旅をすると盗賊に襲われる危険もあります。
しかしそれ以上に、二人がイエスに泊まることを強く勧めたのは、「もっとこの人と一緒に話をしたい」という気持ちに変えられていったからではないでしょうか?

2.心の目が開かれて(30、31節)

30節を読んでいて不思議に思うのは、客人イエスが食卓を取り仕切っている点です。
これはいったい何を意味するのでしょうか? 二人にとって見覚えのある光景です。
二人は5千人の給食の場面(ルカ9:16)や「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください」(ルカ11:4)というイエスから教わった祈りを思い出したのではないでしょうか?
「この体験、初めてではない.」 という感覚は心と身体が覚えています。
この食卓の場面において、はじめて、二人は、かつての師イエスとその弟子という関係に戻ることができたのです。
心の中にしっかり本物のイエスがおられれば、その姿は見えなくてもいいのです。

3.心の内から熱くわき出る想い(32節、参照13-27節)

二人は、エルサレムからエマオへと向かう道で出会った復活の主との時間を、何度も何度も、思い巡らしたことでしょう。
イエスの声を聴き、聖書のみことばを通して、イエスと対話する。
聖書を読んで、自分が思っていること、考えていることをイエスの前に差し出し、
みことばそのものであられるイエスに、自分の誤った解釈や、間違った思い込みをなおしていただく。
実は、このやり取りが、エマオ途上で、二人の弟子と師であるイエスとの間でなされていたのです。
「受難と十字架」で終わらず、「受難と十字架」の先に「復活」がある、ということをイエスは十字架にかかられる前から語り続けてきました。
ただ、誰もそのことを信じられなかったのです。しかし、「聖書に何が記されていたか」ということを、二人は復活のイエスを信じることによってはじめて理解します。私たちの心の内に熱くわき出る想いが生じるのは、よみがえられた主が、いつまでも私たちと共にいてくださる、ということを信じられるからではないでしょうか?

■一緒に考えてみましょう

  • あなたにとって「復活」とは何ですか?
2020/4/19

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書 7章37-44節
水を得た魚のように

37  さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38  わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39  イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
40  このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
41  別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。
「キリストはガリラヤから出るだろうか。
42  キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
43  こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。
44  彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 「渇き」は生活の必要も、心の渇きも

仮庵の祭りは過去の救いの出来事(出エジプトと荒野での生活)を記念するだけでなく、祭りに参加した当時の人の「今」の関心事とも結びついていました。
雨を求める祈りがなされ、新しい年の収穫のために祈りました。生活の必要は切実です。
水をくださいと祈る祭りの1番大事な日に、イエスは言われました。「渇いている人はわたしのもとに来なさい」と。
「渇いている」には生活の必要も含まれますし、心の飢え渇きも含まれます。
誰でも、渇いている人は、イエスのもとに招かれているのです。そして生ける水の川を体験することができます。

 

  1. 「生ける水の川」は聖霊のこと

復活したイエス・キリストは、弟子たちに向かって「息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)
本来、神に造られた人間は神の息(霊と原語では同じ言葉)を受けて命を得ました。
しかし、今、私たちは「渇く」のです。それは人が神から離れた結果です。
人は神の言葉を信じず、蛇の言葉を信じ、自ら神になろうとして神を裏切りました。
神との関係を人間がぶち壊したのです。
イエスが約束した聖霊は、再び神との関係を回復し、本来の姿に、生き生きとした姿へと変えてくださいます。

 

  1. 「水を得た私」を目指して

「水を得た魚」のように「聖霊を受けて、生き生きした私」というイメージで「水を得た私」を目指したいというのが2020年度の基本方針です。
エゼキエル47章で描かれているように神殿から流れ出る水が死海をも回復させ多くの魚が生息できるようにするならば、
私たち一人一人の心の奥底から流れ出る水は私のみならず、私たちの周りの人の人生を大きく変える特別な力があります。
これが私たちに与えられた聖霊の力です。「水を得た私」を楽しみましょう。

■一緒に考えてみましょう

  • 私は今日「渇いている」のでしょうか。イエスは「聖霊を受けなさい」と言われます。私たちは聖霊をください。
    枯れることのない命の水(生ける水)をくださいと求めましょう。
2020/4/12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書20章19-23節
怖いけどハッピーイースター

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。
すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 復活は「死後の希望」
「平安(シャローム)があなたがたに」とイエスは語り、手と脇腹を弟子たちに示されました(19-20節)。
十字架の傷跡を確認し、目の前のイエスが復活のイエスだとわかり、弟子たちは喜びます。
イエスが復活したということは、イエスが死によって滅ぼされたのではなく、イエスが死を滅ぼしたということです。
死はこの世界で絶対的な力を持っていますが、決して死で終わらない、復活という希望があると聖書は大胆に証言するのです。

2. 復活は「今の希望」
イエスの復活は死後に関係するだけではありません。今の私たちの生活に大きな希望をもたらします。
イエスと共に十字架に古い自分を捨て、新しい人生、罪に支配されるのではなく、神の愛に捉えられる人生を始めることができるからです。
この希望は自分のためだけでなく、周りの人の祝福につながります。
なぜなら、父なる神がイエスを遣わしたように、イエスの救いを体験した私たちはイエスによって遣わされるからです(21節)。
神の救いを体験した人は、この希望をまだ神を知らずに迷っている人、困っている人のところに届ける使命を託されます。

3. 復活は「新しい創造の始まり」
復活が週の初めの日曜日なのは、新しい天地創造の第一日目という意味があります。
イエス・キリストの復活によって混沌とした世界に神の愛の秩序が始まりました。
私たちは誰も、もう死を恐れなくていい、罪に怯えなくていい、過去の傷や恥に心配しなくていい。
なぜなら、イエスが全てを精算したからです。
不安に押しつぶされそうだとしても、イエスはそういう私たちの真ん中に来て、イエスは言われます。
「あなたの罪は赦された。安心していきなさい。平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

■一緒に考えてみましょう

・イエス・キリストの復活を証明することはできないかもしれません。しかし、証明が不可能だけど本当に大切なものが世の中にはたくさんあります。
何が思いつくでしょうか。
・復活は聖書の中心的な出来事であり、中心的なメッセージが込められています。あなたは復活をどう受け止めていますか。

2020/4/5

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書19章1-16節
恥も外聞もない

1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。
2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。
3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。
4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。
「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。
ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」
7 ユダヤ人たちは彼に答えた。
「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」
8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。
9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
10 そこで、ピラトはイエスに言った。
「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11 イエスは答えられた。
「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」
12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。
「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」
13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。
ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」
15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」
ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」
祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」
16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 聖書の「恥も外聞もない」恥も外聞も無いは「恥ずかしいと思ったり,人の目を気にしたりということがない。」という意味です。
    神に対して、恥も外聞もなくなる。神に対して、恥ずかしいと思ったり、神の目を気にしたりということがない。これが聖書のいう罪です。
    ユダヤ人指導者にも、十字架で殺すことに同意したピラトにも当てはまります。
    そして、私たちが自分たちに問うべきは、「神に対して恥ずかしいと思ったり、神の目を気にしたりしない」という感覚があるかどうかです。
  2. 恥も外聞もない「ユダヤ人」
    神殿に仕える祭司の中の選ばれた人たちが祭司長ですが、祭司長たちが「カエサル(ローマ皇帝)のほかに私たちに王はありません」と発言したのです。
    神だけが王であるという信仰がイスラエル人にとって決定的に大事だったにも関わらず、
    神を王とせず「ローマ皇帝の他に私たちに王はありません」と言ったのです。
    イエスを殺すために、神を捨てたのです。このやり取りに人の弱さ、汚れがはっきりと映し出されています。
  3.  恥も外聞もない「すべての人」のために聖書はイエス・キリストを子羊と呼びます。子羊というのは神殿で、罪の償いとして殺される動物のことです。
    人の罪の身代わりに殺される子羊がイエスなのです。
    イエスはユダヤ人の殺意によって殺されますが、聖書が語るのはイエスに力がなくて殺されたのではなく、
    自分の使命を理解して、自ら十字架に向かっていかれたということです。■一緒に考えてみましょう
    ・あなたの権威はどこから来ていると日頃から考えているでしょうか。
    ・この出来事は私たちに問いかけます。あなたはこの十字架をどう見ますか。あなたは神の十字架に示された恵みを受け取りたいですか。

3月

3月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2020/3/29

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書9章35-41節
誰にも理解されなくても

35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。
「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。
「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
37 イエスは彼に言われた。
「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
39 そこで、イエスは言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。
「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。
しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. インターネット越しであろうと神は働く

いつになるかわかりませんが、礼拝堂で一緒に礼拝を再開する日、きっといつも以上に、神の働きをリアルに感じる人が大勢出るだろうと思います。
だけど、インターネットを通して、この画面越しという制約があっても、神は確かに働きます。
「その人は誰ですか。主よ、私はその人を信じたいです」という率直な求めがイエスに向けられるとき、
イエスは私たちの目を開いてくださり、真実を見ることができるようしてくださいます。

 

2. 同じ体験はできないけど、私にぴったりの経験はできる

この彼と同じ体験は誰もできません。ですが、目が見えるようになった彼の人生を変えた神様が私たちの神様で、
この人を変えたように、私たち一人一人がそれぞれにぴったりの方法で神様は人生を変えることができます。
もっと言えば、神はすでに触れているはずです。牧師になって、何人もの信仰告白に立ち会ってきましたが、
私のところに来る前に、神様はその人に触れておられるし、神の愛はすでに注がれていました。
私がすることは、神様がすでにしてくださっていることを見つけるお手伝いです。神様の個性に応じたアプローチに注目です!

 

3. まさか私たちも盲目なのですか?

パリサイ人とは違うと思っているうちは、私たちはパリサイ人と同様に盲目なのです。
神と一緒にいると信じていますが、実際は光の近くにいないのです。
どれだけ自分が汚れているかはわからないのは、光の方に来ていないからです。
イエスが問題にしているのは、罪があるかないかではありません。誰もが罪にまみれています。
信仰が深まれば深まるほど、罪から清められていくと同時に、罪にまみれているという自覚も深くなっていくのではないでしょうか。

 

■一緒に考えてみましょう

  • クリスチャンの数だけ、信仰のストーリーがあります。目が見えずに生まれてきた人の目が開かれたように、私に特別にしてくださったことがあります。
    人生の難しい局面であっても、そこで神の光を見出すことができるでしょう。
2020/3/22

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ヘブル人への手紙4章14-16節
遠慮しないで神に近づこう

14.さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神のイエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15.私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
16.ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.私たちには「神の子イエスという偉大な大祭司」がおられる(14節)

この手紙の読者の多くは、ユダヤ教から離れてクリスチャンになった人々で、彼らは、当時、ローマ皇帝による迫害を受けていました。
一方で、当時のユダヤ教はと言うと、ローマ帝国において公に認められていたこともあり、ユダヤ教徒は迫害される心配がなかったのです。
なので、ヘブル書の読者たちの中には、厳しい迫害から逃れるために、ユダヤ教に戻ろうとしていた人がいたことが考えられます。
そのような状況において、ユダヤ教に戻るという誘惑に負けないで、「信仰の告白を堅く保とう」と促したのがヘブル書の著者でした。
この著者は、私たちの拠り所とすべきお方こそ「神の子イエスという偉大な大祭司」であり、そのお方が私たちと共におられると高らかに主張するのです。

 

2.私たちの同じように試みにあわれた主(15節)

私たち一人ひとりのことを本当の意味で同情してくださるお方は、神であられるお方だけです。
その理由は、私たちの大祭司であられる神の子イエスは、15節の後半にあるように、
罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたことからわかります。
イエスはサタンの試練をみことばで退けました。私たちはサタンの誘惑に打ち勝つことができるでしょうか?
なかなかできませんよね。私たち人間は、自己中心の罪からなかなか離れられない存在であり、サタンの誘惑にいとも簡単に負けてしまう弱さがあるのです。
しかし、イエスさまはその弱さを持った私たちのことをそのまま受け止めてくださるお方です。
イエスこそ、サタンに打ち勝つ「みことば」そのものであり、「わたしがいつまでもあなたとともにいよう」、と約束してくださるお方なのです。

 

3.遠慮しないで神に近づこう(16節)

私たちの信じるお方は、心の底から私たちのことを同情してくださるお方です。弱さに寄り添ってくださるお方です。
私たちをそこに留めようとする過去の思いや記憶を捨てるように言われ、これからはずっと「私があなたと共にいる」と約束してくださるお方です。
それでしたら、私たちは主のあわれみを受けようではありませんか?
主の恵みをいただこうではありませんか?
折にかなった助けを受けるために祈ろうではありませんか?
そして、大胆に神がおられる恵みの御座、主イエスの恵みが満ち溢れるところに近づこうではありませんか?

 

■一緒に考えてみましょう

  • 遠慮しないで神に近づいていると思える時、それはあなたにとってどんな時ですか? どのような点で神さまとの近さを感じますか?
2020/3/15

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書9章24-34節
心の盲目

24 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。
「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。
「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26 彼らは言った。
「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」
27 彼は答えた。
「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28 彼らは彼をののしって言った。
「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。
29 神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」
30 その人は彼らに答えた。
「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。
31 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
32 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
33 あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」
そして、彼を外に追い出した。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 「信仰」という名の圧力
ユダヤ人宗教指導者たちの権力は絶大でした。彼らはこのあと、イエスを十字架で殺すところまで追い込みます。
それができる立場にいました。そんな彼らが盲目で生まれた人を取り調べするのです。
「神に栄光を帰しなさい」とまるで盲目で生まれた人が偽りを言っているかのように迫り、
「イエスは罪人だと知っている」と宗教指導者としての見解をはっきりと示すのです。
前回、両親を追い詰めた圧力が、目が見えるようになった彼にかかっているのです。

2. 濁った目で物事を判断する
パリサイ人はモーセの弟子だと自認していました。神はモーセに語り、律法と呼ばれる神のルールが与えられました。
だから、パリサイ人たちは、モーセが受けた律法を文字通り守ることに命をかけていました。
ですが、神を愛し、人を愛するという律法のど真ん中にある神の心を理解することはできませんでした。
本当にモーセの弟子だったら、イエスのしているが理解できたはずなのです。
しかし、彼らはイエスは罪人だと決めてかかり、目が見えるようになった人の証言に耳を傾けることをせず、イエスの共犯者として、彼を追放しました。

3.空っぽの手を差し出す
このユダヤ人たちは彼らの価値観で神の思いを勝手に判断しました。自分たちは正義で、イエスは罪人だと決めつけたのです。
彼らは自分は見えていると確信していたのです。真理にたどり着くヒントは目の前にありましたが、彼らは耳を傾けようとは決してしませんでした。
彼らは権力を持っていました。立場を持っていました。
でも、1番大切な神への姿勢、神の前にひざまずき、空っぽの手を差し出すことをしませんでした。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私たちは神の前にひざまずき、空っぽの手を差し出すことができるでしょうか。
2020/3/8

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書9章18-23節
親も守ってくれない時

18 ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、
ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19 尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」
20 そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。
21 しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。
本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」
22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。
23 そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 「怒り」に支配されたユダヤ人指導者
パリサイ人は「怒り」に支配されていました。ヨハネ5章で安息日の規程を破ったイエスに対し怒り、迫害が始まりました。
中には、真理がどちらにあるか迷う人もいました。
ですが、決してイエスを擁護する人たちは多数派にはならず、
9章に至るまでには、パリサイ人たちがイエスを殺そうとしていることは一般の人たちにも知れ渡っていました。
怒りに支配されたパリサイ派、ユダヤ人指導者たちは、神の働きを全く見ようともしませんでした。

2. 「恐れ」に支配された彼の両親
この両親は、どこを見ていたのでしょうか。神様のなさった奇跡に目を留めたのでありませんでした。
イエスが目を開く前に言われた言葉を両親にも聞いてほしかった。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」イエスはそう言って、彼の目が見えるようにされたのです。
息子が罪人と言われ苦しんでいたように、両親も苦しんでいたはずです。
神がその苦しみを取り除いてくださったのに、両親は見ようとしなかった。
彼の両親が見ていたのは、神ではなく、人でした。人を見て恐れたのです。

3. 十字架に向かう受難節と正面から向き合う
受難節とは、イエス・キリストが十字架に向かっていく日々を意識する40日間です。
今日はイエスを罪人にしたい人たちと、この世の権力を恐れる人たちの会話でした。
救いがないというか、光が見えない場面です。「怒り」と「恐れ」が今日の聖書に表れていました。安らぎも平和もありません。
これが私たちを取り巻く現実であり、聖書は決してこの世のこういう部分を否定しません。だけど、と言葉が続きます。
イエスは言われました。「わたしは世の光です」神の言葉には力があります。現実を変える力があります。だから、信じられるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 今日の私は「どこを見ているか」と自分自身に問いかけてみましょう。
  • 厳しい現実がありますが、イエスの光に照らされたいと願うことはあるでしょうか。
2020/3/1

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書  9章13-17節
神は時に常識を超える

13   人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14  イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。
15  こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。
彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。
16  すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。
ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。
そして、彼らの間に分裂が生じた。
17  そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。
「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」
彼は「あの方は預言者です」と答えた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. イエスは神に背いたと周りの人は判断した

「安息日を大事にしなさい」と聖書にあります。神様のルールです。
「安息日には働かないよ」これも神様のルール。みんな、よくわかっていました。
ただ、実際に生活してみると、どこまでは安息日にしてもいいのかと考え始めると、判断は難しいだろうと想像できるでしょう。
そこでパリサイ人(聖書のプロ)が、ガイドラインを作りました。
イエスはこのガイドラインを破りました(癒した、泥を作った)。
「ガイドラインを守る=安息日を守る=神に従う」と考えていた当時の人たちは、奇跡を喜べず、問題が起こったと感じ、取り調べが始まりました。

 

  1. 人間の決めたルールに過ぎないという可能性

意見が分かれますが、声が大きい人たちはイエスを有罪と決めたいグループでした。
自分たちは神様の定めた安息日を尊重し守っているが、イエスは安息日を破り神に背いていると確信していました。
実は彼らが必死に守っていたのは、人間が定めたルールでしたが、それに気づかなかったのです。
この状況を私たちも、軽く見てはいけないと思います。
もしかしたら、私たちも人間のルールに縛られ、神の本質を見誤っているかもしれません。
いいえ、私たちも必ずそういう面があるのです。私の目は見えているかと9章全体で繰り返し問われます。

 

  1. 自分の体験を偽らない勇気

生まれた時から罪人と陰口を言われ続けた生活から解放され、目が見えるようになった彼。そんな彼の口から出てきた言葉は「預言者」でした。
預言者というのは、神の言葉を神に代わって語る、神の代弁者のことです。
「預言者」は彼の中では、最高級の表現でした。
そして、預言者と告白することは、パリサイ派の人たちと真っ向から対立する答えだということも彼はわかっていたでしょう。
何度も問われ、圧力をかけられても、彼は自分の考えを表明しました。自分の体験を偽りませんでした。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 神様の導きがわかりにくくて迷う出来事はあるでしょうか。
  • 簡単に答えを出すよりも、そこで立ち止まり、悩むゆとりが必要かもしれません。

2月

2月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2020/2/23

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書  9章1-12節
「誰が悪いか」ではない道

1   さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2  弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3  イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4  わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5  わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6  イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7  「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
8  近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9  ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
10  そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
11  彼は答えた。
「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12  彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 負い目を感じながら生きてきた

生まれつき目の見えないこの人は、ずっと罪意識を押し付けられてきたんだと思います。
ずっと負い目を感じながら生きてきました。周りからは、罵られ、家族からも邪魔者扱いされていたかもしれません。
今回の弟子たちの一言。「あの人が目が見えないのは、誰の罪ですか。誰が悪いのですか。」
すでに何百回も繰り返された問いかけだったことでしょう。
彼の心は、硬く閉ざされていて、そういう言葉にいちいち傷つかなくなっていたかもしれません。

  1. 神は暗闇を照らす光

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」というイエスの言葉がどう彼に響いたでしょうか。
「わたしが世の光です」(5節)とイエスは言葉を続けます。
この世界の隅に追いやられ、誰も信頼できないと思っている人たちのところに行き、
神の愛は決して裏切ることがない、信頼して大丈夫だということを語り、また、行動で示しました。
神のわざとは、罪の束縛からの解放ですが、この世は何も信頼できない・救いなんかないという運命にあるような人に、イエスは神のわざを明らかにするのです。

  1. 新しい創造、愛の支配が始まる

イエスが自分を光と表現したことも天地創造の神と重なりますが、「泥」という言葉も創造のキーワードの1つです。
目の見えない人に塗った「泥」という言葉は創世記2:7の神が大地のちりで人を形作ったという、あの「ちり」と同じギリシャ語です。
つまり文字通り、イエス様はここで、新しい創造、新創造を行われたのです。
目の見えない人に、光を与えました。混沌とした希望の失われた現実にイエスは希望を与えました。
彼はそれを信じ、目を洗いました。

■一緒に考えてみましょう

  • 「誰が悪いか」と思っている出来事はあるでしょうか。そこに神の別の道はあるでしょうか。
  • あなたにとって、神によって目が開かれたと思うような出来事はあるでしょうか。
2020/2/16

説教者:髙橋 和義 牧師
聖    書:マルコの福音書10章45節
生かすための死

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

2020/2/9

説教者:`渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ヘブル人への手紙4章11-13節
神のことばは生きている

11.ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
12.神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、
心の思いやはかりごとを見分けることができます。
13.神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。
この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.「第一の出エジプト」と「第二の出エジプト」

ヘブル書3章から4章11節のみことばの間には、旧約聖書にみられる「出エジプト」の出来事と、
新約聖書におけるイエス・キリストによる救いの出来事が比べられています。
神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放されたことを「第一の出エジプト」と言うのに対し、
イエス・キリストが私たち人間を罪の奴隷状態から解放された救いのみわざのことを「第二の出エジプト」と言われます。
私たちがここで注目する「第二の出エジプト」は一度限りの完璧なみわざでした。
その完璧なみわざにより、イエスを信じるわたしたちは「神の子」「神の民」とされ、「神の国」へと招き入れられ、
いつまでも神と共に歩めるという「神の安息」が与えられたのです。

 

2.神の圧倒的なまでのゆるし

神のことばが生きていて、力があるとはどういうことなのでしょう?
それは、いのちある神のことばが、私たちを罪の告白へと導くこと。
そして、それに基づく神のゆるしが完全なものだということを、聖書は、日々、私たちに教えてくれるからではないでしょうか?
その完全さがどれほどのものか?
私たちは人からされた嫌なことを、そう簡単にゆるせる存在ではありません。
ところが神さまのゆるしはどうでしょう?
ルカの福音書15章にみられる「放蕩息子のたとえ話」を思い起こすと、神さまのゆるしとは、
私たち人間が他人をゆるそうとする思いとは別次元にあることを思わせます。
その別次元のゆるしを私たちはいただいているのです。
イエスの十字架のみわざは、完全なる罪のゆるしであり、私たちは徹底してゆるされているのです。

 

3.神不在の世界観から神中心の世界観へ

生きて働く神のことばによって明らかにされることは、聖書の世界観でしょう。
かつて、私たちは誰もが神を知らない世界で生きていました。
しかし、私たちの人生の中にイエスが飛び込んで来てくださり、このお方を信じることによって、
私たちは、この世界が神がお造りになられた世界だったことに気づかされます。
この視点の変化は、「第二の出エジプト」を成し遂げられたイエスを信じることにより明らかにされます。
そして、その救いが完全さゆえに、私たちは、神さまにゆるされているからこそ生きられる存在であることを知ります。
私たちは神の御前で申し開きすることしかできない存在です。
しかし申し開きできるようになったからこそ、「神の安息」の中で生きられるようになったのではないでしょうか?

■一緒に考えてみましょう

  • 神のことばが生きていると感じるとき、あなたにとってどんなときでしょう?
2020/2/2

説教者:`蒔田 望 牧師
聖    書:マタイの福音書  13章31-32節
「小さい」という魅力

31  イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。
32  どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

はじめに

2月、3月は神の国について取り上げます。
「余白」を持って、溢れるばかりの神の恵みを見つけたいと思っていますが、
神の国の特徴を知っていると、神の恵みがどこに溢れているのか、見つけやすくなるはずです。

 

  1. からし種は「小さい」

イエス様は「小さい」という魅力があると言われました。
やせ我慢でもなければ、かわいそうだからと同情してくれたわけでもありません。
神の溢れる恵みは「小ささ」の中にあるのです。
神の国は小さいという特徴があると言われて、パッと思い出すのが、小さな子どもが神の国にふさわしいというメッセージです。
社会で、取るに足らないと言われる人、貧しさ、病気、社会の隅っこに追いやられている人こそ、神の愛を真っ先に受ける人だと言われます。
「小さい」ということが、決して神の国では、悪いことではない。
むしろ、弱さを背負っていることが逆に神に近づけてもらうことになるのです。

 

  1. からし種は「成長する」

小さいけど、神様はそれを豊かに育ててくれる。これも神の溢れる恵みの特徴です。
最初は取るに足らないことだと思っていても、恵みというのは、まさに取るに足らないところに注がれ、立派に成長させてくれる。
33節には、パン種(イースト菌)の例えが語られます。
パン種を混ぜることによって、それは少しにも関わらず、パン全体が膨らみます。
この2つの例えからわかるのは、小さくても、神様は想像をはるかに超えた影響力を与えるという事です。

 

  1. からし種は「巣になる」

巣を作るという表現が、終わりの時代を描く時に使われています。
鳥は聖書では、異邦人を表すことがあります。
さらっと書いてありますが、旧約のイメージがここには暗示されていて、
終わりの時代に異邦人もが神の国に加えられるというメッセージを読み取る事ができます。
イエスの共同体は最初は小さかったと思いますが、次第に成長していき、
やがては異邦人もがそこで休むことができるような広がりを持つのです。

■一緒に考えてみましょう

  • からし種の3つの特徴を踏まえて、私たちの身の回りに神の恵みを見つける事ができるでしょうか。

1月

1月

ビジョン2030

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2020/1/26

説教者:`蒔田 望 牧師
聖    書:使徒の働き  15章22-35節
重荷は負わせない

22  そこで、使徒たちと長老たちは、全教会とともに、自分たちの中から人を選んで、パウロとバルナバと一緒にアンティオキアに送ることに決めた。
選ばれたのはバルサバと呼ばれるユダとシラスで、兄弟たちの間で指導的な人であった。
23  彼らはこの人たちに託して、こう書き送った。
「兄弟である使徒たちと長老たちは、アンティオキア、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつを送ります。
24  私たちは何も指示していないのに、私たちの中のある者たちが出て行って、
いろいろなことを言ってあなたがたを混乱させ、あなたがたの心を動揺させたと聞きました。
25  そこで私たちは人を選び、私たちの愛するバルナバとパウロと一緒に、あなたがたのところに送ることを、全会一致で決めました。
26  私たちの主イエス・キリストの名のために、いのちを献げている、バルナバとパウロと一緒にです。
27  こういうわけで、私たちはユダとシラスを遣わします。彼らは口頭で同じことを伝えるでしょう。
28  聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。
29  すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」
30  さて、一行は送り出されてアンティオキアに下り、教会の会衆を集めて手紙を手渡した。
31  人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ。
32  ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、力づけた。
33  二人は、しばらく滞在した後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、自分たちを遣わした人々のところに帰って行った。
35  パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のことばを教え、福音を宣べ伝えた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 譲っていい部分と譲れない部分

この3重円の真ん中は、絶対に譲ってはいけない部分。
次は、複数の立場があるけど、中には教義と同じくらい重要と考えられる内容。
最後は、意見が違っていてもいいよねと納得できる部分です。
「イエスが救い主である」これは教義のど真ん中。パリサイ派は律法遵守も真ん中だと信じていたのですが、パウロは否定しました。
人はそれぞれ体験が違います。すべての点で一致することは不可能です。
だからその上で、共通して大事にすべきものを整理することは大切です。

 

 

 

 

 

 

  1. 4つのルールは神の愛ゆえ

救いには関係ないけど、この4つは守ってくださいと条件が出ました。
理由は2つ。まず、自分(異邦人教会)のため。
今まで文化として馴染んでいた中に、異教の神への礼拝があり、供え物にしても、食べ物にしても、
当時は性的な行為も宗教と結びついていたため、避ける必要がありました。
もう1つは、異邦人クリスチャンが気をつけることで、ユダヤ人クリスチャンとの関係を築くためでした。
つまり、この4つのルールは異邦人クリスチャンを縛るものではなく、神の愛に基づくものでした。

  1. 違いを乗り越え、平安を体験した教会同士の交わり

エルサレム教会は律法を大事にしていただろうし、アンティオキア教会の異邦人教会とは違ったはずです。
違うけど、大事な部分は一致していて、それで十分でした。このように派遣されたユダとシラスによって、
神の恵みを共有し、神のことばを聞いて、励まされ、慰められ、力づけられました。
この関係を私たちの間で、教会と教会との関係で体験したいのです。
練馬教会は多様性を受け入れる方向で進んできましたが、これからも同じです。
合言葉は「でこぼこがいい」です。

■一緒に考えてみましょう

  • 大事にしているキリスト教の価値観のいくつかを3つの円のどこに当てはまるか考えてみましょう。
2020/1/19

説教者:`渋谷 昌史 伝道師
聖    書:使徒の働き15章12-21節
配慮し合える関係に

12.すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。
13.二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。
14.神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。
15.預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。
16.『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び立て直す。その廃墟を立て直し、それを堅く立てる。
17.それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。
18.――昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』
19.ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
20.ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血を避けるように、彼らに書き送るべきです。
21.モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに宣べ伝えるものたちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.福音に律法を加えるとどうなるか?

ここで登場するヤコブは主イエスの兄弟として知られており、エルサレム教会で指導的な立場にあった一人です。
エルサレム会議の発端は、ユダヤ教のパリサイ派からクリスチャンになった人たちが「異邦人も割礼を受けなければ救われない」と言い出したことから始まりますが、
この会議の本当の議題は「福音と律法」の問題だと言えましょう。
これは今を生きる私たちの問題でもあります。イエス以外のものが私たちの心を支配するようになるとどうでしょう?
そのとき私たちの心を支配しているものに私たちは縛られてしまいますよね。
では、イエスが私たちの心を支配するようになるとどうでしょう?
私たちの心を縛るありとあらゆるものから解放され、本当の自由を味わえるようになるのではないでしょうか?
救いの条件は「信仰のみ」です。

 2.神のみことばに頼るヤコブ

ペテロ、バルナバ、パウロの証言のあとで、この会議を総括したヤコブが頼ったのは、彼らの体験談ではなく「生ける神のみことば」でした。
異邦人がユダヤ人と同じように信仰によって救われるというペテロやバルナバやパウロの証言は、
旧約聖書に記されている預言者たちの言葉と一致しているとヤコブは指摘し、アモス書のみことばを引用するのです。
17節に出てくる「異邦人」のところで「自分」のことが言われていると受け止めてみるとどうでしょう。
私たちの救いは、旧約の時代から「神のご計画」の中にあったことに気づかされないでしょうか?

3.配慮し合える関係に

ヤコブは会議の結論を導きだしたあとで、20節の提案をつけ加えます。ヤコブのこの提案はいったい何を意味するのでしょう?
これは、ユダヤ人クリスチャンに対するヤコブの配慮のことばだと言えましょう。
20節にみられる4つの禁止事項は、ユダヤ人たちがずっと大切にしてきたモーセの律法に反するもので、
そこは文化の違いだから認め合おう、というわけにはいかないのです。
配慮が必要になるのです。
異邦人クリスチャンたちは、なぜ、自分たちの振る舞いがユダヤ人クリスチャンたちにつまずきを与えてしまうのか、
ということがわかってくると、異邦人クリスチャンだってユダヤ人クリスチャンに対する配慮ができるようになってくるでしょう。
互いに配慮し合える関係になれれば、相手のことを思い、自分の自由を制限できるようになるのです。

■一緒に考えてみましょう

  • あなたは初めて経験する問題に出くわしたとき、どうしますか?
    あるいは過去に経験した出来事に対してどういう対応をしましたか?
2020/1/12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:使徒の働き  15章6-11節
神によるリーダーシップ

6  そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
7  多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。
「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
8  そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
9  私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
10  そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
11  私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 協議は多くの論争からスタート

パリサイ派のクリスチャンは「モーセの律法を守り、割礼を受けなければ救われない」と主張しました。
イエスがユダヤ人だったこと。律法を守ったことを述べたかもしれません。
しかし、ペテロの主張は違いました。異邦人に福音た宣べ伝えられた出来事をもう一度、思い出しなさいと促します。
割礼を受けたから、救われたのではなく、福音が語られ、異邦人が信じたとき、
神はペンテコステと同じように聖霊を下され、異邦人の信仰を受け入れたのです。

 

  1. Missio Dei (神の宣教)、つまり宣教の主導権は神にある

宣教の主体は常に神であるということです。
宣教とは教会が大事にすべきことですが、宣教は人のがんばりではなく、神が宣教の主体なのです。
人は、神の御心はこれだ、いや神の御心はあれだと、それぞれの経験や立場によって、色々、主張します。
ただし、私たちが忘れてはいけないことは、宣教の主体は神ご自身であり、常に神ご自身がイニシアティブ、主導権を持っているということです。
ペテロが思い出しなさいと言ったことはこれです。
そして、救いは主イエスの恵みに尽きるのであり、そこはユダヤ人も異邦人も同じだと主張しました。

 

  1. 練馬教会のビジョン2030「            」

創立記念礼拝で過去の歩みを感謝すると共に、今年は将来のビジョンを掲げるための記念礼拝です。
ビジョン2030の合言葉は礼拝の中で発表しますので礼拝の後、上の「   」の中に書き加えてくださればと思います。
礼拝の中でビジョン2030の詳しい説明をする時間はありませんが、YOUR COMMUNITY CHURCHという週報に掲げられた言葉を
教会の目指す姿と改めて定義し、教会大家族会議で出た教会員の声を反映させ、聖書を土台とした今後10年間のビジョンです。
一緒に夢を追いかけてみませんか?

■一緒に考えてみましょう

  • 神によるリーダーシップを体験したことがあるでしょうか。自分自身の体験を振り返ってみましょう。
    また、今、神のリーダーシップが必要だと思える事柄があるでしょうか。
2020/1/5

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:使徒の働き  15章1-5節
伝統の本質と革新

1  さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに
「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
2  それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、
この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
3  こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。
道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
4  エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。
それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
5  ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、
「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 異邦人宣教も「戸惑い」からスタート

使徒12章に記されている異邦人宣教の記録を読むと、ペテロは神のことばを最初は拒否し、
躊躇しながらも聖霊に押し出される形で、異邦人宣教がスタートしたことがわかります。
ペテロの行動を知ったエルサレム教会は最初ペテロを非難しますが、ペテロは丁寧に始めから説明をしたところ、
人々は沈黙し、「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになった」と神を賛美しました。
戸惑いながらも、神の導きを受け入れていったのです。

 

  1. 今回の論争では、両者とも「神のみこころだ」と主張

パウロとバルナバは、「イエスがすべての罪を赦し、神の子どもとしてくださる」と主張しました。
それに対して、ユダヤから来た人たちは「イエスが救ってくれるけど、信じたらユダヤ人のようにモーセの慣習に従って割礼を受けなければ、救われない」と主張しました。
確かに、イエス自身、ユダヤ人として生まれ、割礼を受けました。
ユダヤ人の中で宣教が行われている間は、みんな、割礼を受けている人たちでしたから、その違いに気づきませんでした。
異邦人宣教が始まった結果として起こった問題ですが、救いの本質が明らかになる機会になりました。

 

  1. 戸惑いながらも、神に信頼する

「古いあり方、伝統に固執して、神の導きに従えなくなる」これだけは私たちは避けなければいけません。
むしろ、余白を意識しつつ、自分の常識が神の常識と重なっているか、常にチェックしつつ、神の語りかけに、素直に応答できる心を持ちたいと願います。
それは革新的と言えるかもしれません。私の慣れ親しんだ意見を通すことが重要なのではなく、私たちは神に信頼し、神の示した道を進んでいく。
これが信仰の伝統なのだと思うのです。

■一緒に考えてみましょう

  • どのようにしたら、私たちは自分のあり方や考え方に固執しないで、神の導きに柔軟に対応できるのでしょうか。
    また、譲ってはいけない点と譲っていい点を、どのようにして見分けることができるでしょうか。

12月

12月

アドベント

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2019/12/29

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ルカの福音書2章25-35節
神をほめたたえよう

25.そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。
また、聖霊が彼の上におられた。
26.そして、主のキリストを見るまでは決して死をみることはないと、聖霊によって告げられていた。
27.シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
28.シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29.「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30.私の目があなたの御救いを見たからです。
31.あなたが万民の前に備えられた救いを。
32.異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
33.父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
34.シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35.あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.イスラエルが慰められるのを待ち望んで(2:25-27)

「シメオン」とはどんな人だったのでしょうか?
年齢はわかりませんが、彼は、神と人々に対して正しく振る舞い、神に対する信頼と神に仕える心を持ち続けた人でした。
だからこそ「聖霊」が彼の上に留まっていたのでしょう。
シメオンは、多くの信仰者が願っても叶わなかった出来事を体験します。
26にあるみことばの約束通りに。自分の思いではなく、御霊に導かれて行動したシメオンは、
自分と同じように「神の律法」にならって生きるヨセフとマリアが幼子イエスを連れて宮に入って来たところに出くわすのです。
待って、待って、待ち望み続けた「救い主」が目の前におられるのです。

 

2.私の目があなたのみ救いを見た(2:28-33)

赤ちゃんのイエスさまを腕に抱き、神をほめたたえたシメオンは、
「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」と言います。
私たちは、何か大きな目標を達成したりしたときに「もう、死んでもいい」と思うことがありますが、
シメオンはそのような気持ちでこの言葉を語ったのではないでしょう。
彼の言葉の背後には、「私には、『しもべを安らかに去らせてくださいます』と言える特権が与えられ、
今からは、主よ、あなたの平安のうちに生きられます」という意味が込められていることでしょう。
シメオンは、今、自分の腕の中に確かな「救い」があることを実感しているのです。

 

3.人々の反対にあうしるしとして定められた子(2:34-35)

しかし、34、35節に見られるシメオンの言葉には暗い影があります。彼は何を言いたかったのでしょうか?
彼は、今、その手にだっこしている幼子こそ、私たちのありとあらゆる苦しみを背負われる「救い主」だと言うのです。
ではなぜイエスが「苦難のしもべ」として生き、最終的に十字架刑で死ぬことが主のみこころだったのでしょうか?
それは、私たちの「心のうちの思いが、あらわになる」必要があるからです。
私たちの心のうちにある思いとは、私たち人間の「罪」です。この罪の性質は自分の力ではどうにもなりません。
皆さん、主のキリストに出会い、心のうちの思いがあらわにされてどうなったでしょうか?
罪が告白できるようになり、救われましたよね。この救いが主イエスにだけしかない「まことの救い」、「まことの平安」なのです。

■一緒に考えてみましょう

  • あなたにとって「救い」とは何ですか?
2019/12/22

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書  2章1-7節
隅っこ暮らし

2:1  そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2  これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3  人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4  ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5  身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6  ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7  男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 「すみっコぐらし」に通じるイエスの誕生

サンエックスのキャラクターに「すみっコぐらし」というキャラクターがあります。
見た目もかわいくて魅力的ですが、それぞれのキャラクターの特徴が後ろ向きというか、ネガティブっぽさがあるのが人気なんだそうです。
小さな闇を持ったキャラが自分と重なるようで、子供だけでなく大人からの共感も呼ぶのだとか。
聖書の記録を丁寧に読むと、クリスマス、イエスの誕生は、まさにすみっコぐらしだということがわかると思います。

 

  1. ローマ皇帝の命令に従う形で、神の約束が実現していく

大々的に救い主が生まれてくるのではありません。
ローマ皇帝に支配され、その命令に従う中で、実は神の約束が確かに実現していくというから、不思議です。
ベツレヘムでの出産、ダビデの子孫としての誕生。どちらも、聖書に書かれた約束の通りでした。
ただ、その時代の人ですら、気づかないくらい静かにその約束は実現していきました。
誰も貧しい田舎で大工をしているヨセフとマリアから救い主が生まれるとは思いもよりませんでした。

 

  1. 救い主は、飼葉桶に

文字通り、宿屋がいっぱいだったのかもしれないし、客間がいっぱいだったのかもしれないですが、
場所がどこであれ、どんな状況であれ、「彼らのいる場所がなかったからである」と聖書は記録しています。
イエスの誕生はまさに、「すみっコぐらし」でした。
救い主なのに、飼い葉桶生まれ。歓迎されるのではなく、むしろ奇異な目で見られつつ生まれてきたかもしれません。
最初にお祝いに駆けつけたのは、社会の底辺にいた貧しい雇われ羊飼いたち。
これが最初のクリスマスです。社会の隅っこにいる人に寄り添うために救い主が生まれたのです。

■一緒に考えてみましょう

  • 社会の隅にいる人を大事にするのが聖書の神だとしたら、私たちはどのようなクリスマスのお祝いをしたらいいでしょうか?
    私はそのようなお祝いをしたいと思うでしょうか?
2019/12/15

説教者:蒔田 望む 牧師
聖    書:ルカの福音書  1章46-55節
いつまでも忘れない

46マリアは言った。
「 私のたましいは主をあがめ、 47私の霊は私の救い主である神をたたえます。
48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も 私を幸いな者と呼ぶでしょう。
49 力ある方が、 私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、50主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます。
51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみを いつまでも忘れずに。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 「神をあがめる」という感覚

46節の「あがめる」は、ギリシャ語で「大きい/重要/偉大」というニュアンスがあります。
神様が文字通り、大きな存在だというマリアの実感がここにあるのでしょう。
「たたえる」は「大喜び」というニュアンスです。
「あがめる」や「たたえる」は宗教用語っぽいと私は感じます。
この言葉を使うと、敬虔なクリスチャンっぽい雰囲気が出ます。
これらの言葉に、自分のどんな感情、どんな体験が重なるかをぜひ意識したいところです。
圧倒的な自然の美しさ、音楽、芸術。人によって違うのですが、きっと私たちのうちにもその感覚があるはずです。

 

  1. 高慢さ と 貧しさ

心の高ぶる者、権力ある者、富む者は神を恐れなくなりがちだというのが聖書の視点です。
一般論ですが、権力やお金は人を高慢にし、周りを見下すような態度にさせてしまうというのは、その通りでしょう。
権力やお金から離れるというのも1つの生き方ですが、権力やお金を神から託される人もいるのです。
権力やお金を握ったとき、これは神から託されたものであり、私は神の前にひざまずき、
これを神のため、人のために使うんだという意識が非常に大事になってきます。
権力やお金が悪なのではありません。これを適切に使うのが難しいという話です。

 

  1. 神はいつまでも忘れない

48節の「目を留める」とは、「注意深く、関心を持って見てくれる」という言葉です。
大勢の中の1人としてではなく、私のことを関心を持って、気にかけてくれている。
これがマリアの実感でした。「あわれみ」という言葉が2回出てきますが、これは永遠に変わることのない神の愛を表す特別な言葉です。
特にこの愛は、愛されるに値しないと思っている人たちに向けられます。
マリアも非常に貧しい暮らしをしていました。
貧しい暮らし、困っている人に、特別な祝福を与えるのが聖書の神の一貫した姿勢であり、これからも変わることはありません。

■一緒に考えてみましょう

  • マリアの信仰告白(祈り・賛美)を読んで、どの部分が特に印象に残ったでしょうか。
2019/12/8

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:イザヤ書57章15-16節
へりくだった人とともに

15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方がこう仰せられる。
「わたしは、高く聖なるところに住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。

16 わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。
わたしから出た霊が衰え果てるからだ。私が造ったいのちの息が。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

2019/12/1

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書  1章26-38節
神に信頼したマリア

26  さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27  この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
28  御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29  しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30  すると、御使いは彼女に言った。
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31  見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32  その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33  彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
34  マリアは御使いに言った。
「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
35  御使いは彼女に答えた。
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36  見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37  神にとって不可能なことは何もありません。」
38  マリアは言った。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
すると、御使いは彼女から去って行った。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 突然、その時はやってくる

突然、神の使いは現れます。
エルサレムの神殿に。そして、ナザレの、ど田舎にも。年老いた祭司にも、まだ結婚もしていない少女のところにも。
職業も年齢も経験も関係ありません。突然、その時は訪れるのです。
実際に、神の使いを前にしたら、恐ろしくなり、素直に神の祝福を喜ぶことはできず、
神の前に正しいと評されるザカリア出され、疑ってしまうのです。
それほど、常識とは違う、神の恵みが語られると私たちはどこまで本気で信じているでしょうか。

 

  1. 余白のある生活で見つけるのは、この圧倒的な「恵み」

私みたいな人に、そのような大役は務まらないんじゃないかという感覚。
ダビデのような救い主を、何百年も待ち望んでいるとマリアは知っていました。
でも、自分がその母親になるなんて、一度も想像もしてこなかったことです。
「私なんてどう考えても、ふさわしくない」この感覚が、神の恵みを自分の肌で感じた人の反応なんだと私自身、改めて教えられました。
私には不相応な、釣り合わないほどの、もったいないほどの善意、これが神の約束している恵みであり、
余白のある生活で見つけるのも、ほどほどの幸せではなく、この圧倒的な恵みです。

 

  1. どこまで自分を差し出せるでしょうか

マリアは恵みを恵みとして受け取りました。祝福として受け取りました。
辛いことも通りますが、彼女にしかわからない幸せがあったでしょう。
神から圧倒されるような恵みを受け取る準備はできているでしょうか。
あり得ないこと、頼んでないようなことが起こるのが聖書の世界であり、クリスチャンの人生です。
一般の人たちから「悪いクジを引いちゃったね」と言われるかもしれません。
それでも、神の現実に目を留められる人でありたいのです。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸せだ」(1:45)とエリサベツがマリアに語ったように、
お互いに言い合える関係になりたいのです。

■一緒に考えてみましょう

  • マリアの決断があってイエスが生まれました。私は何か決断を迫られているでしょうか。

11月

11月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2019/11/24

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:詩篇  121篇1-8節
私の助けはどこから来るのか

1   私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。
2   私の助けは主から来る。 天地を造られたお方から。
3   主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない。
4   見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。
5   主はあなたを守る方。 主はあなたの右手をおおう陰。
6   昼も 日があなたを打つことはなく 夜も 月があなたを打つことはない。
7   主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる。
8   主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. キーワードは神が「守る」

詩篇121篇は8節までの短い詩篇ですが、守るという言葉が6回も出てきます。
「守る」という言葉はこの詩篇のキーワードです。
どのように使われる言葉かというと、羊の群れを見守るときや、町の城壁を守る見張りに、この言葉を使います。
どちらも急に危険に襲われるリスクがあります。決して安全が保障された場所ではありません。
オオカミに襲われるかもしれないし、敵が攻め込んでくるかもしれません。
そういう危険な夜を過ごす時、私たちの神様はうとうとすることは決してない。起きていてくれて、私たちを守ってくれる。
敵が襲って来たとしてもが盾となって守ってくれるし、戦ってくれる。だから安心できるのです。

 

  1. 巡礼者の守りはクリスチャンの守りへ

なぜエルサレムに行くのでしょうか?礼拝を捧げるためです。
神様が私を礼拝しなさいと招いているからです。ある意味、礼拝するように命じているからです。
エルサレムに向かって旅をしているということは、この人は神様の言葉に従ったのです。
神に託した人生であっても、時には山あり谷あり、危険があります。
そういうとき、この詩篇121を思い出したいのです。
神様に人生を明け渡した人を、神の責任で守ってくださる。今よりとこしえまでも。
神のことばに従い、人生の旅路を歩む私たちもこの詩篇に心を合わせる事ができます。

 

  1. 石井忠雄先生の人生を思い浮かべつつ

この詩篇の祈りは1年前に天に召された石井忠雄先生が大切にしていた祈りでもあると聞いています。
石井先生はまさにこの聖書の約束に従い、信仰の生涯を全うされました。
苦しいこともあったでしょうし、歯を食いしばらなければならないときもあったでしょう。
それでも、「天地を造られた神様は私の人生を最後まで責任を持って守ってくださるし、私の人生は神様の御手の中にある」と
石井先生は私たちに信仰の足跡を残してくださったように思います。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 神の守りを切に求めたい事柄が思い浮かぶでしょうか。誰かに祈ってもらえたら嬉しいですね。
2019/11/17

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ヘブル人への手紙10章24-25節
励まし合う共同体

24.また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
25.ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。
その日が近づいていることがわかっているのですから、ますます励もうではありませんか。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.教会の外に目を向けて

ヘブル書の読者の多くがもともとユダヤ教を信じていたことを考えてみるとどうでしょう?
ユダヤ教を信じる者は、異邦人のことを嫌っていましたよね。
彼らはヘブル書の著者から24節の勧めを聴いた時に、愛と善行を示す相手はもともとユダヤ教を信じていた仲間うちだけではないこと、
互いに注意を払う相手も自分たちの仲間うちだけでないことを感じ取ったことでしょう。
チャレンジがあります。それは私たちにとっても同じチャレンジではないでしょうか?
私たちは教会の仲間内でこじんまりとまとまっていればよいのではありません。
ヘブル書の読者たちと同様、教会に来ている方の外にいる人を意識しなければならないのです。

 

2.互いに注意を払おう

「互いに注意を払おうではありませんか」という勧めは、クリスチャン同士が互いに干渉しあうことではありません。
そうではなくて「祈り」こそこのみことばに対する応答のように私は感じます。
また「互いに」という言葉の中には、教会員同士だけでなく皆さんの先におられるイエスを知らない多くの方々をも含んでいることでしょう。
そうなると、私たちは注意を払わなければならないことがあります。
主の憐れみによって救われたことを忘れ、上からの物言いになりがちな方は、主イエスがへりくだって、仕えるものになられたことを心に留める必要があるでしょう。
教会の中でしか通じない言葉は、自分の言葉で言い変える努力も必要になるでしょう。
そしてこれが最も難しいのですが、「ダメなことはダメ!」とはっきり伝えてあげることも大切です。

 

3.互いに励まし合おう

25節のみことばからは礼拝の大切さが伺えます。私たちは、何故、礼拝に集まるのでしょう?
神をほめたたえるためですよね。
共に神をほめたたえる仲間は、礼拝を通していのちのことばを味わい、分かち合う中で励ましを受けます。
しかし、気をつけなければならないことは、互いに励まし合うということには、「寄り添う」という側面もあるように思うのです。
教会に導かれた弱った人、悲しみの中にある人、苦しんでいる人たちと共に歩み始める時、
その人が口を開いた時には目の前にいるその人の言葉をさえぎることなく、
すべてを受け止めるような包容力が必要になるでしょう。
互いに励まし合えること、互いに寄り添えること、それを可能にするのがキリストを主と告白する共同体ではないでしょうか?

 

■一緒に考えてみましょう

  • 励まし合ったり、寄り添う体験を通して、あなたは主からどんなプレゼントをいただきましたか?
    どんな祝福を周りの人へと流しましたか? 自由に分かち合いましょう。
2019/11/10

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:マルコの福音書  10章13-16節
こどもの祝福を祈りませんか

13  さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
14  イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
15  まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
16  そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. イエスの隣人を私の隣人に

イエスが大勢の取税人や罪人と食事をしたということは、イエスは彼らの仲間となったという意味です。
今日は子どもたちがイエスに歓迎されます。どちらも当時の常識からしたら、信じられない光景です。
律法の専門家は批判し、弟子たちも叱りつけました。人から見たら、そういう相手がイエスの隣人でした。
神を愛し、人を愛するという聖書の根本を大事にしようとするとき、誰が私の隣人なのか、イエスの行動から学びたいのです。

 

  1. 神の国はこのような者たちのもの

神の国は、子どものようなもの。社会で相手にされず、のけ者にされる代表的な立場が子どもです。
社会の隅にいて、価値があると思われないのは、子どもだけではありません。
取るに足らないと思われる人。貧しい人。取税人。病人。女性。障害者。そういう人たちこそ、神の国にふさわしいのです。
1番、抑圧され、馬鹿にされ、人として相手にされない。愛に飢えている人。そういう人のところに、神の愛は届けられるのです。
神の国はこういう人たちのものなのです。

 

  1. 弟子の姿は私たちの姿

プライドだけ高くて、霊的には鈍くて、何度も失敗を繰り返す。
神の価値観より、生まれ育った価値観に支配されている。
ただ、感謝なことは、イエスは誰も見下すことなく、社会の隅まで来てくれる。
失敗を繰り返す弟子を見捨てることはなかった。
罪深さを自覚して、イエスを求めた人に示されたのは、憐れみであり、恵み、真実の愛でした。
だから、私たちはいつでも、神の前に立ち返ることができます。
そして、溢れる恵みを受け、周りの人のために、今度は祝福を祈る側にしていただきたいのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 弟子と私は重なるでしょうか。重なるとしたら、どのようなところが重なるでしょうか。
  • イエスのように隣人を愛するには、私たちはどうしたらいいと思いますか。
  • 今日、あなたが祝福を祈りたいのは誰ですか。
2019/11/3

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:マタイの福音書  9章9-13節
大酒飲みと言われたイエス

9  イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、
「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
10  イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
11  これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
12  イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
13  『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 食事は仲間の証

イエスが大勢の取税人や罪人と食事をしたということは、イエスは彼らの仲間となったという意味です。
宗教指導者たちの常識からは信じがたい行為でした。
文字通り律法を守り、汚れた行為から距離を取ることを大事にしていました。
このパリサイ派の人たちの見解はある意味、常識的だと言えるかもしれません。
そして、教会も同じような過ちを犯すことがあるから注意を怠ってはいけません。
聖書を大事にするあまり、最も癒しを必要としている人に愛を示さずに、むしろ厳しい対応をすることがあり得るのです。

 

  1. 聖人ではなく、罪人を招くために来た

イエスは、罪人を招くために来ました。聖人を招くために来たのではありません。
聖書のいう罪人とは、犯罪人とは違います。
人生の傷を抱え、間違いを犯し、悩み、苦しみ、後悔している、そういう人に、神の真実な愛は注がれるのです。
決してバカにしない、見下さない、温かい眼差しです。あの食卓で、大勢の取税人や罪人はイエスの愛を受けていたのです。
最も愛を必要としている人が愛を受けている光景を見て、パリサイ派の人は、大問題だと叫ぶんです。

 

  1. マタイへの招きはあなたにも

イエスに声をかけられたマタイは、心底から驚いたでしょう。みんなから嫌われている自分を呼んでくれるのか。
弟子にしてくれるのか。仲間だと言ってくれるのか。
誰からも愛されていなかったマタイは、お金では買えない真実の愛を心から求めていたのかもしれません。
このイエスの招き。これが神の恵み、神の愛です。あなたが不完全なのは知っている。それでもいい。
あなたは神の子どもにふさわしい。そのままでいいから、私について来なさい。
あなたは神の愛を体験し、あなたの傷は次第に癒される。これがイエスの招きです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私たちが「取税人、罪人」と見なす傾向にある人は誰でしょうか。
  • どのようにしたら、神の愛が示される現場を目撃した時、怒らずに、賛美できるでしょうか。

10月

10月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2019/10/27

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書  10章25-37節
隣人を愛する具体例

25  さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。
「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、
また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
30イエスは答えられた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。
強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
34そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
35次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
37彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」
するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 私の隣人とは誰ですか

自分の日頃の行いの正しさを証明しようと律法の専門家はイエスに問いかけました。
この質問は私たちにとっても重要です。
神を愛するように「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われる隣人とは誰のことだと認識しているでしょうか。
ぜひ、メモしてください。
イエスは律法の専門家の質問に対して、直接的には答えずに、「よきサマリア人」と呼ばれる例えを話しました。

 

  1. 律法の文字に従い、律法の心から離れた

強盗に半殺しにされた人を最初に見つけたのは祭司、次にレビ人です。
2人とも死にそうな人を助けません。ユダヤ人はこの行動に納得したかもしれません。
死体に触れたら汚れてしまうという律法の規定がありました。
でも、イエスはこの2人を、隣人を愛していない人として描いているのです。
律法に従っているが、律法の根底にある他人を愛することに失敗したと言えるでしょう。
律法を守ること自体は間違っていない。だけど、律法を守ることに固執しすぎて、律法の根底を読み間違えることがあるのです。
祭司とレビ人の行動がそれを表しています。

 

  1. 大っ嫌いな人が隣人を愛する具体例に

サマリア人。この単語を耳にしただけで、イラッとする。
憎しみや敵対心という言葉では表現しきれない感情。意識の深いところにまで染み付いている、嫌悪感。
それがユダヤ人にとってのサマリア人です。あなたにとってのサマリア人を思い出してください。
思い出せないと律法の専門家が味わった苦味が理解できません。
私たちが、神の似姿に変えられていくということは、この苦味を体験することに他なりません。
この苦味を味わいつつ、自分のうちにあるジレンマと向かい合いつつ、イエスの示された道、神と人を愛する道を選んでいきましょう。

 

■一緒に考えてみましょう

  • あなたの隣人は誰ですか?あなたのサマリア人は誰ですか?あなたは行って何をしますか?
2019/10/20

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ヘブル人への手紙10章19-23節
神に近づく共同体

19.こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20.イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
21.また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
22.心に血がふりかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
23.約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.神に近づくための「新しい生ける道」

神に仕えるまことの大祭司であると同時に、神と人との和解の道を切り開かれた真のいけにえであられるお方が、私たちの救い主イエス・キリストなのです。
そのお方がたった一度だけ、いけにえとしてご自身を捧げられた十字架のみわざにより、天におられる神と地に住む私たちの間の隔ての壁は取り除かれます。
旧約のいけにえを捧げていた時代に、神に近づくことがゆるされたのは大祭司だけであり、その大祭司はいつでも神に近づくことができたわけではありませんでした。
しかし、キリストの血により聖なるものとされた私たちは、キリストという「新しい生ける道」を通して、神に近づくことができるようになったのです。

 

2.私たちは神に近づく共同体

私たちは、キリストという確かな道の上で「神の国」の完成を目指して歩んでいます。
しかし、そんな道を歩いているという実感ないな、と感じることもあるでしょう。
そのような時は、ジョン・ニュートンの
「私は、自分がなるべき状態になく、自分がなりたい状態でもなく、天国でそうなるようにと望んでいる状態でもない。
しかしそれでもなお、私はかつての自分ではない。そして神の恵みによって、私は今の自分であるのだ
という言葉を心に留めて頂きたいと思います。
私たちは、もはや神を知らなかったときの自分ではないのです。
神を知っているし、イエスが示された「神を愛し、隣人を愛する」生き方でもって、私たちは神に近づく共同体とされたのです。

 

3.約束してくださった神は真実なお方

約束してくださった神が真実なお方であられることは、創世記3章15節のみことばや、神さまと契約を結んだイスラエルの民が、
神さまを裏切り続けたにもかかわらず、神さまの側は契約を守り続け、しまいには神から離れ罪に苦しむ私たちのために、
愛する一人子であられるイエスさまを私たちの世界へと送って下さったことからもわかります。
そのイエスが教えて下さった生き方は、隣人がいてはじめて可能になる生き方です。
その生き方は神を信じる共同体、神に近づく共同体のなかでますます育まれ、私たちはその祝福を神をまだ知らない方へ届ける務めを成すことでしょう。
そのようなまったく新しい生き方へと導いて下さった主イエスをほめたたえようではありませんか。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 教会という共同体はあなたにとって、どのような場所でしょうか?
2019/10/13

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:マルコの福音書  12章28-34節
常識に縛られない

28  律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」
29  イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
30  あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
31  第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
32  律法学者はイエスに言った。
「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。
33  そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、
どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」
34  イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 「シェマ」と呼ばれる信仰の基礎

ユダヤ人が朝と夜、皆がこの言葉を毎日祈っていたのがシェマ。
申命記6:4は「聞け、イスラエルよ」と始まりますが、
最初の単語が「聞け」という意味のヘブル語シェマなので、この信仰告白をシェマと呼びます。
シェマとして祈るのは、申命記6:4-9,11:13-21, 民数記15:37-41の3箇所だったと言われます。
本当に大事なことが書かれている部分と言われるのも納得です。
毎日、朝夕に信仰を告白し、自分たちの生活は神によって支えられ、守られていることを思い出していたのでしょう。

「シェマの全文」

申命記6:4-9
6:4聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
5  あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6  私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。
7  これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。
あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
8  これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
9  これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。

申命記11:13-21
11:13もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、主を愛し、
心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、
14  わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。
あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。
15  また、わたしはあなたの家畜のため野に草を与える。あなたは食べて満ち足りる。
16  気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。
17  そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。
こうしてあなたがたは、主が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。
18  あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
19  それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。
あなたが家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
20  これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。
21  それは、主があなたがたの父祖たちに与えると誓った地で、あなたがたの日数とあなたがたの子孫の日数が、
天が地の上にある日数のように多くなるためである。

民数記15:37-41
15:37主はモーセに告げられた。
38  「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。
39  その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、
淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。
40  こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。
41  わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。
わたしはあなたがたの神、主である。」

 

  1. 全焼のささげ物の重要性と形骸化

レビ記の初めに記されている「全焼のささげ物」の規定。全部を焼き尽くす、つまり捧げる側の人間の気持ちとして、
私の全てを神の前に捧げますという献身の思いが込められています。
自らが育てた大切な家畜を身代わりに殺す。命の重さ、聖い神の厳粛さを実感する時です。
しかし、次第に全焼のささげ物が形骸化してしまったのです。
神との関わりを真剣に考えることなく、形式的にささげ物をするが、神に信頼せず自分勝手に生きる人が出てきました。

 

  1. そして、これ以上ないささげ物としての十字架

新約聖書記者は、イエスの十字架の死を「ささげ物」と理解します。
例えばヘブル9:12-15によれば、イエスの十字架で流された血によって、
永遠の贖い(罪の赦し、罪からの解放、罪の身代わり、救い)がなされたと主張します。
「キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、
どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」(9:15)
このように備えられた神に仕える生き方こそ、神を愛し、人を愛する生き方そのものです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 自分の信仰は形骸化してないでしょうか。どういうことに気をつけたらいいでしょうか。
2019/10/6

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:マタイの福音書  22章34-40節
聖書で最も重要な教え

34  パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
35  そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
36  「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37  イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38  これが、重要な第一の戒めです。
39  『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40  この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 悪意の試みが神の目的に転じる

「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。」(創世記50:20)という言葉を思い起こします。
律法の専門家はイエスを試しましたがイエスはこの試みを神の目的のために用いました。
私たちは誰かに悪意を向けられることは、避けたいなと思います。
ですが、試みは私たちの人生には付きもので、神はそれを神の目的のために、聖めることができるんだと知っていることは大きな助けになります。

 

  1. 第一の戒め:主を愛する

申命記6:5の引用です。「主」とは聖書の神の固有名詞で、イスラエルと契約を結ばれた名前です。
例えば、「あなたを決して見放さず、あなたを見捨てない」これは契約の1つです。
この神を愛すると言われるのですが、契約を結ぶ前に、私たちはどこかで神と出会わなければなりません。
この神との出会いが決定的に重要です。イスラエル民族でしたら、エジプトの奴隷状態からの解放、救世主として神と出会いました。
新約の時代それはイエスを通してです。イエスの愛を体験した。これが主を愛する動機になります。

 

  1. 第二の戒め:人を愛する

レビ記19:18の言葉です。レビ記には、契約を結んだイスラエルが神様らしさを身に付けるために、どこに気をつけるべきかが記されています。

19:18の文脈は、「心の中で兄弟を憎んではいけない。復讐してはいけない。恨んじゃダメだよ。
そうではなく、あなたの隣人を愛しなさい。自分自身のようにね。なぜなら、これを命じる私のことを思い出してみなさい。
あなたを愛し、あなたを見捨てない神なんだから。」ということが述べられています。

つまり、神から受けた愛で、周りの人を愛することが教えられています。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 「神を愛し、人を愛する」という生き方をするとは、具体的に今の私にとってはどういう生活をすることになるでしょうか。

9月

9月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2019/9/29

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:イザヤ書  58章13-14節
私も周りもハッピーな人生

13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、
安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、
これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、

14 そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。
わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。
──主の御口がそう語られる。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 余白を持つことで恵みがわかる

私たちから周りへ恵みが溢れていきます。ぶどうの木の例えで言うならば、私たちは豊かな実を結ぶことになります。
美味しい実だったら、それを食べた人が笑顔になります。周りに幸せが広がっていくということです。
神からの恵みなので、栄光を神にお返しすることができます。
ただ、余白がないと、クリスチャンでも、気づかないで、素通りしてしまいます。だから、生活に余白を持ちたいのです。
神からの恵みが私たちを潤していることに気づきたいのです。

 

  1. 余白の1つとしての安息日

安息日は恵みのリズムの1つです。神を思い、立ち止まる。
なぜなら、私たちを中心に世界が回っているのではなく、私たちは神によって作られた存在だということを思い起こためです。
ですが、神の前に立ち止まる事よりも、優先したい事があるように思える。そういう葛藤が起こります。
葛藤があることが悪いのではありません。そういう時に、自分の心を見つめ、整理し直し、自分の生活を確認するのです。
安息日を守ることで、神を心から喜びとする意味がわかってきます。
神に守られ、祝福される事を体験できます。余白のある生活の一場面です。

 

  1. 私にぴったりの生活習慣

家庭礼拝を始める事で生活に変化が出たという人がいます。寝る前の過ごし方を変えた事で、ゆっくり眠れるようになった人がいます。
ぴったりくる習慣は人によって違います。安心、安全な場所で、神に心を開きましょう。
助けとなる習慣を身につけることによって、私たちの生活を生き生きとさせる神の恵みを味わう事ができます。
神の恵みは私たちの生活を潤します。そして、私たちの生活に留まらず、私たちの周りに流れ出し、この世界を祝福するのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 今の私にぴったりの信仰を成長させてくれる生活習慣は何でしょうか?
  • あの人のこういう姿を見ると、「素敵だな」と思うという具体的な姿を思いつくでしょうか?
2019/9/22

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ローマ人への手紙  12章3-8節
ないものはない

3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。
むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
4  一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
5  大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
6  私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7  奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
8  勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 思い上がり/過小評価 を避ける秘訣

思い上がり相手を下に見ることと、自分を低く見積もることは正反対のように見えますが、本質的には同じことです。
信仰の量りに応じた恵み受け取ることができてない。人と比べて、上だとか下だとかやってしまう。しかも教会の中です。
それはローマ教会だけの課題ではなく、私たちにも通じます。あなたがまず、神様に与えられた恵みを十分に受け取りましょう。
神様は私たちに恵みをぴったり与えてくれるので、これで十分、いや十二分だなと思えます。

 

  1. 多様性を良いものと受け止める

私たちは違っていていいのです。個性はあった方がいいのです。皆が同じ働きをするわけではありません。
多様性が認められている、これが教会の本質です。
ただし、あまりにも個性が豊かだとまとまるのが大変だったというのがローマ教会でした。
ユダヤ人とギリシャ人が一緒にやるのは難しいことでした。まとめるのが難しいから個性を否定するのでしょうか。
それは違います。まとまる点を明確にすることです。「キリストにあって1つ」。
これが何よりも大事です。私たちの違いが魅力的になるのは、キリストのうちで一致するときです。

 

  1. 人生の季節も賜物

私たちの人生の季節は、それが何であれ、私たちの内にキリストが形作られる助けになります。
人生のすべての季節、いつでも、意味があり、美しさがあります。
もちろん、好きな季節、嫌いな季節はあるかもしれません。ですが、その季節ならではの楽しみがあるはずです。
せっかくなら、楽しみ、味わいたいものです。
あなたが人生のどんな季節にいても、あなたはそれを好もうと好まないとに関わらず、神様が備えてくれた人生の季節の過ごし方があります。
そこで信仰を深めることができるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 多様性(違い)があってよかったなと思う出来事や経験を思い出してみましょう。
  • 私の人生の季節はいつだと思いますか?
2019/9/15

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:テサロニケ人への手紙第一4章9-12節
落ち着いた生活を送るために

9.兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、
10.マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。
11.また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。
12.外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.愛こそ「神の国」に生きる私たちの要

できたばかりテサロニケの教会は、迫害の危機にさらされながらも、パウロが伝えた福音に生き、
そこからキリストの愛が広まりつつあったことが伺えます(9節、10節)。凄いことですよね!
パウロはテサロニケの教会の人々にむけて、兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません、と書いているのです。
神から人への愛は完全な愛ですが、人から神への愛、人から人への愛は不完全な愛です。
だからパウロは兄弟愛を実践しているテサロニケの信徒たちに、「ますます豊かに互いに愛し合いなさい」と勧めるのです。
実は、この生き方こそ、私たちにとってもこの世界にイエスがもたらした「神の国」を生きるための要となる生き方なのです。

 

2.今に焦点を合わせる生き方

しかしテサロニケの教会に問題がなかったわけではありません。パウロはここで日常生活についての戒めも記しているのです。
私たちクリスチャンにとっての日常生活とはキリストを模範とするみことばに生きる生活です。
その生活に身を置くと、「今」イエスが共におられ、そのイエスが「過去」の解釈を変え、
「未来」においては、新天新地においてリアルに主と共に生活できることが約束されている、ということを心に留めることができます。
聖書の物語の中に自分の身を委ねられるようなれば、私たちの生活は、自然と「落ち着いた生活」になるのではないでしょうか?

 

3.心の思いが態度になって現れる

12節では、パウロが11節で語った日常生活の戒めについての目的が二つ述べられています。一つは、外の人々に対して品位をもって歩む、ということです。私たちの心と身体は密接に連動しているから心の思いが態度に現れます。迫害にあいながらも、落ち着いた生活を送ることのできたパウロは、主のみこころを第一とする生き方を貫き、自分の振る舞いがいかに周りに影響を与えるかということを常に考えていたことでしょう。もう一つは、だれの世話にもならずに生活する、ということです。日々の務めに忠実であるなら、私たちの必要をすべてご存じの神さまが満たして下さるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 自分の日常生活を顧みて、今の自分は主と共にどのような霊的生活を送りたいかということを考え、話せる範囲で、自由に分かち合いましょう。
2019/9/8

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ペテロの手紙第二  1章10節
聖書が教える努力とは

10 ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。
これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 聖書の約束する将来像にワクワクしたい

聖書の約束にワクワクしたいし、魅了されたいというのが今日の大事なポイントの1つです。
ここは本当に大事だなと思っていて「教会ってワクワクするよね」「何か温かい雰囲気があるよね」人によって表現の仕方は違っても、
神様らしさがど真ん中にある教会でありたいなと思います。
聖書の神様が私たちを魅了できないわけがないです。
もし、神様に魅力を感じていないなら、その読み方、生活の仕方、何かズレている可能性があると思うのです。

 

  1. 努力・熱意を傾けるのはここ

神に信頼するところから始まります。神らしさを少しずつ身近なところで見せてもらいましょう。
私たちが体験しましょう。だんだんと自分の欲望をコントロールできるようになります。
自制できるようになります。決して動揺するような事柄がなくなるわけではありません。
動揺する事態に直面しても、神への信頼が揺るがないようになります。
そういう経験を重ねると神を敬う心が増し加わり、神を愛するように、人を愛することができるようになってきます。
まずは教会の中から。そして教会の外へ。神の愛は広がっていきます。

 

  1. さあ、やってみよう

神様はワクワクする将来像を約束してくれました。でも、進んでいくのは私自身です。
ここは強制ではありません。私たちは、自分の意思で従っていくのです。この相互作用を神様は楽しみにしています。
パートナーとして神様は一緒にいてくれますから、安心して私たちは努力をしましょう。
私たちそれぞれにぴったりの生活場所、生活習慣があるはずです。
ワクワクさせてもらい、約束に魅了され、自分の精一杯の熱意を傾け生活すると、実際変わってきます。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私は実際、神の約束に心踊っているだろうか、期待しているだろうか?
  • 最近の私が努力、熱意を傾けたらいいことは、何だろうか?
2019/9/1

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:テサロニケ人への手紙第二  1章11-12節
私専用の神様プラン

11 こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。
どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、
また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

12  それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、
あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 若い教会を支えた2つの祈り

テサロニケ教会は若い教会です。彼らの信仰を支えたパウロたちの祈りがありました。
1つは召しにふさわしく!もう1つは、内側の思いが神と重なり、外に出る行動が信仰に基づくものに!という祈りでした。
召しとは、神の子どもになりなさいという呼びかけであり、神の子どもとして神らしさを映し出す生活をしなさいということです。
神に信頼しないと到底私にはできそうにないというレベルの要求を受けることもあるからこそ、祈りのサポートは必須です。

 

  1. 「栄光は神にのみ、ふさわしい」のですが

神が栄光を受ける。これは神にふさわしいことなので、聖書の記述としては自然なことです。
ここでびっくりするのは、神の働きをしている私たちも神の中で栄光を受けると書かれた部分です。
栄光は神にお返しするものですし、神だけが栄光を受けるにふさわしいのですが、
神の働きをしているあなたも、栄光を受けなさいと言われているのです。
身に余る光栄とは、こういうときに使うのでしょう。
そして、この栄光も主イエスの恵みに応じていただくのです。

 

  1. 練馬教会で聖書の追体験を

テサロニケ教会に宛てた手紙が、白浜ミッショントリップに送り出した私たちの姿と重なると気づき、
私自身本当にびっくりしましたが、聖書の体験を、ここ練馬教会で追体験させてもらいたいのです。
パウロのチームが若い始まったばかりのテサロニケ教会をいつも祈り支えたように、白浜ミッショントリップも祈って支えていただきました。
若い信仰が続けて成長できるように覚えてください。
彼らへの召しを受け取り、彼らもベストを尽くし、神様の栄光を肌で感じたはずです。
特別な体験を彼らはしましたが、彼らで終わらずに広がっていくように。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私にぴったりの生活習慣を考え始めましょう。どこで神のあふれる恵みを感じたいでしょうか。
  • 聖書に書いてあることが、実際に私も体験したという経験があるでしょうか。思い出してみましょう。

8月

8月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2019/8/25

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書12章13-21節
お金に目がくらむ

13  群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
14  すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
15  そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
16  それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
17  彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
18  そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
19  そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
20  しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21  自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 祈りの奥底に何があるか

一見すると、常識的な願いに聞こえるかもしれませんが、イエスは本質を見抜きました。
気づかないうちに、私たちの祈りが「貪欲」に支配されていることもあるかもしれません。
貪欲とは、神様に与えられている範囲で満足できずに、もっと、もっとほしいという心です。
満たされない心は、まだ足りないと言い続けます。本当に足りてないのでしょうか。
神様はあなたを満たしていないのでしょうか。
心にある想いは素直に祈っていいと思います。でも、私たちの祈りは常に純粋とは限りません。
むしろ、混ざり物、不純物がたくさん混ざってしまっているでしょう。
それは仕方のないことですが、不純物を取り除いてもらうことが必要です。

 

  1. 状況を生かしているか

17-19節、たった3節で「私の」という言葉を4回も使っています。
私の作物、私の蔵、私の穀物、私のたましい。自分のことばかり考えている人だったということが読み取れます。
いつも満足できず、もっと欲しいと思っている人が描かれています。
このような姿を見ながら、自分自身に問いかけたいのです。状況を生かしているか。
自分のことばかりに心が奪われていないか。
目の前のお金や財産に心が奪われていないか。
神様のスペース、余白はあるか。

 

  1. 自分自身に何と語っているか

自分のたましいに、自分の1番深い部分に、私自身、何と語りながら、毎日の生活をしているでしょうか。
本音の部分で、何と言い聞かせながら、私は生活しているでしょうか。
「我が魂よ」と聞いたら、聖書では、普通は「わがたましいよ、主をほめたたえよ」という呼びかけが詩篇では何度も何度も繰り返されていることを思い出します。
自分の深い部分に語りかける言葉が神への賛美でしょうか。
神に「愚か者」と呼ばれる神を無視する生き方でしょうか。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私はどの分野で「まだ足りない」「心配だ」「安心できない」と思っているでしょうか?
  • 神に信頼し、他の何かに惑わされなかった体験を1つ思い出してみましょう。
2019/8/18

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:創世記 2章15節
サザエさん症候群の処方箋

15 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 「仕事」は本来、祝福の大事な要素

仕事は神からの祝福の一部ということです。聖書の神はそもそも働く神なんです。仕事そのものに価値を見出していました。
「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」(創世記1:31)とありますように、
神は働かれ、全てを造り、これは素晴らしい!と言われました。
良い仕事、満足のいく仕事ができたというのがこの世界の始まりです。
この神のなさった尊い働きを託されたのが人間だと聖書は言います(創世記2:15)。
この使命は幕屋で働くレビ族に引き継がれ(民数記3:7-8)、キリストを通して、教会が担う使命です。

  1. なぜ仕事が辛いのか

「仕事」を含めて、全ての価値が歪められてしまいました。
人間の生活のあらゆる側面に、罪がもたらした災いが色濃く影響しているというのが聖書が説明するこの世界のもう1つの現実です。
神が創造した素晴らしい世界が罪によって大きく損なわれてしまった。
仕事に関しても、「一生の間、苦しまなければならない。」(創世記3:17)と宣告されました。
その影響が確かに、世界中に今も残っています。サザエさん症候群です。仕事は憂鬱で、苦しいのです。
神の世界に、いばらとあざみが広がったているから、仕事は辛いのです。

  1. 恵みを体験している人の働き方は全然違う

聖書のメッセージは私が何かを達成する前に、私は神に愛されるに値する価値のある人間だと思い出させてくれます。
奉仕や仕事や家事や子育てや介護を通して、自分がどれくらいできる人間なのか証明しなくても大丈夫なのです。
クリスチャンになっても、慣れ親しんだ罪に縛られた生き方に支配されてしまうことがあります。
だから、私たちは恵みを思い出すのです。
終わりのないプレッシャーと戦わなくていい。何かを成し遂げることによってあなたは認められるんじゃない。
神の溢れる恵みを知っている人は、自分のために仕事をするのではなく、ただ神と人を愛するために仕事に集中できるという全く違う働き方ができるのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私の毎日の生活(仕事)は神から託されたものだと意識しているでしょうか。
    この納得感があるとないとでは、毎日の生活で神と過ごす感覚が全く違うものになってきます。
2019/8/11

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:マルコの福音書10章28-31節
後(あと)の者が先になる?

28.ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」
29.イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
30.今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます。
31.しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.人間のおごり

ペテロはどんな思いで28節のことばを語ったのでしょうか?
自信満々に語っている様子が、「こう言い出した」という表現から伺えますよね。
「先生、私たちは偉いですよね。前途有望なあの青年と違って、すべてを捨てて、あなたに従って来たのですから」と言わんばかりです。
あの青年にできなかったことを、私は成し遂げたというおごりを感じさせます。
並行箇所のマタイの福音書19章27節を見ると、自分たちの行いに対する見返りを期待している様子がありありと見えます。
このように見返りを求めるペテロに対し、イエスは「何だ!その態度は」とは言われませんでした。
しかし、富める青年と同様、「ペテロ!あなたもその考えではいけないんですよ。
本当に、あなたはすべてを捨ててきたと言えるのですか?」とイエスは問うのです。

 

2.わたしのために、また福音のために

29節で目を引く表現は、イエスが言われた「わたしのために、また福音のために」ということばではないでしょうか?
イエスがすべての関係に修復をもたらすのです。
そのこと注目し、29、30節の原文を確認すると、
まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、
“あるいは”兄弟“あるいは”姉妹“あるいは”“あるいは”“あるいは”子ども“あるいは”畑を捨てた者は、
今この世で、迫害とともに、家“と”兄弟“と”姉妹“と”“と”子ども“と”畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます
、と訳せます。
神を神とすることによってすべての関係が修復へと導かれることは、30節に「父」という言葉が出てこないところに暗示されているように思えないでしょうか? 父なる神がすべてを秩序立て、イエスにとってそして私たちにとっても「父」とは「神」なのです。

 

3.「神の国」の原理

31節でイエスがペテロに語っていることは「神の国」の原理です。
猛烈な努力など必要なく、後にいる多くの者が先になるためには、出会ったイエスに信頼し、イエスと共に歩み続ければよいのです。
「神の国」の原理においては、信仰の長さや短さなど関係なく、大事なことは、どれだけイエスを愛し、どれだけイエスに信頼し、
どれほどまでに神に愛されているか、ということを知ることでしょう。
「人にはできないが、神にはすべてのことができる」という信仰が、私たちの過去の解釈をも変え、
いずれはよみがえりの身体でもって、主イエスとリアルに完成された「神の国」で永遠に生きられる、ということを心に刻みたいと思います。

 

■一緒に考えてみましょう

  • あなたにとっての先の者が後になる体験、後の者が先になる体験にはどんな出来事がありましたか? 話せる範囲で自由に分かち合いましょう。
2019/8/4

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:詩篇 127篇1-5節
むなしさ、さようなら

都上りの歌。ソロモンによる。
1  主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。
2  あなたがたが早く起き 遅く休み 労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。
実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。
3  見よ 子どもたちは主の賜物 胎の実は報酬。
4  若いときの子どもたちは 実に 勇士の手にある矢のようだ。
5  幸いなことよ 矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と論じるとき 恥を見ることがない。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. この汗を神様に捧げます

ロサンゼルスのCBCチームの1人の青年はレクリエーション担当で、外で思いっきり子どもたちと遊んで、さらに前でダンスを踊ってたので、
たくさんの汗をかいていました。そんな彼が言った言葉なんです。これを笑顔でいうんですよ。
私は今まで、汗を神様に捧げたことはなかったので、これから長い夏が始まりますが、この言葉を知っているだけで、
だいぶ前向きな生活が送れるんじゃないかと思うんです。神の働きをしていると汗も光り輝きますね。

 

  1. 眠りを神への信頼に

神の与えてくれるものが眠りって、ちょっと期待外れに思うかもしれません。
でも、眠りには特別な意味があります。私たちは誰も自分の人生、全てをコントロールすることはできません。
これは悲しい知らせではありません。なぜなら、私よりももっと信頼できる安心できる神の手の中にあるからです。
神の守りの中に常にいる、神に愛されていると知っていると、私の想像を超えたことが起こったとしても、右往左往しなくなります。
どんな時でも神様が私の人生を一緒に歩いてくれるからです。このような信仰の具体的な表れとして、睡眠があるのです。

 

  1. 「子どもは賜物」を教会として受け止めたい

まず言いたいことは、独身の人、子供のいない家庭、そういった方が肩身の狭い思いをすることがないようにということです。
立場が違う人たちをお互いに思いやれる場所でありたいと願います。そして、日本全体の子供の数は減っています。
教会に来る子どもも少なくなるでしょう。そういう時代に、70人もの子供たちが福音を聞くことができた。
これはまさに、神様からの賜物でした。
CBCとの出会いに感謝をし、言葉の壁を超えて、練馬の地域のために、福音のために一緒に
奉仕できたことを心より私たちの救い主、イエス・キリストに感謝を捧げたいと思います。

 

■一緒に考えてみましょう

  • あなたのしていることは、神がしておられることでしょうか?どう見分けたらいいでしょう?
  • 「むなしさ」という言葉が今日の私には、どう響くでしょうか?

7月

7月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2019/7/28

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:コリント人への手紙第一 6章19-20節
からだの声を聞く

19 あなたがたは知らないのですか。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 性的関係は慎重になる「べき」だけど、規則を守るだけでも…

当時の文化として、売春婦と性的関係を持つこと自体は法律的にはOKでした。
でも、聖書の価値観からすると深刻な問題がありました。
あなたのからだは誰のもので、何のために使うべきか。
これは生き方の本質に関わることでした。

ただし、規則を守ることに終始しても、結局、その規則に込められた神の思いを理解していないと表面的な信仰しか育ちません。
パリサイ派に代表されるように、人を裁くだけで愛を示さない人になってしまいます。
教会もそうならないように注意しなければなりません。

 

  1. 私が丸ごと肯定される体験を

イエスの周りには当時の罪人と軽蔑された人がどんどん集まってきた。
取税人、遊女。そういう人がイエスのところに集まってきた。
イエスは罪人を甘やかしたのでしょうか。そうではないです。罪深い生活を肯定したわけではありません。
イエスはまず、目の前の人を丸ごと受け入れただろうと思うのです。
私たちに最初に必要なのも、それは「あなたそのものが肯定される体験」です。
こんな自分は誰にも愛されるわけない。そう思っていた人に向かって、イエスは、あなたも愛される神の子どもだって伝えました。
これが福音です。

 

  1. 十字架の恵みを味わうことから

あなたを買い取ったと言われたイエスは、あなたが背負うべき人生の重荷、呪い、傷、その全てを代わりにイエスご自身が十字架で負われました。
だから、私たちがすべきことは、十字架の恵みを存分に味わうこと尽きます。
神の赦しの宣言を今日も聞かせていただきましょう。

それから、からだの声に耳を傾けてみましょう。
最初に聞こえてくるのはあなたの内側にある声、欲望が大声で叫んでいる声だけかもしれません。
でも、よーーく聞いてほしいんです。あなたは聖霊、神の住まいです。
全ての人は、神のイメージに似せて造られていて、神の美しさを求める声も私たちのうちから必ず聞こえてくるはずです。
この声を聞き分けられるようになりたいのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私が罪悪感を強く感じる分野はどこでしょうか?
  • 私のからだの声に耳を傾けてみましょう。どんな声が聞こえてくるでしょうか?
2019/7/21

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:マルコの福音書10章23-27節
人にはできなくても神には・・・

23.イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
24.弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。
「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいでしょう。
25.金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。
26.弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができましょう。」
27.イエスは彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなこともできるのです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.弟子たちに言われたイエス(23節と24節の前半)

今日のみことばの前の箇所(6月16日の説教)で、神ご自身が富める青年とかみ合わない対話をしていたのですが、
今度は、神ご自身がご自分のあとについてきた弟子たちと対話をはじめます。
「お前たちは、あの青年とちがって、わたしについて来ているから立派だよ」とはイエスは決して言いません。
「神の国」に最も近いと思われた人が「神の国」に入るのが難しいとはどういうことか?
そもそもあなたにとって「神の国」に入るとはどういうことなのか?と言う問いを、イエスは弟子たちに、そしてわたしたちに投げかけるのです。
イエスは、ときに私たちが勝手に常識だと思い込んでいるような事柄に対し、それをぶち壊すようなことを言われ、考えさせるのです。
みことばを通してイエスと対話するとは、このような側面もあるのです。

 

2.重ねて言われるイエス(24節の途中から26節)

ここでイエスは「重ねて」言われています。
「重ねて」いるからには、最も大事な問いを弟子たちに、そして私たちに投げかけていると言えましょう。
「あの青年が救われないのであるなら、誰が救われるのだろうか」という疑問を持っていた弟子たちは、
イエスに心を読まれたかのような問いを直球で投げかけられるのです。
だから、「弟子たちはイエスのことばに驚いた」(24節)のでしょう。
そして25節のイエスのことばに驚愕した彼らは、ついに、心の中で考えていたことをイエスにぶつけます。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう」(26節)、と。
ここで私たちが考えなければならないのは、私たち人間の常識で「そんなの無理」と判断しようとするのではなく、
「神の視点」で考えなさいと問われている点です。

 

3.じっと見て言われるイエス(27節)

イエスはここで人間の常識をはるかに超えた価値観の転換を、弟子たちに、そして私たちに迫ります。
人は自分の力や努力では「神の国」に入ることはできないけれど、イエスは、まったく別の方法で「神の国」に入れることを弟子たちに考えさせ、
気づかせようとします。
自分の常識から離れ、「神の視点」でもって27節のみことばを読むと、
「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなこともできるのです」というみことばの背後から、
「だからわたしに信頼しなさい。わたしがすべてのことを成し遂げるから。安心して、わたしのあとについて来なさい」というイエスの声が聴こえてくるのではないでしょうか?
今、イエスと共に「神の国」を生きるとは、人間の常識を超えた「神の常識」を味わい、生きることなのです。
そのために必要なことは、イエスを自分の心に受け入れるだけです。
そしてイエスと共に歩む人生を重ねていく中で、「人にはできなくても神にはできる」という神への信頼をベースに置いた信仰生活を送れるよう、
私たちは変えられていくのです。

 

■一緒に考えてみましょう

あなたにとってイエスとはどういうお方ですか?
イエスに信頼し、イエスのあとをついて行く人生の中で体験したあなただけの証詞を、自由に分かち合い、主をほめたたえましょう。

2019/7/14

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:マルコの福音書 10章46-52節
何が望みかと神に聞かれたら

46  さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、
ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
47  彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
48  多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
49  イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。
そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
50  その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51  イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。
「先生、目が見えるようにしてください。」
52  そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、
すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 周りに人には全く理解されなくても

周りに大勢の人たちがいましたが、彼らはバルティマイの味方にはなってくれませんでした。
黙らせるために強く叱り続けた。これが直訳です。うるさい、黙れと大勢が怒鳴っていたのかもしれません。
目の見えない物乞いは、イスラエルの社会の中で最も低い地位だと言われており、
お前みたいなやつが会ってもらえるわけないだろうと言われるのは普通の感覚でした。
でも、バルティマイは決して諦めません。マルコ福音書で大事にされる信仰の姿勢です。

 

  1. 自分の願いと神の約束とが重なる答え

物乞いをしながら、人の憐れみを受けながら生きてきたけど、神は小さな社会に隅にいる私にも必ず恵みを与えてくださる。
そう信じて、バルティマイはこの日まで生きてきました。質問され、すぐに答えました。
「目が見えるようにしてください」これは救い主が来たときに叶えられると聖書に約束されていたことでした。
彼はただ、自分のために目を開けてくれと言っているのではなく、イエスこそ長年、待ち望んでいた救い主だと心から告白したのです。
見えない私の目が見えるようにしてくれるのはイエスだけだと信じ切った彼の告白は見事でした。

 

  1. 「わたしに何をしてほしいのか」と私たちも問われる

私の答えは、何でしょうか。
説教の前に白浜ミッショントリップの証を聞きましたが、今回のミッショントリップは証してくださった方にとっての神様からの答えだったと思うんです。
そういう夢が、この場所で、たくさん実現していく。私はそのことを楽しみにしています。
ぜひその他、大勢の群衆ではなく、また黙れと言った常識に縛られた名もなき人でもなく、
バルティマイのように当事者になり、聖書の約束を信じ、大胆に求める教会でありたいのです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • この記録を読んで、自分はどこように感じるでしょうか?
  • 私の信仰の目は開いているでしょうか?イエスの問いかけに私は何と答えるでしょうか?
2019/7/7

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:列王記第一 19章1-8節
もう限界と思ったあと

1  アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。
2  すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。
「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
3  彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
4  自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。
「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」
5  彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。
6  彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。
彼はそれを食べて飲み、再び横になった。
7  主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。
8  彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 大預言者の「いのちを取ってください」という告白

聖書には、人間の弱さがはっきりと記されていて、弱さを抱えた中でどう生きるのか教えられています。
聖書は決して命を軽んじているわけではありません。
ただ、もうこれ以上無理と、あの大預言者エリヤの口からも出てきたという事実を今日、私たちは受け止めたいのです。
一番、人に言いたくないというか、伝えたくないような、極限まで追い詰められた弱い部分を、エリヤは神に見せたのです。
一番深いところにある感情を正直に、包み隠さずに伝え、神の前に無防備な姿をさらすことができました。

  1. 神は、責任追及ではなく食事と水と睡眠を

ある人は、お前は無責任だと罵るかもしれません。
あなたは献身者で、預言者で、神に人生を捧げたのだったら、神への信頼が足りないのだ!不信仰だ!と責め立てる人がいるかもしれません。
エリヤが自分の限界を悟ったとき、神ご自身はどうなさったのでしょうか。
5,6節に注目してください。代理人を送って神がしたことは、食事を取らせ、また眠らせることでした。
エリヤを責める言葉は何もありません。ただ、食べさせ、休ませる。それが神の方法です。

  1. 逃亡がいつの間にか神の計画した旅へ

エリヤはただ逃げたかっただけでした。でも、逃亡の旅のままにせず、神は神の計画した新しい旅に変えたのです。
エリヤは、ただ逃げ出しました。イゼベルが怖かったのです。預言者という立場も全部捨てて、とにかく逃げ出しました。
誰にも見つからないところまで逃げました。
それなのに、いつの間にか、神の山ホレブ(シナイ山のこと)、神とイスラエルが契約を結んだ特別な場所へ向かう聖なる旅となったのです。
余白がゼロになってしまうような時でも、私たちのために恵みを直接くださる神が私たちの神です。

■一緒に考えてみましょう

  • 今、振り返るとあの時は追い詰められたエリヤに近かったなと思う体験はあるでしょうか?
  • ただ逃げただけだったのに、神様が良きこととして用いてくださった経験はあるでしょうか?

6月

6月

ペンテコステ 余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12
2019/6/23

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書 15章15節
友情という贈り物

15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. God in my everything(神が私の全てに)という感覚

邦題は『忙しい人を支える賢者の生活リズム』と言いますが、ケン・シゲマツが生活のすべてで神様を感じたいよねという内容の本を書きました。
右の図は彼が本の中で扱っているテーマです。奇しくも、これまで扱ってきたテーマ(安息日、聖書、祈り)は基盤として扱われています。
ケン・シゲマツの分類に従うと、今日は「関係」に分類される友人関係を扱います。
このテーマで生活が網羅されるわけではありませんが、私らしい霊的習慣を考える上で、視野を広げてくれるはずです。

 

 

  1. 父から聞いたこと、それは愛について

イエスは父から聞いたすべてのことをあなたがたに伝えましたと弟子に語りました。何を伝えたのでしょうか。
神についての教えでしょうか。生活の細かいルールでしょうか。それらも含まれるでしょうが、
9節にある「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」とあるように、
イエスが父なる神から聞いたこと、それはきっと愛についてだと思うのです。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(13節)と
イエスが弟子たちに愛について語ったことについても納得がいきます。

 

  1. イエスの友情とリンクさせる私の友情

イエスとの関係が実際の私たちの日常的な友人関係に影響が出るでしょうか。
イエスとの友情と友達との友情がリンクしているか、別個のものになっているのか。
ここをいかに1つのものとできるかどうかが肝です。このリンクに気づくための余白のある生活です。
ぶどうの木としてイエスにつながり、私たちが実を結び、その実が周りの人の喜びとなり、神の栄光として帰される。
これがイエスとの関係が深まっていく中で、私たちの日々の生活にも恵みは広がっていくということです。

 

 

 

 

 

 

 

■一緒に考えてみましょう

  • 「友情」というキーワードを聴きながら、誰かの顔が浮かんできたでしょうか?こういう時の直感は大事にしてください。
2019/6/16

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:マルコの福音書10章17-22節
余白を欠いた生活を送らないように

17.イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。
「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
18.イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」
19.戒めはあなたも知っているはずです。
『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
20.その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
21.イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。
「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22.すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.神と人とのかみ合わない対話

この青年の熱心さは本物です。
しかし「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」(17節)という質問したことから、
心に何か満たされないものがあったように感じます。
何かよいことをすることでもって、「神の国」の保証を自分のものにしたかったのですが、
この人は「自分」という人間の価値観で持って話し、イエスは「神のみこころ」を話されます。
対話が成り立たちません。私たちにもイエスさまとの対話がかみ合わないときに、「神のみこころがわからない」と嘆くことがありますが、
そのようなときに「神さまが今の私に何を語りかけようとしておられるのか」ということを少しでも思い巡らす心の余白があるのでしょうか?

 

2.本当に「すべて守ってきた」と言えるか?

この青年の「私は少年のころから、それら全てを守ってきました」(20節)という発言から、彼は神から与えられた「十戒」を、自分の守れるものへと変えてしまっていることがわかります。
自分の力で守れるなら、神に頼る必要がありません。
そうなると自分を基準に考え、自分を基準にして相手をほめたり、裁いたりします。結果、神さまがわからなくなります。
神が働かれるスペースも生まれようにありません。
イエスは「良い先生」と呼びかけ質問してくる青年に対し、「良い方は神おひとりのほか、だれもいません」(18節)と言われ、
この人の心を神に向かうように促します。
しかし、この人は神がどういうお方かということを体験するような生き方はしてこなかったのです。
だからどこかに心が満たされない思いを抱えていたでしょう。

 

3.わたしに従って来なさい

ここで心に留めたいのは、イエスは彼を見つめ、いつくしんでおられたことです。
イエスは何かをしたら「神の国」に入れるのではなく、わたしと共に生きることでもって、
「神の国」を味わうことができるということを教えようとします。
でも、この青年はイエスの前から去ってしまいました。この青年はどうしたらよかったのでしょうか?
「財産を捨てなさい」とのイエスの答えに対して、「そんなことできません。できるようにするにはどうしたらよいのでしょうか?」とイエスにすがり、
イエスのあとについて行けばよかったのです。
財産を捨てられない思いを抱えたまま主と共に歩き、とことん語り合い、苦しいときにすがり、
できないことは主が成して下さると信頼すればよかったのです。
そのような歩みの中で、この人は余計なものを捨て、心に余白が生まれ、
心の余白でもって「永遠のいのち」を味わうことができるようになったことでしょう。

 

■一緒に考えてみましょう

  • あなたにとって「余白のある生活」とはどのような生活でしょうか?
2019/6/9

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書 14章16節
イースターの次はペンテコステ

16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、
その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. ペンテコステ(五旬節、聖霊降誕日)とは

元々はイスラエルの3大祭りの1つ、春の収穫祭。当時、世界中からこの日、エルサレムで礼拝するために人々が集まっていました。
その日に、聖霊に満たされた弟子たちが世界中の言語で福音を語りました(使徒2章)。
実はペンテコステは、出エジプトをして50日目、シナイ山で律法をいただき、神の特別な民とされた特別な日でもありました。
その関連でいうと、イエス・キリストの十字架と復活の後50日後に、
聖霊を受けた弟子たちは、イエスの使命を引き継ぐ「教会」としての自覚を持った記念日とも言えます。
エルサレムに集まっていた世界中の人に福音を伝えた。これが聖霊に導かれた教会の原点です。

 

  1. 聖霊とは

最後の晩餐でイエスが語ったことは、イエスの代わりに助け主が送られるということでした。それが聖霊です。
イエスの代わりに、イエスのように、私たちを助け、慰め、弁護してくれるのです。
これが聖書の神の本質であり、クリスチャンはよく思い出してみたら、神に助けられ、慰められ、味方になってもらったという経験を自分のこととして体験しているはずです。
ただ、普通の人には聖霊はわかりません(ヨハネ14:17)。
だから、ある意味、神に愛され、受け入れられているという、普通の人にはわからないことを先に知った私たちの役割は重要なのです。

 

  1. いま、私たちが聖霊を受けるとは

早宮の事件を受けて、隠されていた問題が知れ渡ったように思います。
もちろん、引きこもりだけが問題じゃないわけですが、私たちの周りには救いを必要としている人たちがたくさんいる。
私たちだからできることがきっとあります。神様を知っている私たちだから、できることがあるはずです。
神様の働きのために、私自身を差し出す覚悟がある人たちを神様は待っています。
弟子たちはエルサレムで何をしていたのか?祈って待っていたんです。
その時が来るのを。私たちもまず祈ることから始めませんか。
私たちも誰かの隣にいることができるはずです。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 私は誰の隣にいることが、神に託された務めだと今日、感じているでしょうか?
2019/6/2

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:詩篇 13篇1-6節
脱 優等生

指揮者のために。ダビデの賛歌。

1  主よ いつまでですか。 あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで 御顔を私からお隠しになるのですか。
2  いつまで 私は自分のたましいのうちで 思い悩まなければならないのでしょう。
私の心には 一日中 悲しみがあります。いつまで 敵が私の上におごり高ぶるのですか。
3  私に目を注ぎ 私に答えてください。 私の神 主よ。
私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように。
4 「彼に勝った」と 私の敵が言わないように。私がぐらつくことを 逆らう者が喜ばないように。
5  私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。
6  私は主に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 弱さや苦しみと不信仰は違う

この祈りは、苦しい胸の内を神にさらけ出すところから始まります。これが祈りであり、私たちの日常だと言えるでしょう。
そのはずなのですが、終わりの5,6節「神に信頼してます」しか言ってはいけないような空気もあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
信仰の優等生がいるとして、その人はいつも神様への信頼と賛美に満たされているというイメージがあるでしょうか。
それははっきり言って、間違いです。この祈りの前半部分の苦しみ、これも信仰の一部です。
先の見えない中、神を必死に求めていく。これも当然信仰です。

 

  1. 信仰が練られる体験

神を信頼してなかったら、それほど苦しまない。
この神は決して私を見捨てない、決して私を忘れないと信じているから、神が見えない現実を前に苦しむのです。
これは不信仰ではなくて、信仰者の苦しみです。
ここを誤解しないでください。いわゆる聖人と呼ばれる信仰の達人みたいな人の記録を読めばわかりますが、みんなこういう暗闇を通っています。
信仰があるから苦しい。そして、日々の生活ではいつ5節の瞬間が訪れるかわからないから余計に苦しい。
でもこの4節から5節の間の行間の中で、私たちの信仰は練られて研がれるのです。

 

  1. 体験することで、懐は広げられる

今の時代、安心して自分の姿を見せられる場所を、みんなが必要としています。
でも、プライドもあるし、見栄もある。そんな自分を受け入れてくれる場所なんて、あるわけないと思っています。
聖書は教会は、私たちの周りにいる人が求めている魅力的なものを託されています。
教会自体、いつまで経っても不完全だと思うし、私たちの誰もが回復途中なわけですけど、まずは自分がここにいていいと思えることが大事だし、
そういう体験を重ねる中で、私たちの懐も少しずつ広げられ、そのままのあなたで大丈夫ですよと言える場所になっていくでしょう。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 日常生活と同じように、教会で周りの人からの評価がどのような時に気にしているでしょうか。

3つの礼拝の時間

grade

第一礼拝

10:00-11:00

ピアノとベース
現代的な曲も

第二礼拝

11:10-12:10

パイプオルガン
伝統的な曲が中心
英語への同時通訳

子ども礼拝

11:00-12:10

小学生までの子どもが対象
ご注意:
執事役員会では礼拝堂での礼拝再開に向けて話し合いを続けていますが、
東京都の現状は感染者が増大し、外出自粛のお願いが出るなど厳しい状況です。
そのため、4月5日から教会での礼拝を再開し、12日のイースターを共にお祝いすべく準備をしてきましたが、方針を変更して、
当分の間は(少なくとも5月31日までは)インターネットでの礼拝を継続することにしました。
合わせて小グループでの活動も当分の間、中止とします。
教会での礼拝再開や小グループでの活動再開が可能と思える時が来ましたら、改めて皆様にお知らせします。
インターネット礼拝はYouTubeで配信しています。
「youtube 練馬バプテスト教会」で検索いただくか、https://youtu.be/ktbXaLgVmN0 にアクセスしてください。
また、ホームページにも動画をアップしますので、ご利用ください。

礼拝に来た人

grade
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第一礼拝
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第二礼拝
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子ども礼拝

2月16日の出席者数

礼拝に関するよくある質問はこちらにまとめてあります。
少しでも不安がありましたら、お問い合わせください。
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