聖書からのメッセージ

世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
第一礼拝・第二礼拝は同じメッセージです。

礼拝の時間について、ここをクリックして確認できます。

9月

9月

ピリピ書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:マタイの福音書11章28節
重荷をおろせる場所

28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 疲れは気づきにくいから、まず休みなさい

一般的に、自分が疲れている、重荷を負っていると自覚することが苦手です。
だから、まずは休みなさいとイエスは私たちを招いています。
あなたの背負っている重荷を下ろしなさいとイエスは言います。
休んで、心にゆとりができて、自分で精一杯だったところから、少しずつ回復してきた時、神様のことがわかるようになります。
神様のことを考える時、神様はどんな目で私を見ているのかなと想像してほしいんです。

2. 神の願いは私たちに愛を示すこと

「神の意志を知るというのは、私たちの生活の中に神の愛がはっきりと示されていて、
それが私たちにぴったりの方法であることを見つけ、受け入れ、肯定すること」これはヘンリ・ナウエンの言葉です。
私たちがイエスのもとで休むとき、神の思いに触れることができるはずです。
神は私に見つけほしいと思っているし、私が神の愛を受け入れられるようにと願っているし、神に愛されていると心の底から納得してほしいと願っています。私たちができるのは、神のスペースをつくり、神の思いに浸る時間を見つけることです。

3. すべてを知って、受け入れてくれる

人には、誰だって、大なり小なり、隠し事があります。誰にでも話せる話題ではないけど、誰かには打ち明けたいと思うことがあるかもしれません。
神は私たちのことを全てお見通しです。神の前に隠し事はできません。
私たちが隠したいと思うのは、これを知られたら嫌われると本能的に察するからだと思いますが、でも、神は私たちを受け入れてくれる。
私たちが苦しんでいることを知っている。だから、私たちはここで重荷をおろすことができるのです。

■一緒に考えてみましょう
・神の前だから、神を信頼して、正直な気持ちになることができます。
悩みを打ち明けることができます。悲しみを告白することができます。
どうやって重荷をおろしてきたか、周りの人と体験談を話してみましょう。

8月

8月

ピリピ書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ピリピ人への手紙2章1-2節
愛されることが原点

1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 苦しみがあるから、励ましが必要だと神は知っている
パウロもピリピの教会も、苦闘を経験していた(1:30)ということが直前に書いてあります。
教会の置かれる状況は、大抵の場合、厳しいものです。
人となられたイエスは、私たちの世界の汚れ、醜さを実際に体験し、最後は十字架で殺されました。
この世界の苦しみや孤独、絶望をイエス様は身をもって知っています。
だからこそ、この世界で神を信じる私たちが直面する苦しみを理解し、私たちには励ましや慰めが必要だってことをよくわかってくださいます。

2. 苦しみに向かい合えるように、励ましがある
苦しみがあるのと同じくらい確かに、神の励ましや慰めがあります。
私たちの感覚からしたら、こんなひどい状況は救いようがないと思っても、
こんな悲惨なところに救いはないと思っても、これだけは確かなのは、神の手が届かないところは決してない。
神の光が届かない暗闇は決してない。
どんなに苦しくても、1 人ぼっちだと思っても、全世界の罪を背負って十字架で死んだイエスは、私たちの隣に来てくれる。
イエスの励ましと慰めは確かです。

3. みこころを求め、一つに
同じ思い、一つの思いになるとは、この世界の価値観を手放して、神の価値観を受け入れていくこと。
私の考えではなく、神の思いを優先すること。みこころが天でなるように、この地で、この場所でなるようにと心から祈り、実際に行動することです。
それも 1 人ではなくて、一緒に。1 人だけでも素晴らしいけど、一緒に手を取り合ったら、
想像できないような、いわゆる「奇跡」を私たちは目撃することになります。
私たちの役割はきっと奇跡を起こすのではなく、神の起こした奇跡を目撃すること。
そして奇跡の証人となることです。

■一緒に考えてみましょう
・「励まし」「慰め」「交わり」「愛」を必要としている人のために祈りましょう。
・一つになることは決して簡単ではありません。その道のりは険しいでしょう。
でも、その先には神様の祝福が待っているはずです。みこころを求め、一つになった体験はあるでしょうか。

7月

7月

ピリピ書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ピリピ人への手紙 1 章 21-24 節
生きること、死ぬこと

21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. 生きるも死ぬもキリスト

直前の「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」(1:20)という言葉を抜きに、今日の部分は理解できません。
いつ、どこで、何をするにしても、それこそ、生きていても、死ぬことがあっても、イエス様があがめられるように!というのがパウロの姿勢でした。
あがめるとは、文字通りには「より大きくなるように」という言葉。牢獄の中、自分の生死に関心が向きそうな状況で、イエス様にパウロの心は向いていました。

2. 苦難を経て達した感覚

生きるも死ぬもキリストと大胆に述べるパウロ。この境地に至るまでに、彼は多くの困難を通りました。
2 コリント 1:8-11 を読んでみてください。自分の苦しみを知ってほしいと語り、どれだけ厳しい状況だった説明しました。
その経験を通して彼は「自分自身に頼らず、神に頼る」ことを学びました。苦難の中、パウロにも感情の浮き沈みはあったでしょう。
辛いと思うこともあったと思います。そういう苦しい中を、神様の守りの中、通ることによって、信仰は成熟していくものだということを心に留めたいと思います。

3. 「死」はもはや苦しみではない

「死」とは、聖書では最後の敵として登場します。痛み、悲しみ、苦しみの極みが「死」です。
でも、パウロは死を悲惨なものとは理解していません。なぜなら、イエス・キリストの十字架と復活があったからです。
「死」に伴うすべての否定的なものをイエス・キリストが身代わりに引き受け、苦しまれ、そして死を滅ぼして、復活しました。
ですから、イエス・キリストを信じるすべての人は、もう「死」を恐れなくて大丈夫だとパウロは知っているのです。
死はキリストと共にいることであり、平安な場所に変わりました。

■一緒に考えてみましょう
●「生きるも死ぬもキリストがあがめられること」をパウロは求めましたが、今日の私の心はどこに向いているでしょうか。
神様の愛の中でゆっくり考えてみましょう。
●「苦しみを神の守りの中で通り抜ける経験」を思い出すことはできるでしょうか。

6月

6月

ピリピ書講解

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ピリピ人への手紙1章9-11節
神の愛を祈りに込めて

9.私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
10.あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
11.イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.大切なことを見分けることができますように(9節-10節の途中)

今日のみことばに見られるパウロの祈りの具体的な内容は二つに分けられます。
一つは「大切なことを見分けることができますように」という祈りです。
「大切なことを見分ける」とはどういうことなのでしょう?
そのヒントは、私たちクリスチャンが二重国籍を持っているということを考えてみるとわかるかと思います。
私たちはこの世界を生きつつ、同時にこの世界に「神の国」を見いだし、「神の国」を生きています。
「神の国」の価値観、すなわちイエス・キリストの福音に生きているのです。
イエスを信じ、みことばに養われ、みことばに生き続けていると、どうでしょう?
私たちの生き方は変えられますよね。
神を知る前は、自分の知識や識別力に頼っていたけど、神を知る今は「イエスさまなら、どうなさるだろうか?」と考え、
相手も自分も生かすような平和をつくり出す道を探っていくことでしょう。
この生き方のベースに「神の愛」があります。

 

2.キリストの日に備えて、神の栄光と誉れが現されますように(10節の途中-11節)

パウロの祈りの二つ目のものは、「キリストの日に備えて、神の栄光と誉れが現されますように」という祈りです。
先の祈りが、今、キリスト共に「神の国」を生きる、というところにパウロの意識が向けられているとしたら、
この祈りは、聖書が約束する「神の国」の完成に意識が向けられています。
今、私たちが神と共に歩むことがゆるされている「神の国」は、イエスさまによって「すでに」もたらされましたが、
「いまだ」完成には至っておりません。だから、苦しみもあるし、悲しみもあります。
しかし、「神の国」の完成の約束は約束されています(参照:ヨハネの黙示録21-22章)。
私たちは、先が見えない不安の中を歩んでいるのではなく、先が見えなくて不安に感じるような中においても、
聖書が約束している確かな希望の中に身を置いています。聖書の世界観の住人なのです。
キリストの日が必ず来ることを知りつつ「今」を生きられる幸いを味わいましょう。

 

3.パウロの祈りが私たちの祈りになる

私の神学校の恩師のように、神さまが「私たち」を通してどのように働かれるか、ということを大いに期待し、
今日のみことばの「あなたがた」を「私たち」に置き換えて、共に祈りましょう。
私はこう祈っています。「私たち」の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
「私たち」が、大切なことを見分けることができますように。
こうして「私たち」が、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。
共に祈れる幸いに感謝します。

■一緒に考えてみましょう

●「聖書のみことばが自分の祈りになる」体験がありましたら、自由に分かち合い、互いに祈り合いましょう。

5月

5月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:使徒の働き1章8節
バベルの塔からの大逆転

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、 ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. ペンテコステの日に何が起こったか
使徒2章を読むと、弟子たちが一つの家に集まっていたとき、聖霊が彼らの上に現れ、強大な風のような音を立てて、それぞれの上に火の舌のように現れました。
すると、使徒たちは奇跡的に外国語で話し始め、外国のユダヤ人たちは自分たちの母語がガリラヤ人に話されているのを聞いて驚き、注目を集めました。
これがペテロの説教の舞台となり、エルサレムで礼拝を捧げるために集まっていた人たちの中から、約3000人が悔い改め、バプテスマを受けました。

2. 外国の色々な言葉で話した理由
ペンテコステはユダヤの三大祭の一つですので、世界各地に散らされていたユダヤ人や改宗した外国人が礼拝のために集まっていました。
そこで、人々は地元の馴染みのある言葉で福音を聞いたのです。使徒1:8にあるイエスの約束が、この日から実現するというはっきりとした合図です。
この混沌とした世界に愛の秩序をもたらすというイエスの十字架と復活の救いのメッセージが地の果てにまで届けられるという最終局面に入ったということです。

3. バベルの塔と神の壮大な救いの計画
バベルの塔は創世記11章に出てきます。人間の名誉や力、満足することのない欲望、神抜きでできるという傲慢さが表れている出来事です。
この道を進んで行っても決して人は幸せになれないので、神はバベルの塔の建設をやめさせ、新しい神の壮大な救いの計画を始めます。
アブラハムを選び、神の代理人として、祝福をもたらす計画です(創世記12章)。アブラハムからイスラエル民族が誕生し、イエス・キリストへと至ります。
バベルの塔で、言語が混乱しましたが、ペンテコステでは異なった言語で神の救いのメッセージを語られました。

■一緒に考えてみましょう
・私たち一人一人、そして教会として、神の使命を確認することは大切です。
ペンテコステの出来事を読んで、どのような使命を自分のこととして受け取ったらいいでしょうか。

4月

4月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ルカの福音書 24章28-32節
心の内から熱くわき出る想い

28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、
30 イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
31 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
32 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.二人に強く勧められて一緒に泊まるイエス(28、29節)

13節から始まる「エマオ途上での物語」には二人の弟子が登場します。
エルサレムからエマオまでの道のりは約11キロ、歩くと2時間30分くらい。そこにイエスが加わり、三人は歩きながら語り合います。
しかし、二人の目はさえぎられていて、相手がイエスであることに気づきません。
話はしだいに盛り上がってきたのか、目的の村の近くにきて、二人はイエスに「一緒にお泊りください」と強く勧めます。
日も傾き、夕方になってきました。夜、旅をすると盗賊に襲われる危険もあります。
しかしそれ以上に、二人がイエスに泊まることを強く勧めたのは、「もっとこの人と一緒に話をしたい」という気持ちに変えられていったからではないでしょうか?

2.心の目が開かれて(30、31節)

30節を読んでいて不思議に思うのは、客人イエスが食卓を取り仕切っている点です。
これはいったい何を意味するのでしょうか? 二人にとって見覚えのある光景です。
二人は5千人の給食の場面(ルカ9:16)や「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください」(ルカ11:4)というイエスから教わった祈りを思い出したのではないでしょうか?
「この体験、初めてではない.」 という感覚は心と身体が覚えています。
この食卓の場面において、はじめて、二人は、かつての師イエスとその弟子という関係に戻ることができたのです。
心の中にしっかり本物のイエスがおられれば、その姿は見えなくてもいいのです。

3.心の内から熱くわき出る想い(32節、参照13-27節)

二人は、エルサレムからエマオへと向かう道で出会った復活の主との時間を、何度も何度も、思い巡らしたことでしょう。
イエスの声を聴き、聖書のみことばを通して、イエスと対話する。
聖書を読んで、自分が思っていること、考えていることをイエスの前に差し出し、
みことばそのものであられるイエスに、自分の誤った解釈や、間違った思い込みをなおしていただく。
実は、このやり取りが、エマオ途上で、二人の弟子と師であるイエスとの間でなされていたのです。
「受難と十字架」で終わらず、「受難と十字架」の先に「復活」がある、ということをイエスは十字架にかかられる前から語り続けてきました。
ただ、誰もそのことを信じられなかったのです。しかし、「聖書に何が記されていたか」ということを、二人は復活のイエスを信じることによってはじめて理解します。私たちの心の内に熱くわき出る想いが生じるのは、よみがえられた主が、いつまでも私たちと共にいてくださる、ということを信じられるからではないでしょうか?

■一緒に考えてみましょう

  • あなたにとって「復活」とは何ですか?

3月

3月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書9章35-41節
誰にも理解されなくても

35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。
「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。
「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
37 イエスは彼に言われた。
「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
39 そこで、イエスは言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。
「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。
しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1. インターネット越しであろうと神は働く

いつになるかわかりませんが、礼拝堂で一緒に礼拝を再開する日、きっといつも以上に、神の働きをリアルに感じる人が大勢出るだろうと思います。
だけど、インターネットを通して、この画面越しという制約があっても、神は確かに働きます。
「その人は誰ですか。主よ、私はその人を信じたいです」という率直な求めがイエスに向けられるとき、
イエスは私たちの目を開いてくださり、真実を見ることができるようしてくださいます。

 

2. 同じ体験はできないけど、私にぴったりの経験はできる

この彼と同じ体験は誰もできません。ですが、目が見えるようになった彼の人生を変えた神様が私たちの神様で、
この人を変えたように、私たち一人一人がそれぞれにぴったりの方法で神様は人生を変えることができます。
もっと言えば、神はすでに触れているはずです。牧師になって、何人もの信仰告白に立ち会ってきましたが、
私のところに来る前に、神様はその人に触れておられるし、神の愛はすでに注がれていました。
私がすることは、神様がすでにしてくださっていることを見つけるお手伝いです。神様の個性に応じたアプローチに注目です!

 

3. まさか私たちも盲目なのですか?

パリサイ人とは違うと思っているうちは、私たちはパリサイ人と同様に盲目なのです。
神と一緒にいると信じていますが、実際は光の近くにいないのです。
どれだけ自分が汚れているかはわからないのは、光の方に来ていないからです。
イエスが問題にしているのは、罪があるかないかではありません。誰もが罪にまみれています。
信仰が深まれば深まるほど、罪から清められていくと同時に、罪にまみれているという自覚も深くなっていくのではないでしょうか。

 

■一緒に考えてみましょう

  • クリスチャンの数だけ、信仰のストーリーがあります。目が見えずに生まれてきた人の目が開かれたように、私に特別にしてくださったことがあります。
    人生の難しい局面であっても、そこで神の光を見出すことができるでしょう。

2月

2月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ヨハネの福音書  9章1-12節
「誰が悪いか」ではない道

1   さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2  弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3  イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4  わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5  わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6  イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7  「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
8  近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9  ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
10  そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
11  彼は答えた。
「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12  彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 負い目を感じながら生きてきた

生まれつき目の見えないこの人は、ずっと罪意識を押し付けられてきたんだと思います。
ずっと負い目を感じながら生きてきました。周りからは、罵られ、家族からも邪魔者扱いされていたかもしれません。
今回の弟子たちの一言。「あの人が目が見えないのは、誰の罪ですか。誰が悪いのですか。」
すでに何百回も繰り返された問いかけだったことでしょう。
彼の心は、硬く閉ざされていて、そういう言葉にいちいち傷つかなくなっていたかもしれません。

  1. 神は暗闇を照らす光

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」というイエスの言葉がどう彼に響いたでしょうか。
「わたしが世の光です」(5節)とイエスは言葉を続けます。
この世界の隅に追いやられ、誰も信頼できないと思っている人たちのところに行き、
神の愛は決して裏切ることがない、信頼して大丈夫だということを語り、また、行動で示しました。
神のわざとは、罪の束縛からの解放ですが、この世は何も信頼できない・救いなんかないという運命にあるような人に、イエスは神のわざを明らかにするのです。

  1. 新しい創造、愛の支配が始まる

イエスが自分を光と表現したことも天地創造の神と重なりますが、「泥」という言葉も創造のキーワードの1つです。
目の見えない人に塗った「泥」という言葉は創世記2:7の神が大地のちりで人を形作ったという、あの「ちり」と同じギリシャ語です。
つまり文字通り、イエス様はここで、新しい創造、新創造を行われたのです。
目の見えない人に、光を与えました。混沌とした希望の失われた現実にイエスは希望を与えました。
彼はそれを信じ、目を洗いました。

■一緒に考えてみましょう

  • 「誰が悪いか」と思っている出来事はあるでしょうか。そこに神の別の道はあるでしょうか。
  • あなたにとって、神によって目が開かれたと思うような出来事はあるでしょうか。

1月

1月

ビジョン2030

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:`蒔田 望 牧師
聖    書:使徒の働き  15章22-35節
重荷は負わせない

22  そこで、使徒たちと長老たちは、全教会とともに、自分たちの中から人を選んで、パウロとバルナバと一緒にアンティオキアに送ることに決めた。
選ばれたのはバルサバと呼ばれるユダとシラスで、兄弟たちの間で指導的な人であった。
23  彼らはこの人たちに託して、こう書き送った。
「兄弟である使徒たちと長老たちは、アンティオキア、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつを送ります。
24  私たちは何も指示していないのに、私たちの中のある者たちが出て行って、
いろいろなことを言ってあなたがたを混乱させ、あなたがたの心を動揺させたと聞きました。
25  そこで私たちは人を選び、私たちの愛するバルナバとパウロと一緒に、あなたがたのところに送ることを、全会一致で決めました。
26  私たちの主イエス・キリストの名のために、いのちを献げている、バルナバとパウロと一緒にです。
27  こういうわけで、私たちはユダとシラスを遣わします。彼らは口頭で同じことを伝えるでしょう。
28  聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。
29  すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」
30  さて、一行は送り出されてアンティオキアに下り、教会の会衆を集めて手紙を手渡した。
31  人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ。
32  ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、力づけた。
33  二人は、しばらく滞在した後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、自分たちを遣わした人々のところに帰って行った。
35  パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のことばを教え、福音を宣べ伝えた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 譲っていい部分と譲れない部分

この3重円の真ん中は、絶対に譲ってはいけない部分。
次は、複数の立場があるけど、中には教義と同じくらい重要と考えられる内容。
最後は、意見が違っていてもいいよねと納得できる部分です。
「イエスが救い主である」これは教義のど真ん中。パリサイ派は律法遵守も真ん中だと信じていたのですが、パウロは否定しました。
人はそれぞれ体験が違います。すべての点で一致することは不可能です。
だからその上で、共通して大事にすべきものを整理することは大切です。

 

 

 

 

 

 

  1. 4つのルールは神の愛ゆえ

救いには関係ないけど、この4つは守ってくださいと条件が出ました。
理由は2つ。まず、自分(異邦人教会)のため。
今まで文化として馴染んでいた中に、異教の神への礼拝があり、供え物にしても、食べ物にしても、
当時は性的な行為も宗教と結びついていたため、避ける必要がありました。
もう1つは、異邦人クリスチャンが気をつけることで、ユダヤ人クリスチャンとの関係を築くためでした。
つまり、この4つのルールは異邦人クリスチャンを縛るものではなく、神の愛に基づくものでした。

  1. 違いを乗り越え、平安を体験した教会同士の交わり

エルサレム教会は律法を大事にしていただろうし、アンティオキア教会の異邦人教会とは違ったはずです。
違うけど、大事な部分は一致していて、それで十分でした。このように派遣されたユダとシラスによって、
神の恵みを共有し、神のことばを聞いて、励まされ、慰められ、力づけられました。
この関係を私たちの間で、教会と教会との関係で体験したいのです。
練馬教会は多様性を受け入れる方向で進んできましたが、これからも同じです。
合言葉は「でこぼこがいい」です。

■一緒に考えてみましょう

  • 大事にしているキリスト教の価値観のいくつかを3つの円のどこに当てはまるか考えてみましょう。

12月

12月

アドベント

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖    書:ルカの福音書2章25-35節
神をほめたたえよう

25.そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。
また、聖霊が彼の上におられた。
26.そして、主のキリストを見るまでは決して死をみることはないと、聖霊によって告げられていた。
27.シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
28.シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29.「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30.私の目があなたの御救いを見たからです。
31.あなたが万民の前に備えられた救いを。
32.異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
33.父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
34.シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35.あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

1.イスラエルが慰められるのを待ち望んで(2:25-27)

「シメオン」とはどんな人だったのでしょうか?
年齢はわかりませんが、彼は、神と人々に対して正しく振る舞い、神に対する信頼と神に仕える心を持ち続けた人でした。
だからこそ「聖霊」が彼の上に留まっていたのでしょう。
シメオンは、多くの信仰者が願っても叶わなかった出来事を体験します。
26にあるみことばの約束通りに。自分の思いではなく、御霊に導かれて行動したシメオンは、
自分と同じように「神の律法」にならって生きるヨセフとマリアが幼子イエスを連れて宮に入って来たところに出くわすのです。
待って、待って、待ち望み続けた「救い主」が目の前におられるのです。

 

2.私の目があなたのみ救いを見た(2:28-33)

赤ちゃんのイエスさまを腕に抱き、神をほめたたえたシメオンは、
「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」と言います。
私たちは、何か大きな目標を達成したりしたときに「もう、死んでもいい」と思うことがありますが、
シメオンはそのような気持ちでこの言葉を語ったのではないでしょう。
彼の言葉の背後には、「私には、『しもべを安らかに去らせてくださいます』と言える特権が与えられ、
今からは、主よ、あなたの平安のうちに生きられます」という意味が込められていることでしょう。
シメオンは、今、自分の腕の中に確かな「救い」があることを実感しているのです。

 

3.人々の反対にあうしるしとして定められた子(2:34-35)

しかし、34、35節に見られるシメオンの言葉には暗い影があります。彼は何を言いたかったのでしょうか?
彼は、今、その手にだっこしている幼子こそ、私たちのありとあらゆる苦しみを背負われる「救い主」だと言うのです。
ではなぜイエスが「苦難のしもべ」として生き、最終的に十字架刑で死ぬことが主のみこころだったのでしょうか?
それは、私たちの「心のうちの思いが、あらわになる」必要があるからです。
私たちの心のうちにある思いとは、私たち人間の「罪」です。この罪の性質は自分の力ではどうにもなりません。
皆さん、主のキリストに出会い、心のうちの思いがあらわにされてどうなったでしょうか?
罪が告白できるようになり、救われましたよね。この救いが主イエスにだけしかない「まことの救い」、「まことの平安」なのです。

■一緒に考えてみましょう

  • あなたにとって「救い」とは何ですか?

11月

11月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:詩篇  121篇1-8節
私の助けはどこから来るのか

1   私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。
2   私の助けは主から来る。 天地を造られたお方から。
3   主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない。
4   見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。
5   主はあなたを守る方。 主はあなたの右手をおおう陰。
6   昼も 日があなたを打つことはなく 夜も 月があなたを打つことはない。
7   主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる。
8   主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. キーワードは神が「守る」

詩篇121篇は8節までの短い詩篇ですが、守るという言葉が6回も出てきます。
「守る」という言葉はこの詩篇のキーワードです。
どのように使われる言葉かというと、羊の群れを見守るときや、町の城壁を守る見張りに、この言葉を使います。
どちらも急に危険に襲われるリスクがあります。決して安全が保障された場所ではありません。
オオカミに襲われるかもしれないし、敵が攻め込んでくるかもしれません。
そういう危険な夜を過ごす時、私たちの神様はうとうとすることは決してない。起きていてくれて、私たちを守ってくれる。
敵が襲って来たとしてもが盾となって守ってくれるし、戦ってくれる。だから安心できるのです。

 

  1. 巡礼者の守りはクリスチャンの守りへ

なぜエルサレムに行くのでしょうか?礼拝を捧げるためです。
神様が私を礼拝しなさいと招いているからです。ある意味、礼拝するように命じているからです。
エルサレムに向かって旅をしているということは、この人は神様の言葉に従ったのです。
神に託した人生であっても、時には山あり谷あり、危険があります。
そういうとき、この詩篇121を思い出したいのです。
神様に人生を明け渡した人を、神の責任で守ってくださる。今よりとこしえまでも。
神のことばに従い、人生の旅路を歩む私たちもこの詩篇に心を合わせる事ができます。

 

  1. 石井忠雄先生の人生を思い浮かべつつ

この詩篇の祈りは1年前に天に召された石井忠雄先生が大切にしていた祈りでもあると聞いています。
石井先生はまさにこの聖書の約束に従い、信仰の生涯を全うされました。
苦しいこともあったでしょうし、歯を食いしばらなければならないときもあったでしょう。
それでも、「天地を造られた神様は私の人生を最後まで責任を持って守ってくださるし、私の人生は神様の御手の中にある」と
石井先生は私たちに信仰の足跡を残してくださったように思います。

 

■一緒に考えてみましょう

  • 神の守りを切に求めたい事柄が思い浮かぶでしょうか。誰かに祈ってもらえたら嬉しいですね。

10月

10月

余白のある生活

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

説教者:蒔田 望 牧師
聖    書:ルカの福音書  10章25-37節
隣人を愛する具体例

25  さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。
「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、
また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
30イエスは答えられた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。
強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
34そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
35次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
37彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」
するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

■アウトライン

  1. 私の隣人とは誰ですか

自分の日頃の行いの正しさを証明しようと律法の専門家はイエスに問いかけました。
この質問は私たちにとっても重要です。
神を愛するように「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われる隣人とは誰のことだと認識しているでしょうか。
ぜひ、メモしてください。
イエスは律法の専門家の質問に対して、直接的には答えずに、「よきサマリア人」と呼ばれる例えを話しました。

 

  1. 律法の文字に従い、律法の心から離れた

強盗に半殺しにされた人を最初に見つけたのは祭司、次にレビ人です。
2人とも死にそうな人を助けません。ユダヤ人はこの行動に納得したかもしれません。
死体に触れたら汚れてしまうという律法の規定がありました。
でも、イエスはこの2人を、隣人を愛していない人として描いているのです。
律法に従っているが、律法の根底にある他人を愛することに失敗したと言えるでしょう。
律法を守ること自体は間違っていない。だけど、律法を守ることに固執しすぎて、律法の根底を読み間違えることがあるのです。
祭司とレビ人の行動がそれを表しています。

 

  1. 大っ嫌いな人が隣人を愛する具体例に

サマリア人。この単語を耳にしただけで、イラッとする。
憎しみや敵対心という言葉では表現しきれない感情。意識の深いところにまで染み付いている、嫌悪感。
それがユダヤ人にとってのサマリア人です。あなたにとってのサマリア人を思い出してください。
思い出せないと律法の専門家が味わった苦味が理解できません。
私たちが、神の似姿に変えられていくということは、この苦味を体験することに他なりません。
この苦味を味わいつつ、自分のうちにあるジレンマと向かい合いつつ、イエスの示された道、神と人を愛する道を選んでいきましょう。

 

■一緒に考えてみましょう

  • あなたの隣人は誰ですか?あなたのサマリア人は誰ですか?あなたは行って何をしますか?

3つの礼拝の時間

grade

第一礼拝

10:00

ピアノとベース
現代的な曲も

第二礼拝

11:10

パイプオルガン
伝統的な曲が中心
英語への同時通訳

子ども礼拝

10:50-11:20

小学生までの子どもが対象

■ご注意:

礼拝堂での礼拝を自粛していましたが、6/21より段階的に再開しました。
第1礼拝 10:00-10:30 第2礼拝 11:10-11:40

礼拝をYouTubeライブで配信します。教会のYouTubeチャンネルをご覧ください。
https://www.youtube.com/channel/UCP4PpifOWaWsECYGfFwF7pA

感染対策並びに諸注意:
① 体温が平熱よりも高い、咳などで体調がすぐれないなどの時は、出席をお控えください。
② マスクを着用しておいでください。
③ 受付で、検温・出席者の確認を行います。あわせて手指の消毒も必ず行ってください。
(各礼拝前に手すり・いす等共有部分は消毒し、換気も行う予定です)
④ 礼拝時間は30分をめどとし、礼拝前後に「密」とならないよう、交わりも5分程度でお願いします。
⑤ 礼拝堂は、前後左右に一人分あけて着席するよう準備します。
⑥ 飛沫感染予防のため、賛美は「つぶやく」程度の小さな声でお願いします。
⑦ 献金は、礼拝終了後、1階受付でお願いします。

礼拝に来た人

grade
47
第一礼拝
38
第二礼拝
10
子ども礼拝

9月27日の出席者数

礼拝に関するよくある質問はこちらにまとめてあります。
少しでも不安がありましたら、お問い合わせください。
Menu