世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
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ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 11章1節
二千年間継承された祈り
1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。
「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神に目を向け、お互いに目を向ける
主の祈りは、まず神に目を向けます。神が聖であるように、私たちにも聖さを与えてください。
私たちは罪で汚れています。神の愛と正義がこの社会の中で、私たちのうちに、実現していきますように。
このように、神と私たちの関係に目を向けます。その後で、神の子どもとして、ここ社会で暮らすために、必要なことを求めます。
後半は「私たちの」祈りです。私の祈りではなく、私たち、つまり横の繋がりを意識した祈りになります。
- 御国が来ますように
「御国」が何かという理解がとても大切です。
ルカによれば、イエスは悪霊を追い出し、病人を癒し、聖書の神について教えることを通して、神の王国、神の支配を目に見える形で表してきました。
私たちの日々の生活の中に。この社会も今なお、苦しんでいます。
ここに神の愛と正義が実現しますようにという社会のための祈りでもあります。
神ご自身に期待するしかないのですが、神の価値観を先に教えてもらった私たちが、この世界に対して責任を果たしていくことができるように、
どうか恵みを与えてくださいという私たちの祈りでもあります。
- しつこさも大切だし、神の寛大さかもしれない
5-8節の部分は30年後には聖書の翻訳が変わるかもしれません。
友達のしつこさではなくて、家の人が恥知らずになりたくないので、という風に変わる可能性があります。
粘り強く祈ることの大切さをルカはもう少し後で語りますので、それも大切なことです。
でも、ここは神の寛大さに注目されているかもしれません。
面倒だと神は思わずに、私たちを聖とするため、私たちに御国を表すために、寛大な心を持っている。
だから求めなさいと続くかもしれません。
■一緒に考えてみましょう
・祈りとは私の要求を通すのではなく、神の御心に私たちの心と行動を向けるものだとしたら、私たちの祈りの生活はどう変わっていくでしょうか。
・主の祈りの中で、特に今日、注目したい部分はどこですか。
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:マタイの福音書25章27節
一タラントも隠さない
マタイの福音書 25章14節~18節
天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。
するとすぐに、五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
マタイの福音書 25章27節
それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。
そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 私たちキリスト者は地上で⽣きていくときに⼤切な⼆つの視点があると⾔われています。
それは、⼗字架の様に縦と横の関係、視点です。まずは神様との関係で、
私たちキリスト者は主イエスに愛され、罪赦されている存在であるということです。
これは縦の関係と⾔えます。そして、それを始まりとして、その恵みの中で横との関係を築いて⾏くことがキリスト者の⽣き⽅です。
2. 財産を預けられた 3 ⼈がいました。⼀⼈は 5 タラント。⼀⼈は 2 タラント。もう⼀⼈は 1 タラントを預けらえました。
この 1 タラントは現代で⾔えばいくら位かというと、1 タラントは 6,000 デナリ。1 デナリは 1 ⽇分の労賃だそうですので、
仮に⼀⽇ 1 万円の労賃とすると、1 タラントは 6,000 万円となります。ですから、5 タラントは 3 億円。2 タラントは 1 億 2 千万円。
すごい⼤⾦ですね。問題は 6,000 万円預けられた⼈が地⾯に⽳を掘ってこのお⾦を隠しておいた、ということです。
この記事と似ているたとえ話はルカの福⾳書 19 章 20 節にも出てくるのですが、
そこでは、「ご主⼈様、ご覧ください。あなた様の 1 ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました」
(1 ミナは 100 ⽇分の労賃だそうなのでここでは 100 万円になる)布に包んでしまっておいたか、
⽳を掘って隠しておいたかは別にしても、与えられたものを使わずに隠しておいたのです。
3. このたとえ話から私たちは何を学ぶべきでしょうか?
お⾦を預けた⼈は、しもべを持つほどに裕福な⼈でしょう。
ルカの福⾳書では、この⼈のことを、「ある⾝分の⾼い⼈」と書いています。この⾝分の⾼い⼈はしもべにお⾦を預けています。
その預けた額は違いますが、皆に預けているのです。私たちも神様から預かっている物があることを⽰しています。
それは神様が私たちを信頼して、ひとりひとりにふさわしいものを預けていると⾔っても良いでしょう。
でも、他の⼈を⾒ると、あの⼈はあんな⼤きなものを預けられているのに⾃分にはこんなに少い、と思えるかも知れません。
⾃分に与えられている賜物なんて少しだし、ちっぽけなものだと思っているかもしれません。
あるいは、そもそも、⾃分には何が預けられているか分からない。
⼈と⽐べるわけではないが⾃分には賜物などない、と預けられたものが分からない、と思っているかもしれない。
あるいは、このしもべの様に、⾃分に与えられた賜物をどう使った良いのか分からない。
何をしたら良いのか、どこで賜物を使えるのか分からない、という⼈もいるかも知れません。
この聖書箇所は、いやいや、必ずだれにでも神様から与えられた賜物があります。
それを⼈と⽐べたり、隠すのではなく、使いなさい。という励ましです。
使い⽅が分からなかったら銀⾏に預けるように、まずは神様に⼼を開いて、委ねなさい。神様に⼼を開いて、
委ねることならできるでしょう。そして神とともに賜物を捜すことに歩み出すのです。
そうすれば銀⾏に預けた時に利⼦がつくように、
私たちの歩みが⾃然、⾃分にふさわしい賜物を⽤いる場所、⽅法が⾒つかる、ということではないでしょうか。
4.そのように歩んだある元宣教師のあかしを紹介します。
ペテロ第⼀の⼿紙 4 章 10 節
説教者:松井 将幸 神学生
聖 書:ローマ人への手紙15章22-29節
恵みは分かち合ってこそ
22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを何度も妨げられてきました。
23 しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。
また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、
24 旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、
まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。
25 しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。
26 それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。
27 彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。
異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。
28 それで私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニアに行くことにします。
29 あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章42節
イエスの足元に座ることから
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 誰もが招かれている
2000年前のイエスの文化では、女性は台所でマルタのようにもてなしの準備をするのが当たり前でした。
しかし、マリアは、男性の弟子たちに混じって、イエスの足元に座っていました。
イエスも、弟子たちも、このことについて、何も言っていません。これがイエスのグループの特徴でした。
男性も女性も一緒に、イエスの足元に座ることができる。
イエスは当時の常識的な感覚にとらわれずに、イエスご自身が女性の立場をきちんと保証するのです。
「こどもを連れてきなさい」と言われたことにも通じるイエスの一貫した姿勢を見ることができます。
- マルタの不満
私たちは、きっと多くの人がこのマルタの気持ちを理解できるでしょう。
マルタは一生懸命、やっているのです。別に、マルタは目の前に責任を放棄したいわけではありません。
彼女は喜んでもてなしをしたかっただけです。
イエスは私たちの常識の反対をいくので、時に、挑戦的に映ったり、私たちを不満にさせたりすることもあります。
そういう時こそ、信仰の成長のチャンスです。神の価値観が私たちのうちで育とうとしているのです。
- スケジュールの見直しは必要ですか
この出来事の直前、前回2/5にお話しした内容を思い出してください。
良きサマリア人と呼ばれる話がありました。「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きてるんだ」と言えるかもしれないです。
誰があなたの隣人かと考えるよりも、あなたは隣人になるために、行動しなさいとイエスは言われました。
行動することは大切です。でも、良い行動をするために、イエスの足元に座る時間がなくなってしまうようなスケジュールは、見直さなければならないのです。
■一緒に考えてみましょう
・マルタのように不満をイエスご自身に伝えるということは大切な習慣です。
・スケジュールの見直しは必要でしょうか。
説教者:安藤 理恵子 師
聖 書:マタイの福音書19章13-15節
子どもに未来を与える神
〜安全な居場所を見つける〜
13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。
すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。
14 しかし、イエスは言われた。
「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:ブライアン・ラスキー 師
聖 書:ルカの福音書18章18-30節
どれだけやれば十分か?
18 また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
20 戒めはあなたも知っているはずです。
『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」
21 するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
22 イエスはこれを聞いて、彼に言われた。
「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
23 彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
24 イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
26 それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」
29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、
30 必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章29節
隣人愛の範囲
29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とはだれですか。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「自分は正しい」という罠
神と人を愛する。これが聖書の根幹にある教えです。律法の専門家は隣人とは誰かとイエスに質問しました。
律法の専門家は隣人とは誰かという質問の答えをすでに持っていました。彼は自分では隣人を愛しているつもりでした。
「自分は正しい」、すでにできているという思い込みの中にいる限り、彼は本当の意味での隣人を愛することから離れたままなのです。
ここにイエスは光を当てます。自分は正しいという思い込みからイエスは救い出そうとされるのです。
- 誰が隣人になったか
イエスは質問を変えたことに気づきましたか。元々は「隣人は誰ですか?」から始まりましたが、最後に問いかけたのは「誰が隣人になったか?」でした。
隣人は誰かと議論し続けることよりも、あなたが困っている人の隣人になりなさいとイエスは言われるのです。
神と人を愛するということは決して簡単な道ではありません。
私たちが勝手に簡単な道に変えて、偽の安心で満足することがありませんように。イエスと共にイエスの道を歩き続けられますように。
- サマリア人とイエスの生き方
サマリア人が被害者に近づくという選択は、血まみれになってその人を持ち上げ、歩けない人を乗せて歩き、
自分のポケットから別の人のためにお金を出し、感謝されることもなく、嫌われ続けるかもしれない、そういう危険を冒すことを意味しました。
イエスが十字架に向かって覚悟を決めて歩くとは、まさにこのような生き方なのです。
神が私たちの隣人になってくれたのは、私たちも必要としている人の隣人になりなさいという神の使命を託されているということなのです。
■一緒に考えてみましょう
・私は誰の隣人になるようにと神様に召されているでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮
17 さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- モーセの時代から変わらない人の本質
この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。
- 勇気を出して信仰の旅に
17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。
- 幼子だから神に信頼できる
成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。
■一緒に考えてみましょう
・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章51節
イエスの覚悟、弟子の覚悟
51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 苦難と栄光を見据えた旅
マタイやマルコの福音書では、イエスはガリラヤからエルサレムへさらっと移動しますが、ルカは10章ほどかけた長い旅として描きます。
アブラハムが生まれ故郷を離れて旅を始めたように、出エジプトから約束の地を目指したように、バビロンへ捕囚に連れて行かれ、
また約束の地へ戻ったように、旅というのは聖書によく出てくるイメージです。
この福音書を読む読者たちも、信仰の旅をしている最中であり、どこで何をしていたとしても、
主イエスと一緒に宣教をしている旅仲間として見るようにという現代の教会へのメッセージだとも言われます。
- 1歩目から拒まれる
「あなたがたは、自分たちのことを知らないのです。人の子は、命を奪うためではなく、救うために来たのです」
後の時代の人が55節でイエスが叱った内容として、聖書に付け加えた言葉として知られている言葉です。
ルカのオリジナルの言葉として書いていませんが、でもイエスの主張を伝えています。
イエスは、裁きの警告をするが、裁きそのものは後に来ることが多いのです。
なぜなら、神は寛大で人々に振り返る時間を与えてくださるからです。
- 新たな1歩を踏み出す覚悟
イエスが十字架を通って、栄光に至る、その第一歩を踏み出す場面で、57-62節のやりとりが行われているのです。
そこそこの現実で、自分が困らなければいいような気がするかもしれませんが、
イエスは本気です。ほどほどのクリスチャンでいいと思っているかもしれません。
しかし、イエスは新たな一歩を踏み出すように迫ります。
日々、私たちの注目を逸らそうとする出来事は多くありますが、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいられますように。
■一緒に考えてみましょう
・イエスの覚悟と弟子の覚悟はいつも温度差があるでしょう。それは私たちにも言えることです。
今日、どのような語りかけを神から受けているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章46節
的外れな議論
46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 偉大な神が人の手に渡される
人々を苦しめる悪魔の力が描かれますが、イエスは悪霊から救い出しました。
神の偉大さに人々が驚いている中で、イエスは自分に起こることを告げるのです。
イエスは神の偉大さを表し、人々から拍手喝采されるのではなく、最後は人々から拒絶され、裏切られ、死刑にされることになる。
この落差に驚かされますが、イエスは救い主として、この道を歩いていかなければなりません。
ここに神の神秘が隠されています。私たちの常識は揺さぶられ、イエスの価値観が身についていくのです。
- 誰が偉いかという的外れな議論
当時、こどもは、取るに足らないと見なされる小さな存在の象徴です。
誰からも相手にされず、見向きもされない存在のこどもと、自分は同じなんだとイエスは言うのです。
これが神の神秘です。見向きもされない人を受け入れる人は、イエスを受け入れるのと同じだとイエスはここで語っています。
誰が一番偉いかという議論をする弟子たちに向かって、むしろ小さい人に目を向ける心を持ちなさいとイエスは言われています。
これこそ、神の生き方なのです。
- 的外れな生き方でも、神は
弟子に目を向けるなら、今日、読んだ部分だけでも、悪霊を追い出すことができず、
イエスの受難の預言を理解せず、誰が偉いかに関心があり、他のグループを規制しようとする。
どれも、的外れな生き方です。日々、十字架を負って、イエスについて行くという生き方とは、程遠いと言えます。
これが弟子の現実であり、私たちでもあると思うのです。
それでも、主イエスは私たちと一緒にいることをやめませんし、私たちに忍耐強く関わってくださるのです。
的外れなことがあっても、新しい1年も、私たちもイエスから離れずに、生活していきましょう。
■一緒に考えてみましょう
・イエスを受け入れることと、取るに足らないと感じる人を受け入れることは同じことだと言われるなら、私はどのような人に改めて目を向けるように促されているでしょうか。
説教者:佐々木 望 牧師
聖 書:ヨシュア記 1章1-11節
新しい時代に向かって
1 主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。
4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。
わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。
これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。
そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。
そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。
『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。
あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章18-20節
初詣は教会で
18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。
「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ルカ福音書の前半の山場
イエスは一体、誰なのだろうかと弟子たちも思っていたし、その地域を治めていたヘロデすら、誰なんだと思っていました。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(20節)この問いかけは私たちにとっても重要です。
年の初めの今日は、Holy Longing、聖なる憧れという話から始めましたが、
私たちは自分の心の奥底で、本当のところ、何を求めているのか自分自身に聞いてみたいと思っています。
- 受難と復活という救い主の道
多くの苦しみを受け、当時の聖書の専門家たちから捨てられ、殺され、3日目によみがえる。
これが救い主の運命だとイエスは語りました。救い主のイメージとは全く違います。私たちの想像する救い主とも全く違うと思います。
しかし、ここに神の深い計画があるのです。人は生まれながらにどこまでも自分勝手ですが、
イエスは人のために命を差し出す生き方があると模範を示します。
神に自分を差し出すなら、私たちは生きるというのは、本当に神の奇跡です。
- イエスの最後(出エジプト)について
旧約聖書をモーセ律法と預言書と表現することがあるのですが、モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表していて、
聖書の約束がイエスによって実現しようとしていることが暗示されています。
31節の「最後」という言葉は出エジプトを意味する言葉であり、イエスのエルサレムでの十字架の死が、新しい出エジプトだというのです。
エジプトの奴隷生活から救い出され、イスラエル民族は神の民として、この世界の光となる使命を受けました。
同じように、イエスを信じる人たちは神との関係を回復し、この世界の光となるように使命を受けるのです。
■一緒に考えてみましょう
・新しい年を迎えた私たちの内側にある燃える火に目を向けてみましょう。
私たちの内側に「聖なる憧れ」に至る声を聞くことはできるでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章17節
最前列の興奮
17 さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- モーセの時代から変わらない人の本質
この72人を代理として指名するというのは、出エジプトの出来事を思い起こさせます(民数記11:16あたり参照)。
モーセが70人の長老を選び、イスラエルの人々を導くのを助けたという出来事がありました。
イスラエルの民はエジプトの肉が食べたいとか、不平を言い、モーセに反抗し、神の導かれる道を歩もうとしなかったのです。
イエスの時代の人々の多くと共通する人の本質的な部分です。そういう中に弟子たちは遣わされていくのです。
- 勇気を出して信仰の旅に
17節のこの喜び、この興奮を私たちも味わいたいのです。
イエスの弟子たちが勇気を出して、大胆に宣教の旅に出かけ、喜びに満たされて帰ってくることができました。
神に招かれ、神に遣わされる時、自信がなくても、迷ったとしても、遣わすと言われた神ご自身を信頼して、弟子たちは旅に出たのです。
当然、拒絶されたり、思うようにうまく行かなかったりすることがあったでしょうが、
弟子たちは神の手となり足となるという尊い務めの一部を託されていたという喜びを体験して帰ってきたのです。
- 幼子だから神に信頼できる
成功の喜びというのは、私たちを神から引き離す隙を作ることにもなります。
弟子たちは悪霊を服従させる力を喜びましたが、イエスは達成したことではなく、神があなたと共にいるという安心感に目を向けるように言われます。
イエスは私たちに知恵ある人、賢い人のような地位を与えたいわけではありません。
むしろ、幼子のような弱く、頼りない私たちを通して、神の力が表されることを望まれるのです。
自分が弱いから、神に信頼する。これが弟子の生き方です。
知恵ある人を目指すのではありません。神に信頼する人になるのです。
■一緒に考えてみましょう
・勇気を出して信仰の旅に出た経験はありますか。これまでの経験を振り返ってみましょう。
また、今の生活の中で、神に遣わされている場所があるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章51節
イエスの覚悟、弟子の覚悟
51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 苦難と栄光を見据えた旅
マタイやマルコの福音書では、イエスはガリラヤからエルサレムへさらっと移動しますが、ルカは10章ほどかけた長い旅として描きます。
アブラハムが生まれ故郷を離れて旅を始めたように、出エジプトから約束の地を目指したように、バビロンへ捕囚に連れて行かれ、
また約束の地へ戻ったように、旅というのは聖書によく出てくるイメージです。
この福音書を読む読者たちも、信仰の旅をしている最中であり、どこで何をしていたとしても、
主イエスと一緒に宣教をしている旅仲間として見るようにという現代の教会へのメッセージだとも言われます。
- 1歩目から拒まれる
「あなたがたは、自分たちのことを知らないのです。人の子は、命を奪うためではなく、救うために来たのです」
後の時代の人が55節でイエスが叱った内容として、聖書に付け加えた言葉として知られている言葉です。
ルカのオリジナルの言葉として書いていませんが、でもイエスの主張を伝えています。
イエスは、裁きの警告をするが、裁きそのものは後に来ることが多いのです。
なぜなら、神は寛大で人々に振り返る時間を与えてくださるからです。
- 新たな1歩を踏み出す覚悟
イエスが十字架を通って、栄光に至る、その第一歩を踏み出す場面で、57-62節のやりとりが行われているのです。
そこそこの現実で、自分が困らなければいいような気がするかもしれませんが、
イエスは本気です。ほどほどのクリスチャンでいいと思っているかもしれません。
しかし、イエスは新たな一歩を踏み出すように迫ります。
日々、私たちの注目を逸らそうとする出来事は多くありますが、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいられますように。
■一緒に考えてみましょう
・イエスの覚悟と弟子の覚悟はいつも温度差があるでしょう。それは私たちにも言えることです。
今日、どのような語りかけを神から受けているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章46節
的外れな議論
46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 偉大な神が人の手に渡される
人々を苦しめる悪魔の力が描かれますが、イエスは悪霊から救い出しました。
神の偉大さに人々が驚いている中で、イエスは自分に起こることを告げるのです。
イエスは神の偉大さを表し、人々から拍手喝采されるのではなく、最後は人々から拒絶され、裏切られ、死刑にされることになる。
この落差に驚かされますが、イエスは救い主として、この道を歩いていかなければなりません。
ここに神の神秘が隠されています。私たちの常識は揺さぶられ、イエスの価値観が身についていくのです。
- 誰が偉いかという的外れな議論
当時、こどもは、取るに足らないと見なされる小さな存在の象徴です。
誰からも相手にされず、見向きもされない存在のこどもと、自分は同じなんだとイエスは言うのです。
これが神の神秘です。見向きもされない人を受け入れる人は、イエスを受け入れるのと同じだとイエスはここで語っています。
誰が一番偉いかという議論をする弟子たちに向かって、むしろ小さい人に目を向ける心を持ちなさいとイエスは言われています。
これこそ、神の生き方なのです。
- 的外れな生き方でも、神は
弟子に目を向けるなら、今日、読んだ部分だけでも、悪霊を追い出すことができず、
イエスの受難の預言を理解せず、誰が偉いかに関心があり、他のグループを規制しようとする。
どれも、的外れな生き方です。日々、十字架を負って、イエスについて行くという生き方とは、程遠いと言えます。
これが弟子の現実であり、私たちでもあると思うのです。
それでも、主イエスは私たちと一緒にいることをやめませんし、私たちに忍耐強く関わってくださるのです。
的外れなことがあっても、新しい1年も、私たちもイエスから離れずに、生活していきましょう。
■一緒に考えてみましょう
・イエスを受け入れることと、取るに足らないと感じる人を受け入れることは同じことだと言われるなら、私はどのような人に改めて目を向けるように促されているでしょうか。
説教者:佐々木 望 牧師
聖 書:ヨシュア記 1章1-11節
新しい時代に向かって
1 主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。
4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。
わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。
これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。
そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。
そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。
『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。
あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章18-20節
初詣は教会で
18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。
「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ルカ福音書の前半の山場
イエスは一体、誰なのだろうかと弟子たちも思っていたし、その地域を治めていたヘロデすら、誰なんだと思っていました。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(20節)この問いかけは私たちにとっても重要です。
年の初めの今日は、Holy Longing、聖なる憧れという話から始めましたが、
私たちは自分の心の奥底で、本当のところ、何を求めているのか自分自身に聞いてみたいと思っています。
- 受難と復活という救い主の道
多くの苦しみを受け、当時の聖書の専門家たちから捨てられ、殺され、3日目によみがえる。
これが救い主の運命だとイエスは語りました。救い主のイメージとは全く違います。私たちの想像する救い主とも全く違うと思います。
しかし、ここに神の深い計画があるのです。人は生まれながらにどこまでも自分勝手ですが、
イエスは人のために命を差し出す生き方があると模範を示します。
神に自分を差し出すなら、私たちは生きるというのは、本当に神の奇跡です。
- イエスの最後(出エジプト)について
旧約聖書をモーセ律法と預言書と表現することがあるのですが、モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表していて、
聖書の約束がイエスによって実現しようとしていることが暗示されています。
31節の「最後」という言葉は出エジプトを意味する言葉であり、イエスのエルサレムでの十字架の死が、新しい出エジプトだというのです。
エジプトの奴隷生活から救い出され、イスラエル民族は神の民として、この世界の光となる使命を受けました。
同じように、イエスを信じる人たちは神との関係を回復し、この世界の光となるように使命を受けるのです。
■一緒に考えてみましょう
・新しい年を迎えた私たちの内側にある燃える火に目を向けてみましょう。
私たちの内側に「聖なる憧れ」に至る声を聞くことはできるでしょうか。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章8-12節
居場所、ここに
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 羊飼いが神の民の代表
羊飼いたちが神の民を代表して、大きな喜びを聞き、赤ちゃんを見つけると告げられたのです。
つまり、最初のゲストとして、救い主の誕生を見てきなさいと羊飼いたちが、代表として選ばれたのです。
時の権力者が招かれたのではなく、夜、野宿をしながら羊の群れの世話をしている人たちが、最初のゲストに選ばれました。
見ず知らずの羊飼いが会いに行ける距離に、イエス様はいてくださいます。これが救い主と私たちとの距離感です。
- 恵みに感謝する
御使いの話した通り、羊飼いたちは救い主の誕生を目撃し、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。
この記録を読んで、ある言葉を思い出しました。
「神の本質が恵みであるとすれば、神の民である人間の本質は、私たちの感謝である。」神の恵みというのは身に余るようなプレゼントです。
私にはもったいなくて受け取れないような贈り物が神の恵み、本質だとするなら、神の民、神の子供として育てられる人間の本質は、
いただいた恵みに対する感謝だというのです。このような感謝の積み重ねが、神の子どもになっていくことだと私は思います。
- 教会が居場所の1つに
私は教会のコミュニティは可能性に満ちていると感じます。理想的な教会だとは言いません。簡単に解決できない問題もあります。
すぐに癒すことのできない傷もあります。それでも、常にイエス・キリストを中心にお招きし、忍耐強く一緒にいるながら、
ここで神の恵みを見せてくださいと祈るなら、その祈りは実現していくと心から信じています。なぜなら、それは神の願いと重なるからです。
ただし、神は人の気持ちを無視して、強引に物事を進めるのではなく神様は場所を作って待っています。行くかどうかを決めるのは私たち自身です。
■一緒に考えてみましょう
・この1年を振り返って、恵みを数えて感謝しましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2:1-7
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章67-69節
「でこぼこ」の恵みが伝わる
67 さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。
68「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、 しもべダビデの家に立てられた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 気まずさが表に出た後
ザカリヤは長年、祈ってきたけど、いざ、男の子が与えられると聞いて、すぐに神の約束を信じることはできませんでした。
神の前に正しい歩みをしていたザカリアでしたが、神の喜びの知らせを信じられませんでした。このような場面が罪の気まずさです。
人の罪や弱さが明らかになり、成熟や聖さに向かう中で、神はザカリヤを見捨てません。
この後、ザカリヤはエリサベツの妊娠を通して、神の約束が実現していくことを自分の人生の中で体験しました。
- 喜びは伝わっていく
エリサベツの悩み、苦しみを知っていました。どうすることもできないことでした。
そういう中で、神様がエリサベツに大きな憐れみをかけてくださったことは、周りの人にとっても大きな喜びとなりました。
信仰を持っている人たちが悩みつつ、苦しみつつも、神と共に誠実に生きる姿を通して、神の恵みは自然と伝わっていくと言えるかもしれません。
私たちは時間をかけて神への賛美に至ることをクリスマスを待ち望む時期に、思い出せたらと思っています。
- すでに何かが始まっている
すぐに信じられない場合でも、神は恵みを与え、エリサベツは妊娠し、無事に出産が守られ、ザカリヤは神の約束に従い、ヨハネと名付けました。
クリスマスの時期、神様の福音が伝わりますようにと祈ります。必死に福音を伝えなければと力むこともありますが、神の福音は伝わっていきます。
神はすでに動いていて、すでに何かが始まっています。神の働きに気づき、私たちも神のなさることに信頼し、興奮し、喜んでいるなら、
自然と「でこぼこ」の恵みは伝わっていくでしょう。
■一緒に考えてみましょう
・話せるようになったザカリヤが神を賛美したように、私たちの口から神への賛美が溢れてきた時はあるでしょうか。しばらく思い出してみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:マタイの福音書 1章18-19節
でこぼこのままいられる関係
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 不安が大きな恵みに
ヨセフは自分の無実を証明し、マリアを訴えることもできましたが、密かにマリアと別れ、周りからの誤解を甘んじて受けることにしました。
ヨセフというのはよくできた人でした。しかし、御使いが現れ、自分の想像とは全く違う形で、ヨセフは父親になるようにと神に呼ばれました。
御使いに言われた「イエスと名付けなさい」という意味は、救い主の父親として生きなさいという意味でした。
神から途方もない使命をヨセフはいただいたのです。
- 「恐れるな」「一緒にいる」という約束
マリアにもヨセフにも主の使いが語った言葉があります。「恐れるな」という言葉です。
神様から託され働きを始めようとするとき、不安や心配、恐れを感じるのは自然なことです。
「恐れるな」と言われる神は、神が蒔いた種の成長を確かに守り、豊かな実を結ばせてくださいます。
マタイは「インマヌエル」という神の古代の約束も思い起こさせてくれます。「神が私たちと共にいる」という意味です。
この神の言葉に信頼し、ヨセフは父となることを決断します。
- 気まずさのための安全な場所
「真実を愛する共同体は、罪の告白の気まずさ、赦しの気まずさ、癒しの気まずさのために安全な場所を作ります。
真実と告白が実践されているところでは、共同体は忠実さ、つまり、メンバーが自分の罪と弱さを明らかにし、
成熟と聖性に向かって進むときにお互いを見捨てないという保証を頼りとします。」クリスティーン・ポール『共同体の中で生きる』より
マリアとヨセフの離婚の危機は神様によってもたらされ、神様によって回復させられました。
気まずさを体験し、お互いを見捨てないことを彼らは深く知ったことでしょう。
■一緒に考えてみましょう
・私たちの生活を振り返って、どのような場面で「恐れるな」「一緒にいる」という神の約束を思い出すことができたらいいと感じますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章28-29節
自分のでこぼこを受け止める
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 御使いとマリアの温度差
この御使いの言葉は非常に重要です。
「マリア、喜んでください。あなたは神からの恵みを受ける人なんです。神様が特別にあなたと共にいてくださいます!」と御使いに言われたのです。
マリアはこの言葉にひどく戸惑ったと書いてあります。神の代理である御使いとマリアとの間に大きなギャップがあります。ここに注目したいと思います。
御使いはお祝いしたいと思っていますが、マリアはひどく戸惑っていましたし、恐ろしいと思っていました。
- 戸惑っても、会話を止めない
マリアの戸惑いは、人が聖書の神と出会う場面を非常にわかりやすく伝えています。
神は恵みを与えようとしても、受け取る側の人間はすぐに喜ぶことはできないのです。
しかし、御使いはここで諦めません。言葉を続けます。マリアは耳を傾けました。自分の疑問を率直に伝えるなど、会話を続けました。
御使いが語ったことの全てを、マリアは正確に理解したかどうかはわかりませんが、
マリアは「神様に仕えるしもべです。神の計画が実現するように」と祈りました。
- 神の目で自分を見つめ直す
実は人は自分の力だけでは、自分のでこぼこを受け止めることはできません。
できたと思っても、私たちの受け止め方は歪んでいたり、偏っていたりします。神の目で、自分を受け止める。
これが聖書の知恵なのです。自分の評価ではなく、神の評価、神が私をどう見ているかという視点で、自分のでこぼこを見直すと、
今までは気づかなかった、神の恵みが自分にも注がれていることを発見できると聖書は約束しています。
最初は戸惑っても、神のことばに耳を傾け続けることを止めないでください。あなたは神の大切な息子であり、娘なのです。
■一緒に考えてみましょう
・神の目で、改めて自分を見つめ直したら、どのように神の目に自分が映っているか想像してみましょう。
ルカの福音書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 9章17節
神に養われる生き方
17 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の代理人として遣わされる12弟子
12人の弟子はイエスの代理人として、神の支配を宣べ伝えることと、病気を治すことの二つの仕事が与えられました。
悪霊をコントロールし、病気を癒す力によって、神がここを文字通り治めていること、支配していること、
神の優しい手の中にあることを示す証拠となるのです。
この旅を通して、神の支配がここにあることを伝え、イエスに託された権威と力を使うことで、
身に余るほどの感謝を受けたことでしょうし、拒絶されることも多くあったことでしょう。
- 「旅には何も持って行かないように」
この意味は、神に頼って旅に出なさいというメッセージです。
神の働きを託されている人は、神から託された力と権威によって、人々を癒し、助けることができるから、
神から恵みを受け取った人たちから、必要なものを受け取る。これがイエスの言いたいことです。
ある町に行ったら、一つの家に入り、そこに留まるというのは、自分の環境を整えることに心が奪われ、神の使命が覆われてしまわないようにとのことです。究極的な養いは神にあることを学ぶ旅です。
- 宣教の特等席で感動してほしい
この人たちを帰しましょうと言う弟子たちの指摘は真っ当に思えます。
弟子たちには群衆を助ける食糧はないのです。しかし、イエスの代理人として与えられた立場があれば話は別です。
どれほど荒れ果てた場所であろうと、物が不足していようと、神様がもてなしたい人を、神様の恵みによって、弟子たちがもてなすことができるのです。
実際、弟子たちが配り、弟子たちが人々の満足している姿を一番近くで見るのです。
イエス様は一緒に奉仕する人を探しています。
人手不足だからではありません。宣教の特等席で一緒に感動してほしいのです。
■一緒に考えてみましょう
・今の時代、私たちはどのような時に、神の国(神の力強くも、優しい手で守られている)を感じるでしょうか。
・宣教の特等席への招待を受けているとしたら、自分の率直な気持ちはどうでしょうか。
説教者:荒木 泉 宣教師
聖 書:エペソ人への手紙2章8-10節
恵みによって備えられた人生を歩む
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 8 章 44 節
勇気を出して頼ってみる
44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 神に見放された人はいない
イエスに促され、震えながらも彼女は正直に自分の身に起こったことを全て話しました。
彼女は神から見放された人のように 12 年間も扱われてきた人ですが、イエスから見たら、神から見放された人など、誰もいないのです。
「安心」とはヘブル語のシャローム、神からの平和、平安です。イエスは女性の信仰を認め、神との平和を保証しました。
彼女の体だけでなく心も癒されたことでしょう。大胆に、勇気を出して神に頼る人を神はきちんと受け止めてくださいます。
2. 信仰が問われるヤイロ
娘が死んだと報告を受けたヤイロにイエスは「恐れないで信じなさい」と言われます。
もしここで諦めたらイエスは家に行かなかったでしょう。ヤイロは必死に恐れないで信じようとイエスにしがみついたのです。
家に着いたら、イエスのすることを親族はあざ笑いました。ここでも、ヤイロはイエスを信じるか問われるのです。
イエスの約束、イエスの行動を信じることは周りの人々から笑われるようなことにもなります。
それでも信じるかと問われます。
3. イエスは汚れを避けない
当時、聖さを保ことは社会の中で最も大事なことでした。神と人を愛することより、自分が汚れないことが優先される社会でした。
出血している女性と死体というのは最も汚れたものの代表的なものです。誰も触りたくない、避けたい、線を引きたいと思うことなのです。
しかし、イエスは女性がイエスに触ることを許しましたし、死体に触れて「子よ、起きなさい」と命じられました。
イエスは私たちの汚れに触れることを嫌がりません。これが十字架の罪の赦しにつながります。
イエスは私たちの汚れを表に出し、そして洗い流してくださるのです。
■一緒に考えてみましょう
・今、大胆に神にしがみつきなさいと促されているように感じることはあるでしょうか。振り返ってみましょう。
・イエスは私たちの汚れを避けることはありません。むしろ、汚れに触れて、聖めてくださいます。
神の赦しは私たちの間で共有する価値観になっているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 8章24節
絶体絶命からの救出
24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。
イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 人生の嵐の中で
古代世界では、海や湖は悪魔の支配を象徴する場所であり、終末には神に滅ぼされると言われる場所というイメージがあります。
もう1つ、眠ることは神の守りの象徴です。イエスは海・湖の真ん中にいても、神に守られ、支配されていることをよく理解していました。
慌てふためいている弟子とイエスは対照的です。イエスの弟子も、人生の嵐に巻き込まれます。
私たちにはもう限界に見えても、そこから救い出してくださるのが私たちの神なのです。
- イエスの支配の中にいる
「レギオン」というのは、名前というか、数千人の兵士の一団を指す軍隊の言葉だそうです。
ルカが説明しているように、1つの悪霊が彼を縛っていたのではなく、文字通り、大勢、数千規模の悪霊が彼のところに入っていたのです。
数千規模の悪霊との戦いは壮絶なものだったでしょうが、嵐の場面と同様にイエスの前では大したことではないかのように、
イエスがこの状況を支配していることが描かれています。32節には「許す」という動詞が二度出て、イエスが完全に支配していることを強調しています。
- 代理人に選ばれた人
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」(39節)とイエスは悪霊につかれた人に使命を託します。
普通は服を着ないで、墓に住んでいたような人を、自分の代理人にしないかもしれません。これがイエスらしい人選なのです。
私たちも神のしたことを語ることができます。イエスを前にして、ある者は近づき、ある者は距離を置いたように、
全ての人が私たちを歓迎することはありません。それでも、現代における神の物語を語る務めを託されているのです。
■一緒に考えてみましょう
・「神があなたにしてくださったこと」の中から印象に残っている話を聞かせてください。
・イエスに支配されていることを確信したい領域があったら、一緒に祈りましょう。
ルカの福音書講解
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:ガラテヤ人への手紙6章1節~2節
柔和な心で生きる
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「柔和」という言葉から直ぐに思い出す聖書箇所がありますね。
マタイ5章5節「 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
「柔和な人」別訳では「へりくだった人」とあり、その人は土地を受け継ぐような豊かさを得る、ということでしょう。
この言葉は詩編との関連で語られているようです。
詩編37節11節 しかし、柔和な人は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。
マタイの福音者11章28節~29節では、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。
柔和な心で生きるのは、豊かさを受け継ぐ秘訣であり、キリストの様な他の人を生かす生き方だと教えられますね。
ですので、柔和ということは、謙遜とかへりくだる、ということですが、
それは決して弱々しいとか、力が弱いということではないと思います。豊かな生き方です。
- 柔和かどうかはどうしたらわかるのか?
皆さんは自分は柔和な人だと思っていますか?
自分は柔和な、穏やかな人だと思っていいても、ちょっとしたことでムっとしたり、表には出なくても心の中で怒りが出たりするのは柔和とは言えなのでしょう。
柔和とは、自分一人でいる静かな時に、自分は柔和な心でいられると言うことではなく、他者とのかかわりの中で、人との関係の中で柔和さというものが分かるのだ、とある方が書かれています。
「柔和」ということは、他者とのかかわりの中であらわになるので、ガラテヤ書で「柔和な心で正してあげる」。
そして、互いに重荷を負い合うという関係性の中で柔和に生きるようにと勧められています。
- 「炊き出しの列に並ぶイエス」のスライドを見る
「作者のアイへンバーグさんは、芸術家の鋭い眼で、いったい神さまはどちらの側にいるんだろう、
炊き出しをする側なのか、それともそれを受ける側か、ということを考え、そして表現しています。
普通ならボランティアする側、助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいておられる、とイメージしてしまう。
しかし、彼は『そうではない。神さまはむしろ、手助けを必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩たちと共に立っておられるんだ』と見抜いたのです」(「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に」本田哲郎著 岩波書店)
他者の中にそれも疲れた人、重荷を負っている人、弱く小さいと思われている方々に寄り添っておられるイエスを見出し、
そのイエスの生き方に倣おうとすることが柔和な心で生きるということにつながる様に教えられています。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 8章11節
神のことばは「種」
このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 女性に光を当てるルカ
他の福音書記者がずっと後まで言及しない女性たちが登場します。
実際、彼女たちは十字架を見守り、埋葬の手助けをし、墓に一番乗りしました。
イエスの旅は、女性たちのサポートがあったという面をルカは明らかにします。
イエスの前では、当時あった、人種の壁もなければ男女の壁、職業の壁もなく、文字通り、イエスが出会うあらゆる人に福音を伝えていたことがわかります。元々は全然違う生活をしていても、一緒にいてイエスに仕え続けたのです。
- どのような土になるか
この4つの土のたとえによって、自分はどのように神のことばに反応する人生を歩んでいるのか、歩みたいか、祈るように促されています。
これは一回の決断というより、人生をかけて、どのように神の言葉に応答するかということなのです。
信じてすぐに悪魔が信仰を取り去ることもあれば、試練のときに身を引いてしまうこともあります。
思い煩いや、お金、快楽で遮られてしまう日があったとしても、神のことばにしがみつき、実を結ぶ生き方がここにあります。
- 「聞く耳のある者は聞きなさい」
イエスは家族を否定しているのではなく、弟子たちがみことばを受け入れることを励ましていると言われます。
イエスにとっての家族とは、みことばに応答する人なのです。神の言葉を聞いて行うなら、実を結ぶだけでなく、イエスの母、兄弟、姉妹になります。
明かりを付けるのは、光を隠すためではなく、部屋にいる人が見えるようにするためです(16節)。
光は神様を表します。光があるのに隠したりしないように、神のことばの種が蒔かれたのは実を結ぶためです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」「聞き方に注意しなさい」と言われています。
■一緒に考えてみましょう
・「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われているということからわかるように、これは運命論ではありません。
どの土に落ちたかを決めるのは神であるという意味でこの話は語られていません。私たちの「聞き方」を振り返りなさいと言われているのです。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 7章50節
人生を変える「ゆるし」
50 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 赦された女性の精一杯の奉仕
罪深い女性にも常識はあります。このような場面で出ていくことは一般的な行動ではないことは彼女もわかっていました。
それでも、罪が赦された感謝を彼女は自分の精一杯の行動でイエス様に伝えたかったのです。
イエスもまた、周りの人から変な目で見られるリスクを負いつつ、彼女からの奉仕を受け取りました。
彼女もイエスも、周りに流されず、勇気ある決断をしました。ただ、パリサイ人シモンは先入観から、この状況を理解できなかったのです。
- 安心して行きなさい
「安心して行きなさい。」この言葉を今日、私たちは心に留めましょう。
私たちの過去は変えられません。しかし、神はその負債を免除すると言われます。
あなたの信仰があなたを救ったのです。神が免除するというのだから、誰があなたを責めるのか。
周りの人からはあなたを歓迎しないかもしれないけど、神はあなたを歓迎する。
あなたは神に喜んで迎えられている。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。
- 「どう始める、伝道」
この良い知らせを伝えなさいと使命を受けています。今いる場所でお互いを歓迎し合うように招かれています。
わかっています。歓迎するのは簡単なことではありません。教会の中でも、失敗することもあるでしょう。
しかし、あきらめずに、チャレンジし続けたいのです。私たちは誰もが神に赦され、愛され、歓迎されているのです。
イエス様はパリサイ人シモンの家にゲストとして行きました。彼もまた神に招かれているからです。
人生を変える神様からの圧倒的な赦し、温かい歓迎を私たちが受け止め、歓迎を表す人にさせていただきたいと願います。
■一緒に考えてみましょう
・今の私が神様に託されている第一歩は何でしょうか?私の内側から自然と湧き上がってくる行動は何でしょうか?
神様は私にどこに目を向けるように促しているでしょうか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 7章34節
大酒飲みとディスられたのは誰
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 自分の期待と違う
バプテスマのヨハネと言えば、ルカの福音書でイエスよりも先に登場した特別な使命を受けた人物ですが、
牢屋の中のヨハネは、自分の確信が揺らいでいました。イエスこそ救い主だと考えていましたが、
イエスはヨハネが期待していたようなことをしていないのです。
バプテスマのヨハネのような特別な使命を託された人でも、神のなさることと自分の想定していることとの間に、開きがありました。
神の計画を理解しているつもりでも、私たちには理解できないことがこの世界には起こります。
- 神の計画の本質を問い続けたい
当時、多くの人たちが理解していた、また期待していた救い主というのはローマ帝国の支配から解放してくれるという救い主でした。
それも聖書の一部に基づいた理解でしたが、神の救いの計画はもっと根本的なことから刷新するものでした。
神の支配の中に、祝福に値しないと思っている人たちを含めて、全ての人が招かれる。これが神の計画なのです。
ヨハネでさえ、イエスの働きの本質を理解することに苦労しました。
私たちも、神の働きの本質を理解するのに苦労したとしてもそれは不思議ではありません。
期待と違っても、問い続けたいのです。
- 共通している点としていない点
ヨハネとイエスの働きで共通していた点は、罪人とみなされる人を招き、彼らは罪を認め、神に立ち返りました。
自分はすでに神を十分に理解していると考えている宗教家たちの多くはヨハネとイエスを拒み、批判を受けました。
批判の内容は正反対です。バプテスマのヨハネは禁欲主義で、イエスは罪人と一緒に食事をするので大食いだの大酒飲みだのと悪口を言われます。
ヨハネとイエスは全然タイプが違いますが、それぞれの方法で人々を神に導くのです。
■一緒に考えてみましょう
・自分の期待とは異なる答えが神様から返ってきたと思うような出来事は思い浮かぶでしょうか。
そこから神の本質について学ぶことはあったでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 7章13節
もう泣かないで
主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 人生のどん底の女性に声をかける
夫に先立たれてしまった女性が、一人息子も亡くしてしまった。かける言葉がありません。
このような人生のどん底とも言える状況にいる母親を見て、イエスは深く憐れんだと書いてあります。
内臓がぎゅーっと締めつけられるという言葉です。私たちが「かける言葉が見つからない」と思うような場面を前に、
イエス様もまた、この状況を見て、誰よりも心を痛めたのです。そして、声をかけます。
「泣かなくてもよい」もう泣かないでと言うのです。
- 信仰はどこに
信仰はどこにあったのでしょうか。百人隊長のしもべは百人隊長の信仰によって癒されましたが、
この出来事では、誰が信仰を持っていたのでしょうか。それはイエスご自身です。
イエスは信仰が人々のうちに育っていくのを喜びますが、今回は、誰かの信仰がイエスを動かしたというよりも、
この母親の状況によってイエスの内側が動かされたのです。
イエスはあえて棺に触ります。イエスは自分が汚れる可能性があっても気にしません。
イエスの十字架はこの世界のすべての汚れを洗い清めてくださいます。
- イエスに触れてほしいところはありますか
イエス・キリストは無防備な、傷つきやすい人を招きます。
夫に先立たれ、一人息子をも失ってしまった、あのお母さんのような人が、イエスの愛を見つけることができました。
神の愛が届かないところはありません。イエスがあのお母さんを見て、居ても立っても居られなくなり、
手を伸ばし、泣かなくていいよと言われたように、イエスは私たちの現実の最も暗い部分に光を当てて、
手を伸ばし、もう泣かないでと言われ、汚れをイエスがすべて引き受けてくださり、私たちは癒されるのです。
■一緒に考えてみましょう
・イエスに触れてほしいところはあるでしょうか。ゆっくり振り返ってみましょう。
触れてほしいところに気づいたら、イエスに触れてくださいと祈りましょう。
ルカの福音書講解
説教者:片山信彦 兄
聖 書:ゼカリヤ書14章6節~7節
夕暮れ時に光あり
6 その日には、
光も、寒さも、霜もなくなる。
7 これはただ一つの日であり、
その日は主に知られている。
昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. ゼカリヤ書1章1節:「ダレイオスの第二年、第8の月」に預言者ゼカリヤに主のことばがあった。とあり、これは紀元前520年になります。
これはイスラエルの民がバビロン捕囚から帰還して、破壊された神殿の再建を行い、修復が完成したのが紀元前515年ですから、
神殿再建が進み完成したころに語られた預言であったと思われます。
神殿再建が進む中でイスラエルの人々は新しい時代が来て、辛かった過去から解放されて祝福が来るだろう、と希望を持ちました。
しかし、神殿再建後でもイスラエルの国の事態は混乱が続いて好転せず、人々が期待した良い結果は出なかったようです。
その様な中、ゼカリヤは、神様の変わることない真実と約束の確かさを語り続けて人々を励ましますが、
人々はなかなか耳を傾けないで不平不満の中にいました。それでも未来への希望を持ち続けるように語っているのがゼカリヤ書です。
2. 当時のイスラエルの状況は今日の日本や世界の状況と似ているところがあるようにも思えます。
ロシアによるウクライナ侵攻の結果、世界は戦争の危機に直面していますし、その他の国でも紛争があり、難問の問題は深刻です。
また、新型コロナの発生で社会は混乱していますし、経済も落ち込んでいます。異常気候の中で地球がどうなっているのだろうかとの不安も感じます。
クリスチャンである私たちも信仰が揺さぶられたり、生活が不安になってしまうことがあるかもしれません。
身体や心の弱さを覚えたり、仕事や家族のことでストレスが溜まることもあるでしょう。
クリスチャンであれば、信仰を守り、神殿ではないけれど教会を支え、奉仕もしているけれど、時として不安や不満に襲われることがあるかと思います。
3. だからこそ、ゼカリヤがイスラエルの民に勧めたように、日々の生活で困難の中にあっても神様と共に歩み、
心をこめて神様を礼拝し、毎日の生活を神様に喜ばれるように過ごし、神様の真実を信じて希望をもって歩むことが大切ではないかと教えられます。
そうするならば、それは光り輝くような生活につながるのではないかと思うからです。
昼の明るさだけではなく、夜であっても明るく輝く生活であり、夕暮れ時の暗くなって行くような時であっても光り輝く状態です。
4.このことは、私たち一人ひとりの一生を考えた時にも言えることです。私たちは自分の人生の始まりと終わりを自分で決めることは出来ません。
その意味では、私たちは生かされている存在です。今生かされている存在として、自分の人生のいつの時でも神様が共におられるならば、光り輝く存在と言ってよいと思います。お年を取られた方も大切な光り輝く存在です。身体的には弱って行き、認知症、身体の各部分の衰えを感じ、人生の最期に向かって精神的に不安が出てもきます。やりたいことができない、昔できたことができない、今何をしたかったのかさえもわからなくなる時もあります。
でも、人としての価値、存在は変わらないということです。何かができる、出来ないという貢献度というか、社会的な価値は変わるのかもしれませんが、
人生の夕暮れ時と思えるときでさえ、輝く存在です。たとえ肉体が衰え、思考能力が落ちても大切な存在であることに変わりはないのです。
神様がおられる人生は夕暮れ時でも、光り輝くところになる、と理解しても良いのではないでしょうか。
5.キングス・ガーデン東京はこのような理解に立って、高齢者のための働きを行っています。
キングス・ガーデンはそこを利用する方々は光り輝く存在で、その輝く光りに満ちた場所になりたいと願って設立されました。
神のおられる庭、まさに、キングス・ガーデンの由来です。高齢者ご自身が光を持っておられ、尊厳があり、輝く存在である。
その光を輝かせていただき、その光を職員も受けて、教えられつつ、働かせていただいています。
6.「夕暮れ時に光あり」 皆様の上に神様の祝福があり、光り輝く歩みになりますようお祈りいたします。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 7章9節
国の壁を越える
9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。
「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 恵みを受けるに「ふさわしい」とは
長老たちは「資格のある人」だと言いましたが、百人隊長自身の考え方は違いました。
自分はふさわしくはない人間だと説明します。ユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる会堂を建てることは、共同体の中で確かに名誉なことでした。
しかし、百人隊長はイエスの前にそのような名誉に訴えることをやめ、ふさわしくない人として、貧しい人としてイエスに助けを求めるのです。
信仰とは、自分がイエスの助けを受ける価値がしないと知りつつ、イエスの助けを心から求めることだと、ルカは描いています。
- イエスの言葉に権威がある
百人隊長は、権威についてよく知っています。イエスの言葉には権威があることを心から信じていると告白しました。
イエスの言葉に権威がある。このような権威について考えてみると、神の言った言葉はむなしく神様のところに戻ることはなく、
約束したことを成し遂げるということを思い出します。ただの気休めではなく、本当に言えば、その通りになる。
軍隊の中で、権威者の言葉が重たいように、それ以上イエスの言葉には権威と力があると百人隊長は信じ、告白しているのです。
イエスはこの百人隊長の信仰に驚かれるのです。
- 貧しさの自覚
誰も本来は「私は神の恵みを受けるにふさわしい」ということはできないはずです。
しかし、パリサイ派や律法学者のように、ルールを守ために一生懸命生き、周りに評価されると、勘違いすることになります。
私は病人で助けが必要だと感じている人に神は恵みを与えるのです。
恵みを受けるに相応しくないと知りつつ、それでも、私を祝福してくださいと願う人を、神は見捨てることはありません。
異邦人というだけで祝福の端に置かれる時代は終わったのです。
■一緒に考えてみましょう
・「私は神の恵みを受けるにふさわしい」と思う瞬間は、誰もがあると思います。
そのような後、どのようにして天の価値観に立ち返ることができるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 6章20節
イエスの教え一気読み
20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。
「貧しい人たちは幸いです。 神の国はあなたがたのものだからです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 貧しい人たちへの祝福
この世界で昔から安心を与えてくれるのがお金であり、食べ物であり、人からの評価です。
これらのものは、神を覆い隠すことが多いのです。悪魔がイエスを誘惑したように、これらがあれば大丈夫と思って、神から離れてしまうことが多いのです。また、弟子としての生活がここに対比されているとも言えます。
イエスの弟子として生きるなら、旧約聖書の預言者たちがそうだったように、人々から罵られ、憎まれる道は避けられません。
耳障りのいい言葉を語った偽預言者のような生き方と、私たちはどちらを求めていますか。
- あなたがたの敵を愛しなさい
こう言えるのは、すでに神の愛を知っている人だからです。
あなたには今日も神の愛が溢れるほどに注がれているからこそ、あなたが神に愛されたように、
この地上であなたは神の愛を証しなさいと言うことができます。
イエスがそうであるように、福音を分かち合えば、迫害は避けられません。
それでも、あなたは語り続けなさい。妨害されて、そこで止めてはいけません。
あなたの父の憐れみがあなたを通してこの地上で映し出されるようにするのです。
- 聞いて、実行する人・しない人
あなたは「主よ、主よ」と呼びながら、実行しない人ですか。それとも、あなたはイエスの言うことを行いますか。
時間のかかる道です。それだけの価値のある道です。内側と向き合い、神からいただいた愛を、この世界に映し出すという尊い務めに挑戦しませんか。
その先には迫害があるかもしれませんが、一時的な幸せではなく、永遠に続く幸せに至る道です。
あなたはどのような家を建てていますか。
■一緒に考えてみましょう
・平地の説教を一気読みして、どの部分が特に心に留まったでしょうか。これは神の愛によって人生が変えられた弟子に向けて書かれたものです。
宣教は神の愛が常に先に立っていることを心に留めましょう。そして私たちは皆、弟子の一人として神の宣教に招かれています。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 6章7節
盲信せず、意図を考える
7 律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。
彼を訴える口実を見つけるためであった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 律法の精神を理解する
聖書では、安息日を聖なるものとするように命じられています。
律法を破らないように、ルールを作り実践するのがパリサイ人・律法学者です。イエスは律法を遵守し、律法の意図を誰よりも理解していました。
ルールを守ることは大切ですが、例外も聖書に書いてあります。神に選ばれて王となるダビデの行動がその一つでした。
ダビデが緊急事態の時、例外的な行動を許しました。目の前に困っている人がいたら、助けるために行動すべきなのです。
- 熱心さが真実を隠すことも
パリサイ人たちは、律法を守ることにしか興味がなく、癒しを必要としている人に最後まで心が向きませんでした。
怒りは真実を隠し、神を見えなくすることがあります。私たちも怒りによって、神の働きを見失ってしまっていることがないでしょうか。
パリサイ派や律法学者たちは熱心でしたが、イエスの新しさを受け止める余白はありませんでした。
感情的になり、イエスと対立していきます。私たちは誰でも人間ですから、間違えることはあります。
ですから、自分の熱心さについて、神の前にひれ伏し、毎週、問い続けたいと思います。
- 多様性の主にある選び
多様性に富んだ12人が選ばれました。漁師たちに、ローマのため働いていた取税人、反対にローマを力で倒そうと活動していたのが熱心党員。
名前を見ても、旧約聖書の時代から出てくるヤコブのような伝統的な名前の人もいれば、ピリポはギリシャ語の名前です。
職業も、育った環境も、バラバラですがイエスに従ってきた人たちです。きっとすれ違いは日常の風景だったと思います。
練馬バプテスト教会も同じように神様によって呼ばれたでこぼこな人たちが一緒に歩けますように。
■一緒に考えてみましょう
・神のルールは私たちの必要を満たし、イキイキさせてくれるものです。
現実には、パリサイ派の考え方のように、人を縛りつけようとする面もあるでしょう。
今日は、どのような面に目を向けるように主に促されているでしょうか。祈り、分かち合いましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 5章31-32節
救いようがないと思われても
31 そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。
32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 街の中にいても孤独
取税人という職業は、ユダヤの社会では、軽蔑されていました。しかし、いつもと違う目で見る人がいました。イエスです。
イエスはレビに目を留めて、「わたしについて来なさい」と招かれました。
先週、ツァラアトという病気の話をしました。この病気になると人として扱われなくなり、街の外に追い出されました。
取税人は街の中にいましたが、軽蔑され、孤独でした。イエスは救いようがないと思われる人を今日も、神の国に招くのです。
- 医者を必要としていると気づくか
健康な人は、パリサイ人のような人です。医者を必要としていると思ってないので、イエスは癒すことができません。
一方、病人は、取税人レビのような人です。「悔い改め」は重要な言葉で、心の変化、神への方向転換を意味します。
自分が「病気」であることを正直に認めるなら、赦しと神の恵みを見出すことができるのです。
イエスは罪人と呼ばれる人と一緒に食事をすることを通して、神の国の外にいると思われている人たちに奉仕されるのです。
- イエスの新しさを受け止める余白
取税人のように救いようがないと思われる人が招かれる。この新しさが私たちの常識になっていきますように。
この新しさを受け止める余白を持てるように祈りたいと思います。
パリサイ人のように「古い物が良い」と言いたくなることは私たちには必ずあると思います。
自分の常識に縛られ、信仰の目が曇り、イエスが言うところの、古いものにしがみつくことがありませんように。
私たちは罪人であり、欠けたところがあります。主の前に弱さもそのまま差し出し、従う時、欠けたところから神の恵みが溢れてくるのです。
■一緒に考えてみましょう
・パリサイ派のように「古い物が良い」と言っている部分に神様が光を当てようとしているとしたら、それはどのような部分でしょうか。
イエスがそこをどのように新たにしようとしているでしょうか。古いこだわりを手放せるようにお互いのために祈りましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 5章12節
本当に困ったら、どうしますか?
さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。
その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。
「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ツァラアトという恐ろしい病気
ツァラアトは様々な種類の重い皮膚の病気であり、服や家にまで広がっていくものでした。
強制的に町から追い出されました。ツァラアトに冒されたら、もう人として扱われなくなり、社会から断絶されてしまうのです。
さらに、当時は、罪に対する神からの罰と考えられていたので、神からも見放された人とされました。
当時、この病気を治すことは不可能で、死者を蘇らせることのようだと言われていました。
それでも、彼はイエスならできると、信じ、お願いしたのです。これが彼の信仰でした。
- 癒せない病気を癒し、社会に戻す
イエスは手を伸ばして、触れました。汚れている人に触れたら自分が汚れてしまうので、誰も近づきませんでした。
イエスは違いました。あえて、その人に触れ、誰も癒せないと考えられていた病気を癒すのです。
このように社会から断絶されていた人が神の恵みによって、癒やされ、社会の中に戻される。
これがイエスの提示する救いであり、このように神の国が広がっていくのです。
神の国の外側にいると思われていた人がイエスによっているべき場所に戻ってくるのです。これを聖書では罪の赦しと呼ぶのです。
- 罪を赦す権威を託されていると主張するイエス
イエスが友人たちの信仰を見て、麻痺した人に「あなたの罪は赦された」と声をかけます。
神によって赦されたとイエスが保証したということです。
病気と罪が密接に結びついていた時代、イエスは麻痺で動けない人を癒すことで、地上で罪を赦す権威を持っていることを明らかにしました。
もちろん疑う人もいました。いずれにしても、聖書はイエスを中途半端な位置には置きません。
本物の救い主なのか、偽物なのか、どちらかなのです。
■一緒に考えてみましょう
・私たちの周りにいる「ツァラアト」の人とはどういう人が思い浮かぶでしょうか。そのような人のところにイエスは出て行かれました。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 5章8節
得意分野で行き詰まったら
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。
「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 全面的に賛成できなくても、やってみる
5節のシモン・ペテロに注目しましょう。まず自分の気持ちや考え方を正直に伝えます。
漁師の経験から言って、難しいと思います、と。でも、おことばですのでやってみます!とイエスに言われた通りにトライしてみる。
神のなさろうとすることは、大体私たちの現実的な範囲を超えていることばかりです。
ですから、私たちの第一印象としては、神様からの提案に、全面的に賛成することは難しいことが多いものです。
「でも、やってみます!」とイエスの通りに行動に移す。これが神に従うことなのです。
- 自分の小ささに気づくことから始まる
当時、罪人とは、神から遠く離れていて神の恩恵を受ける資格がない人だと考えられていました。
ですから、ペテロは罪深い私から離れてくださいとイエスに語ったのです。
しかし、罪人こそ、神からの恵みが必要なのです。
イエスが弟子として招くのは、自分は神の働きをする価値がありますという人ではなく、自分の罪深さを自覚している人なのです。
神の前で圧倒的に自分が小さい存在だと気づいている人こそ、神の国の奉仕に相応しいのです。
- どういう人が弟子に招かれるのか
イエスの弟子としてどういう人が招かれるでしょうか。欠点のない人が求められるのではありません。
いつでも、私たちは自分の足りなさ、欠けを持ったまま、ただ恵みによって招かれるのです。
そして、神の恵みが私たちの信仰を育て、生き方を決定的に変えていきます。
これが神の国の原理原則です。私の足りなさや弱さをそのまま神の前に差し出すことができるでしょうか。
このような正直な献身こそ、私たちの信仰の表明であり、神への信頼なのです。
このようにして従う人を、神はいつの時代も待ち望んでおられます。
■一緒に考えてみましょう
・常識とは反して昼間に漁をして多くの魚が捕れたように、神を信じたことで、私たちの予想とは違う結果を目にした経験はあるでしょうか。
・自分の足りなさや弱さを神の前に差し出すとしたら、今日の私は何を献げるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 4章36節
人生が変わる体験
36 人々はみな驚いて、互いに言った。
「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 悪霊から解放するイエス
悪霊につかれるという場面自体は正直私たちの感覚とかけ離れているかもしれません。
しかし、イエスがもたらす神の国について、目に見える形で示されています。
悪霊につかれた人は、もうどうすることもできない状況に追いやられてしまっている人です。
イエスは悪霊を追い出すことにより、神が確かに働いておられることをカペナウムの人々は目の当たりにし、驚くのです。
神が働かれるのを間近で見て、驚く。まずはここから今日も始めたいと思います。
- イエスの使命とは
「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(43節)とイエスは語ります。
神の国という言葉は神の支配や統治というニュアンスがあります。神ご自身がここで具体的に行動している。
その現実を伝え、具体的に示すのです。神の国の福音を宣べ伝えることこそ、イエスが命をかけて、成し遂げるべき使命です。
堕落した世界に神の秩序をもたらす。そのために神に遣わされたとイエスは言われます。
- イエスのように遣わされている
2000年経った私たちの生活もまさに戦いの最前線と言えるでしょう。
悪霊につかれた人がいても、いなくても、正しいことが正しく行われることは決して簡単なことではなく、神の支配など誰も信じていないかもしれません。
そういう中に、私たちは遣わされているのです。神ご自身はこの日本でも具体的に行動しています。
イエスがなさったように堂々と私たちができるとは思えませんが、弱く貧しいからこそ神に頼ることを信じ、
神の言葉を語り、神の働きを示す尊い働きをしようと私たちも招かれています。神の恵みによって、人生が変わる体験へ。
■一緒に考えてみましょう
・今、ここで働いていることを目撃し驚いた人々と自分を重ねることはできるでしょうか。どのようなことに今、私たちは目を向けたらいいでしょうか。
・それぞれ遣わされている、決して簡単ではない現実を分かち合い、祈り合いましょう。
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:使徒の働き 11章25節~26節
“キリスト者“誕生の逸話
25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。
弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 本日の聖書箇所は、このアンティオキアで、初めて信者がキリスト者と呼ばれたと書かれています。
本日は「”キリスト者“誕生の逸話」と題して、少し想像力を働かせてこの背景を見てみたいと思います。
そして、そこには、人生における“たまたま”と言える出来事があったことを再発見したいと思います。
- マルコ15:21~ ここにイエスの十字架を背負わされたクレネ人シモンという人物が出てきます。
クレネ人はアフリカ東部の出身者だと言われています。つまりユダヤ人ではなく異邦人です。
それなのに彼の出身地とアレクサンドロとルフォスという二人の息子の名前まで聖書に記されています。
このシモンは、たまたまイエスが十字架に至る所に通りかかったのですが、この“たまたま”が彼の人生だけでなく、
後の“キリスト者”誕生に大きな影響を及ぼすことになったのです。
十字架を背負わされたシモンとその家族について、ローマ16:13では、シモンの息子ルフォスの母親、つまりシモンの妻をパウロは、「私の母」と呼んでいます。それほどシモン一家がパウロと親しい関係にあったことが想像できますが、なぜパウロはルフォスの母を「私の母」と呼ぶほどに親しかったのでしょうか。
- 使徒11:19~20 クレネ人の信者はエルサレムから迫害を逃れてアンティオキアに逃げたようです。
シモン一家も信仰が与えられて、このクレネ人信者の中にいたのだと思われます。
アンティオキアは当時のローマ帝国第三の都市と呼ばれるほど繁栄していた都市でしたからアンティオキアの様な大きな都市にいれば目立たない、と考えて逃れたのかもしれません。
そのアンティオキアにパウロがバルナバによって連れられてきて、一年以上滞在しました。
一年以上滞在したパウロの泊る所や炊事洗濯など日常生活の世話をしたのがシモン一家だったのではないでしょうか。
シモン一家は家族ぐるみでパウロの生活の助けをしたので、パウロは「私の母」と呼んだのではないか、と想像できます。 - パウロはこのシモン一家に支えらえたので一年間アンティオキアに滞在でき、
人々に福音を伝えることができたので信者たちが“キリスト者”と呼ばれるようになったのです。
“キリスト者”誕生の陰には誠実に伝道者パウロを支えた一家の存在があったのです。
たまたまシモンが通りかかり、無理矢理に十字架を背負わされたことから、シモン一家が“キリスト者”誕生の立役者になったと言っても良いでしょう。シモン一家は直接伝道の働きをしたのではないかもしれませんが、この一家がパウロを支えたことでこのアンティオキアからパウロの伝道旅行が始まり、キリスト教がローマ世界に広がる出発点ともなります。
シモン一家はパウロの様にキリスト教の歴史の表舞台には出てこないけれど、陰で支えたに違いない人たちです。
それが、シモン当人にとってはたまたまと思えることが出発点でした。
でもそこに神様の計画があるのではないかと思わされますね。 - 皆さんが練馬教会に集うようになったのも、“たまたま”と思えることがきっかけだったかもしれませんね。
人生の不思議です。シモンの様に、“たまたま”がきっかけで思いもかけない人生に踏み出すことも有るのではないでしょうか。
たまたまの出会いによって後に良いことが起きるかも知れませんし、困難にぶつかるようなことがあるかもしれません。
でもそのたまたまの出来事、出会いに真摯に向き合い、誠実に生きる時に神様の計画の中でその人に相応しい歩みができる。
神の計画の中に生きることができるのではないかと思います。
日々の生活の中で、“たまたま”を大切に、たまたまの基にある神様の計画を信頼して生きていきたい、とシモンの歩みから教えられるのです。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 4章18-19節
救い主のマニフェスト
18 「主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イザヤ61:1はイエスのマニフェスト
イエスを通して語られる神の福音、良い知らせ。それは全ての人は神に招かれているという知らせです。
貧しい人とは、お金がない、友達がいない、価値がないと思われている、大事にされていない気がする。
そういう人のために、神の国はあるのだとイエスは語ります。そこに人種や生まれ、育ちの壁はありません。
この良き知らせ、福音をイスラエルに限定せず、全ての人に祝福を注ぐことが神の計画です。
イエスは大胆に語ります。人を程よく気持ちよくさせ、イエス自身の名声を高めるような内容は選びません。
イエスの生き方は私たちの模範です。
- 心のうちを露わにするメッセージ
最初はナザレの人たちは非常に興奮して、喜んでイエスを迎えました。イエスのメッセージを聞いてワクワクしました。
しかし、そこで終わりませんでした。イエスは人々の心のうちを露わにしたのです。
イエスの警告を聞いて、人々は悔い改めることもできました。
自分の内側にある期待は、神への聖なる期待ではなく、自分のための期待だったと認めることもできましたが、彼らはしませんでした。
むしろ、イエスの言葉を聞いて、怒りをイエスに向けたのです。
- ナザレの人たちは私たちの現実
ナザレの人たちは私たちの現実です。自分の期待を神に求めます。それが叶わないと神に怒るのです。
外国人にも祝福を与えるなんて!そう感じるのが自然な人の感情です。
異邦人を教会に加わるために、教会では多くの努力が必要になると使徒の働きでも語られています。
だからこそ、私たちは教会を開き続けなければいけないと思うし、居心地の悪さを主張したくなる自分の内側にある欲を神の前に差し出し続け、
惜しみなく与え続ける神の恵みがこの世界に実現するようにと今日も祈りたいと思います。
■一緒に考えてみましょう
神のことばが語られて、人々が受け取っていく場面を思い浮かべましょう。
また、人々が反発する場面も思い浮かべましょう。両者の反応の違いを生じさせる理由は何でしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 4章1-2節
悪魔の誘惑
1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、
2 四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の力を使って、自分の必要を満たせ
1つ目の誘惑は、パンを石に変えたらいいと言うものでした。
イエスは神の愛する子として王となり、かつ、しもべとして人々に仕えるようにと使命を託されました。
この使命のために、力が託されています。悪魔は神に与えられた力を間違った方向に使うように仕向けます。
悪魔は神の力を使って、自分の必要を満たしたらいいとささやきます。
神様は体のことも大切に思っているし、神の口から出る言葉が私たちを満たすのだとイエスは答えます。
- 悪魔を拝み、欲しいものを手に入れろ
手っ取り早く、王になれる道を悪魔は提案します。「悪魔である私を拝みなさい。
そうすれば、あなたの欲しいものは手に入る。」これも、嫌になる程、甘い、誘惑です。
しかし、悪魔の提案する方法では、本当に必要なものを手に入れることはできません。
イエスが神に奉仕し、人に奉仕する中で、神の支配は実現していくのです。
イエスは申命記6:13を要約し、悪魔の試みを退けます。神に仕えることが何より大事であることをイエスは思い起こさせてくれます。
- 神が働かれると証明してみろ
「そんなに神に信頼しているなら、聖書にこう書いてあるから、やって見せてくれ。
神は本当に守ってくれると信じているんだろう」と悪魔に挑発されることもあるのです。
神を試みるとは、神を信じていないことの表れだと聖書では考えられています。ですから、試みること自体をイエスは拒みます。
イエスは神にとことん従い、信頼し続けます。悪魔の試みに対して、神のみことばで対抗し、悪魔の試みを退けました。
ここに私たちの希望があります。私たちは失敗を繰り返すのですが、イエスが私たちの失敗を取り返してくれるのです。
■一緒に考えてみましょう
・大胆に、弱さや足りなさを抱えたままの姿で、イエスに近づくことができた体験を振り返ってみましょう。
イエスは本当に受け止めてくれたでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 3 章 22 節
神に愛される
22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. なぜイエスはバプテスマを受けたのか
イエスも悔い改めが必要だったわけではないでしょう。バプテスマのヨハネのメッセージは確かに神から出ていることであることを明らかにするため、
イエスもヨハネの言葉に従ったと言われます。ヨハネの語った罪の赦しに導く悔い改めは非常に重要なことでした。
また、ヨハネは、救い主を指し示す役割があると言っていました。イエスがバプテスマを受けたあと、
聖霊が降って来ることによって、ヨハネが待ち望んでいた救い主がイエスであると示されました。
2. 「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」
天からの声は旧約聖書の響きがあります。前半は詩篇 2:7 で、イスラエルの王が即位する際に歌われました。
イエスは神の子、王、救い主(ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)に神によって任命されたというのが前半の意味です。
後半のイザヤ 42:1 は「神のしもべ」であると言われます。苦難のしもべとして、イザヤ書では、苦しまれる救い主の姿が出てきます。
王として、苦しむしもべとなる。この複雑な使命は、イエスが十字架の死を通して、全ての人に救いの道を与えることで実現することになります。
3. 聖書の民だけでなく、人類の救い主
マタイの福音書にも系図が記されています。マタイの読者は聖書の文化の中で育っている神の民なので、アブラハムからイエスまでの系図を示しました。
ルカの読者は誰だったでしょうか。聖書を知らない、ギリシャ・ローマ社会で暮らす人たちです。
ですから、ルカの場合は、イエスから遡り、アブラハムで終わらずに、聖書に出てくる最初の人、アダムまで遡ることによって、
イエスが救い主であるというのは、全ての人にとっての関係する出来事なのだということをルカは系図から語るのです。
■一緒に考えてみましょう
「愛されている」という体験を振り返ってみましょう。
周りの人にとっては小さなことかもしれませんが、自分にとって大切な体験というものがあるかもしれません。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 3章10節
どうすればいいですか?
10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 抑圧と腐敗の時代の中で
3:1-2に出てくる支配者たちの名前は、抑圧と腐敗の現実を思い起こさせるものです。
かつてイスラエルはエジプトで奴隷として虐げられ、今はローマ帝国によって支配され、再び出エジプトが起こることを人々は願っていました。
腐敗は宗教の中枢まで及んでいました。ユダヤ人の大祭司はローマ帝国によって政治的な手先として任命され、神聖な地位を汚されていました。
至る所で、あるべき姿から離れてしまっていました。この現実に、神様、あなたが介入してくださいと人々は祈っていました。
- 必死で問いかけられるか
ヨハネの警告は聞き手の心に恐怖を与えたので、人々は「私たちはどうすればいいですか」とヨハネに問いかけました。
今日のクライマックスはここです。悔い改めのバプテスマを受けに来た人々と同じように、真摯に神様に問いかけられるでしょうか。
「私のでこぼこな人生が、主の通られる道になるために、どうすればいいですか。
言葉だけの信仰、悔い改めではなく、悔い改めに基づく実を結ぶために、どうすればいいでしょうか」と本気で必死に問いかけられるでしょうか。
- 誰にでも神に立ち返る道がある
「もし下着一枚を与えることができないなら、その下着を所有しているのではなく、下着に所有されているのです。」
下着に限らず、もの、お金、地位、名誉、権力、いつの時代も、人を支配しようとしてきます。
そのような束縛から解放され、私たちは本来の居場所である神様のところに立ち返る道があると聖書は教えます。
全ての人にこの救いは開かれています。当時、宗教的に最も嫌われていた取税人や兵士が悔い改める人として出ています。
ローマのために働く人たちにも、神に立ち返る道があるのです。
■一緒に考えてみましょ
自分のでこぼこな人生が、主の通られる道になるために、どうすればいいですか。
言葉だけの信仰、悔い改めではなく、悔い改めに基づく実を結ぶために、どうすればいいですか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章44-46節
少年イエス3日後に発見
44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
45見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
46そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 慌てふためき、必死に探すような時
12歳の息子が突然いなくなってしまうという場面には遭遇しないかもしれませんが、
イエスの両親のように、私たちが慌てふためき、後悔し、苦しむような時はあるかもしれません。
その後、必死に探して、思いがけない形で解決に至ることがあるかもしれません。
思いも寄らない神様の言葉を聞いて、受け止めることができますように。
もしかしたら、私たちが見失っただけで、神様はなすべきことをなし、働き続けていたのかもしれません。
- 芯のある生き方
心配していた両親とは対照的なのが神殿で議論しているイエスです。12歳の時点で、イエスは自分の人生の芯が見えていました。
「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(49節)。
天の父なる神の家である神殿にいる、もしくは天の父なる神の働きをしているということは、私にとって当然なことですとイエスは語ります。
軸のある生き方と言ったらいいでしょうか。私たちの人生にとっての中心は何でしょうか。
- すぐに理解できなくても、心に留める
「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(51節)と母マリアの姿勢が書かれています。
3日間、死ぬほど心配したかもしれません。イエスを見つけた際にその心配を伝えました。
親が自分の主張をするだけでなく、子供であるイエスの言葉に耳を傾け、心に留めようとすることです。
相手の話に耳を傾けるゆとりを持っているだろうかと思うのです。
その場で理解ができないことでも、言葉や出来事を心に留めて思い巡らす。
これが母マリアが繰り返し、行っていることなのです。
■一緒に考えてみましょう
・今日の出来事の中で、特に関心が向いた内容は何でしょうか。なぜ、そこに関心が向いたのでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章28-32節
救いは万民のために
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、 しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。 31あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、 御民イスラエルの栄光を。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 誰にとっての救い主か
イエスによって、万民に救いが備えられていくのです。福音書を読み進めていくと、その意味が次第に明らかになってきます。
当時の社会では、イスラエルの中でも、救いを受けていると思われている人と、
あなたは救いの外にいますねと救いから外されている人がはっきりと分けられていました。
そのような常識をイエスは問い直し、文字通り、全ての人に救いを備えられます。取税人が救われ、異邦人が救われる道をイエスは備えられるのです。
- 救い主は人の心のうちをあらわにする
罪の始まりは、神を信じないで、悪魔の言葉を信じ、あなたが神のようになれるという幻想に惑わされたことに遡ると聖書は言います。
自分の人生は自分でコントロールしたいし、神の前にひざまずくなんて、ごめんだという人も少なくないでしょう。
イエスは私たちの心のうちにある思いを、表に出します。
神の温かさの中で、過去が精算され、洗いきよめられ、赦され、乾きが潤されるチャンスにもなるし、
不安定で不十分な偽りの自分にしがみ続けることをやめられないこともあります。
- 根本的な救い
今日はシメオンとアンナ。この2人の年老いた、信仰深い人たちによって、救い主が確かに誕生したことが明らかにされました。
シメオンもアンナも長年、祈り続けていました。だからこそ、彼らは特別に赤ちゃんのイエス様を見て、本物だとわかったのです。
「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」(イザヤ40:1)と今日も語られています。
神は私たちの心のうちにある思いがあらわにすることで、表面的な解決ではなく、根本的な解決に至りますように。
■一緒に考えてみましょう
・私にとっての救い主とはどういうお方なのか。私はどういうタイプの人に心が魅了され、私の人生を献げたいのでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章7節
飼葉桶に寝かされるイエス
男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イエスの生まれた場所
場所がなく飼い葉桶に眠る救い主。これが聖書の記録する救い主の誕生です。
大々的に国をあげて、誕生がお祝いされるのではなく、ひっそりと、隠れて、宿屋だろうと客間だろうと居場所もなく、飼い葉桶に眠るのです。
マリアは自分を「卑しいはしため」身分の低いしもべだと表現しましたが、
赤ちゃんのイエスも同じように、小ささの中、貧しさの中、居場所を与えられずに生まれてきたのです。
このような誕生はイエスの生涯を物語っているようです。
- 羊飼いが招かれる
羊飼いというのは、夜、星の下で、岩を枕にして眠るような生活をしている人たちです。
彼らが最初に救い主が誕生した喜びの知らせを聞きます。
神の計画は絶妙だなと思うのは、居場所がなく、飼い葉桶に寝かされるイエスだからこそ、
貧しい暮らしをしている羊飼いたちが会いに行けたということです。文字通り、全ての人が会いにいける救い主。
小ささ、弱さ、貧しさをご自身で経験され、暗闇に住んでいた人たちを照らし、平和の道に導くのがイエス・キリストなのです。
- 価値観に正面から対立する主張
ローマ社会では、ローマ皇帝こそ、全人類の救い主だと呼ばれていたのですが、
イエスを救い主と呼ぶことで、直接、触れなくても、ローマ皇帝ではなく、
イエスこそ、まことの救い主であると宣言しているのです。これは大きな挑戦でした。
神の国はイエス・キリストによって、はっきりとこの世界に示されます。
この世の常識とは全く違います。
弱さ、取るに足らないと思われること、傷つきやすさ。そういう中に、神の国の真理が隠れています。
■一緒に考えてみましょう
- 「彼らのいる場所がなかったからである」そういう中で生まれてきたイエスは私たちの居場所を作ってくれます。
私たちもまた誰かのために居場所を作ることができるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章62-64節
苦悩を通して
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 沈黙の期間を通して
今日の主人公は、再び、祭司ザカリヤです。神の前に正しい人であっても、
なお、神の特別な知らせを前に、信じきれなかったザカリヤ。彼は口が聞けなくなりました。
耳も聞こえていなかったのではとも言われます。ザカリヤは、いつまでこの状況が続くかわかりません。
しかし、この沈黙の期間を通して、苦悩を通してザカリヤは神に信頼するようになったのです。
苦悩を通して、信仰が練られ、彼の口から神への賛美が出てくるに至ったのです。
- 今日はペンテコステ
イエス・キリストが天に昇られたあと、代わりに神の霊、聖霊が送られると約束されていて、
聖霊が弟子たちに与えられた日のことをペンテコステと言います。使徒の働き2章にその様子が記されています。
聖霊こそが、常にイエスの弟子たちの導き手、教会の導き手でした。これは時代が変わっても、変わらない真理です。
余白のある生活と表現しますが、自分自身でいっぱいいっぱいにならずに、
神に信頼し、神の働くスペースを作り出そうと願う人と共に、聖霊は働いてくださります。
- ザカリヤも暗闇を歩いていた
79-80節でザカリヤは救い主について賛美します。
救い主は朝日のように、暗闇にいる人たちを照らし、私たちを平和の道に導くとザカリヤは告白します。
祭司として神の前に正しく生きてきましたが、まだまだ信じきれていない部分が彼の中にあることを天使の言葉によって明らかにされました。
ザカリヤもまた、暗闇を歩いている1人だと認めているのです。
しかし、暗闇は救い主によって照らされ、平和の道に導かれると彼は告白します。こういう歩みに私たちは招かれています。
■一緒に考えてみましょう
- 今日の私の口からどのような言葉が出てくるでしょうか。疑いでしょうか。沈黙でしょうか。神への賛美でしょうか。
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:マルコの福音書 5章25節~34節
気づき、探し、向き合うイエス・キリスト
25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。
「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.今日の箇所は、多くの群衆に囲まれたイエスの後ろからその群衆をかき分けて、でも静かに目立たない様に近づいて、
主イエスの衣(多分当時普通に着ていたと思える上着で、マタイ9:20のよれば、房が付いていた衣のようです)に触れて、
病が癒された女性の箇所です。
この個所をさっと読むと、12年も出血が止まらない婦人科系の病気を持っていた夫人が主イエスの衣に触れて病気が癒された。
主イエスには癒しの力を持った方だ、と読んでしまいます。でもこの個所にはとても深い物語があるように思います。
2. この女性がなぜ、主イエスの後ろから主イエスに近づいたかです。正面から出なく。
この女性は12年もの間、出血が止まらない病気で苦しんでいました。
いろいろな医者にかかったのですが医療費だけがかさみ、病気は一向に治りませんでした。
この病気のおかげで、この夫人は肉体的な痛みだけでなく、経済的にも苦しかったでしょう。
この種の病気にかかった人は、当時のユダヤ人の世界では宗教的にけがれた人と見られていたようです。
その結果、堂々と人前に出ることができない社会的にも差別される存在であったようです。
つまり、肉体的、経済的、宗教的、社会的、更には精神的にも大きな苦しみの中にいたのだと思います。
ですから、主イエスの前から来ることができなかった存在だったとのでしょう。でもこの女性は主イエスと正面から出会います。
この女性の態度や行動から、私たちは一人の存在として主イエスに触れるように進むべきこと。
主イエスと向き合う時は、自分の痛みや苦しみを隠すことなく、真実をすべて話すこと。
そうすれば、主イエスからの安心が与えられ、健やかに歩むことができる、ということを学びます。
と同時に、この女性の様に、自分は主イエスを求め、主イエスの触れるような行動をとっているだろうか、
そして何よりも恐れおののいてイエスの前にひれ伏してすべてを開け放して、
自分の真実の姿を主イエスの前にすべて出しているだろうかとも問われているようです。
3. この女性に対する主イエスの行動から私たちは学ぶことができます。
① 気づく:主イエスは私たちの存在に気付いてくださる方です。
決して私たちの存在を忘れることなく、私たちが主イエスに触れる時に私たちの存在気づいてくださる方です。
② 知ろうとする:そして私たちの持っている痛みや苦しみを深く知ろうとされる方です。
決して群衆として大勢のまとまりの中にいる人として見るのではなく、群衆の中から一人の人として知ろうとされる方です。
共同訳聖書では、「見つけようと」とあり、私たちを深く知ろうとして、私たちを一人の存在として探してくださる方です。
③ 向き合う:自分の前に出てきたこの女性と一対一で向き合い、その話を聞いてくださる方です。
④ 信仰に感動して、安心させる:そして、この女性の信仰に感動して、大丈夫ですよと声をかけ、安心させてくださる方。
安心させるような言動・行動をとってくださる方です。この主イエスが私たちに与えられている幸いを感謝します!
4. しかし、自分は何と人や物事に気づきにくい、鈍い存在なのだろうかとも思いますまた気づいても、
より深く知ろうとしているか、周りの人や出来事にしっかり向き合っているだろうか、
向き合っても安心を与えるような行動をしているだろうか、とも問われているようです。
主イエスに触れさせてくださいと主イエスを求め、主イエスと同じように、
気づき、向き合い、何らかの行動をとれる者とさせてくださいと祈りたいと思います。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章55節
いつまでも忘れない
私たちの父祖たちに語られたとおり、 アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 卑しいはしため
マリアは自分を「卑しいはしため」と言います。
身分の低い、小さな存在、見向きもされないような立場にある自分を、聖書の神様は見てくださっていると大胆に告白します。
マリアは田舎の小さな町の人でした。謙遜でも何でもなくて、確かにマリアは身分の低い、小さな存在なのです。
マリアの周りにいる人も、マリア自身も、マリアは見向きもされない存在だと思っていました。
にもかかわらず、神様は小さく弱い立場にあるマリアのことを覚えてくださり、目を留めてくださるのです。
- マリアは祝福のモデル
マリアは自分だけが特別扱いされるわけではないと知っています。
主の憐れみは、マリアだけに向けられるのではありません。代々にわたって、主を恐れる者、神に信頼する人に与えられるのです。
マリアが特別なのではなく、さまざまな厳しさを通っている人に対して、神様は目を向けてくれるという救いのメッセージがはっきりと語られます。
思い出したいのはマリアの前に、恵みを受けたのは、年老いたザカリヤとエリサベツ夫妻でした。
エリサベツは長年、恥を抱えながら生きてきたのですが、神から祝福を受けたのです。
- 召天者記念礼拝
周りから、また自分でも「恥」だと思うようなことを抱えている人のことを、神様は決して忘れないと聖書は約束します。
マリアはこの賛美を「私」という言葉で始めながら、最後は「私たち」で終わります。
信仰とは私の体験でありつつも、大きな救いの歴史の一部であり、私たちの体験になるのです。
時代は変わっても、変わらない真理について聖書は教えます。
それは神の救いの歴史の中に私たちは生かされているということです。
■一緒に考えてみましょう
- 「卑しいはしため」に対して神様が恵みをもって応答してくださる出来事を聖書の中でも、私たちの周りでも、思い浮かぶことはあるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章38節
マリアの信仰告白
マリアは言った。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の神秘の前に開かれているか
少なくとも、神の神秘に対して日々、私自身がオープンであるかは日々確認したいなと思っています。
聖書の神様について、私たちは全てを理詰めで説明することはできません。
牧師として、全てのことを論理的に答えたくなる誘惑がありますが、神様が明らかにされた部分は理解しつつも、
神が隠された部分の前に沈黙することも誠実な態度だと思いますし、
神の神秘の前に、一緒にひざまずきましょうと勧めることの大切さを思い出しています。
- 完全に人であり、完全に神
処女降誕は、イエス・キリストがどういうお方であるのかを説明する上で、重要だと言われます。
イエスは、完全な人間として、イエスは罪以外のすべてのことにおいて、私たちと同じであり、
かつ完全に神であるイエスは、神がどのようなお方であるかを、私たちに最も完全に示します。
人らしさと神らしさがイエス・キリストのうちで完全に調和するように、私たちが神を愛し、人を愛する中で、
私たちもまた、神のかたちに似せて作られた人としてのあり方を取り戻していく道がイエスのうちに示されるのです。
- 大事なパートを人に託す
注目したい点は、イエスの誕生に際して、ザカリヤの時のように強引に
「このことは後になったらわかります」というような形で話が進んでいかないということです。
マリアに告げられ、マリアが神の計画を受け取り、神の計画は進んで行きます。
神の働きの大事なパートを神はここで、マリアに託し、マリアはそれをちゃんと受け取りました。
神に信頼する人は、神の奇跡の大事なパートを託され、その役目を受け取ります。
神の祝福のパートナーになるようにと私たちは招かれています。
そのために、神の働きに注意を向ける余白を持っていたいと思います。
■一緒に考えてみましょう
- 神の計画の一部分をどのような場面で任されたことがあるでしょうか。
どのような心の動きがあったでしょうか。振り返ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1 章 20 節
祭司、信じられず
見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。
その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 一人一人に目を留める神
神様は年を取っていた夫婦に目を留めてくださいました。
もし、あなたが「自分のような小さな存在を神様は見てくれないかもしれない」と心配になることがあるとしたら、
決してそんなことはありませんと聖書に従って、お伝えします。神様は私たち一人一人に目を留め、
神様との温かい関係の中に招いてくださいます。
でも、神に信頼してきた人であっても、すぐに信じられるかというと、そうではないという、非常に現実的な話が書かれています。
2. 喜びの知らせを信じられなかった
御使いは恐れることはない、ザカリヤの願いが聞き入れられたと語ります。
ザカリヤは「何によって」と答えました。この言葉の意図は、証拠を求めていると言われます。
神の前に正しい歩みをしていましたが、ザカリア自身も、神との関係を修復しなければいけない部分があったことをはっきりと示されます。
ザカリヤは神の喜びの知らせを信じられなかったのです。罪の指摘とはこのようなものです。
ザカリヤを貶めるのではなく、神との関係をやり直す必要のあるところが明らかにされます。
3. 主は恥を取り除いてくださる
周りから見たら些細なことに思えることでも、本人には非常に大きなことに感じることがたくさんあります。
神様は私たち、一人一人に目を留めてくださっていることをザカリヤとエリサベツの出来事は教えてくれます。
それは私たち一人一人に目を留めてくれているということであり、私たちもお互いに同じようにしなさいと言われているのです。
エリサベツの「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」という告白。
これが私たちの信仰告白になりますように。
■小グループで分かち合うヒント
・ イエス・キリストの十字架は私たちの恥を取り除いてくださいます。取り除かれた恥について祈ってみましょう。
取り除いてもらいたい恥が思い浮かぶなら、合わせて祈りましょう。
説教者:安藤 廣之 牧師
聖 書:出エジプト記4:1~5
あなたの手にあるものを~モーセの生涯から
1 モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
2 主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」
3 すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4 主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。
5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
受難週、イースター
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章3節
外国人から見たイエス
私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ルカだから伝えられる人がいた
ギリシャ語が流暢に扱えるルカだからこそ、ギリシャ人に向けた福音書を書くことができました。
ルカも自分の使命を理解していたでしょう。例えば、マタイの使命はユダヤ人クリスチャンに待ち望んでいた救い主キリストはイエスだと伝えることでした。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。ここにも「でこぼこがいい」の精神が見てとれます。
それぞれの背景が違う4つの福音書が残され、4人の視点を通して、イエスの福音の豊かさを受け取ることができるのです。
- 「神の友」となって一緒に読もう
「尊敬するテオフィロ様」という言葉遣いから、地位の高い人に向けた文章だということがわかります。
テオフィロという名前は、「神の友」という意味です。ただ、このテオフィロという人が本名なのかどうかは、学者の間でも意見が分かれます。
大事なことは、テオフィロという人に向けて書くという形を取ることで、当時のギリシャの背景を持った人たちが違和感なく、
イエス・キリストの記録を読み始めることができたということです。私たちも神の友となって一緒に読んでいきましょう。
- イエスの足元に座るような気持ちで
ルカは「私たちの間で成し遂げられた事柄について」と書き始めました。
この福音書は「私たち」の物語です。信仰を持つことは個人的な決断ですが、信仰は共同体の中で養われていきます。
礼拝の中で、私のことだけ考えるのではなく、一緒に神の前に、神の光に照らされる経験をしていくことを願っています。
テオフィロになって、すでに知っていることもあるでしょうが、ルカの福音書を通して、よりイエス様に近づくことができるように、
イエスの足元に座るような気持ちで、福音書に耳を傾けていきたいと願っています。
■一緒に考えてみましょう
- 3節の最後の「思います」という意味は、自分の考えを述べているというより、聖霊に促されたことを感じるときにルカが使う言葉です。
聖霊の促しをどのような時に感じるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ローマ人への手紙 6章4節
復活により人生に輝きを
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- もう苦しまなくていい
バプテスマを受けることで、イエスの十字架と一つとされ、イエスの復活と一つとされることを、文字通り体験します。
まず、水の中に浸される。これはキリストの死と一つになることを表現します。
私たちを責め立てる過去の失敗、経験したくなかった出来事、痛み、悲しみ、貶める言葉、行為、あらゆるものを、
イエス・キリストは私たちの身代わりに引き受けて十字架上で犠牲となりました。
だから「あなたはもう苦しまなくていい」これが最初の大切なメッセージです。
- 復活のキリストと新しい人生を
水から出てきます。これはイエス・キリストの復活と一つとなるということです。
キリストが死者の中からよみがえられたように、新しいいのちをいただいて、イエス様と一緒の人生をスタートさせるのです。
これが二つ目のメッセージ「一緒に新しい人生をスタートしよう」と私たちは招かれています。
バプテスマを受け、水から引き上げられ、公にあなたは神の愛する子どもとして、神様に守られ、支えられる人生を始めることができるのです。
- あなたはわたしの愛する子
天からの声です。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11) 私たち一人一人も、この声に耳を傾けましょう。
私たちは神の養子になるのだとパウロは表現します。最初から神の家で生まれたわけではないから、父なる神様に愛されても、最初は疑うかもしれません。
受け入れられないかもしれません。時に、逃げ出したくなることもあるかもしれません。
そうだとしても、ちょっとずつ、でも確実に神の愛情が私たちの心に届き、私たちから神の愛が溢れる瞬間に気づくようになっていきます。
■一緒に考えてみましょう
- バプテスマを受けることは、イエス・キリストと一つとなることを象徴しています。
あなたにとって、イエス・キリストと一つとなることは、どんな意味がありますか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 2章5-11節
十字架で死んだ救い主
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 立場や状況に固執しない
イエスは神であることに固執しませんでした。手放す準備ができていました。
自分の立場や状況にしがみつきませんでした。人となることを受け入れました。
例えば、健やかなる時も、病める時も、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、
その時々の状況に左右されずに、全ては神の手の中にあると信じ、
自分で必死に握りしめず、手放す準備ができていたと言うことができるでしょう。
- 空っぽになっても慌てて埋めない
キリストは、自分を空っぽになることを受け入れました。
私たちは空っぽだと不安だから、とりあえず、何かで満たそうと思うかもしれませんが、
イエスは神様が満たしてくれるのを待つことができました。神のスペースを常に作っておきました。
また、人を支配するのではなく、人に仕えることを選ばれました。
聖書を読んだらわかりますが、自分の都合のために、奇跡を起こすことはありませんでした。
イエスが奇跡を起こすのは、人を苦しみから助け出すためだけでした。
自分の満足のためではなく、人のために使うことが喜びでした。
- この道に招かれている
いわゆる人気のある道ではないと思います。ですが、ここに救いがあると2000年間、教会は語り続けてきました。
イエスが私の十字架を一緒に背負ってくれます。私たちは決して一人ではありません。一人で孤独に歩かなくていいのです。
私の全てを知って、全てを受け止めてくださるイエス様が共にいてくださいます。
十字架のイエスは私たちの罪を身代わりに背負ってくれました。
「だから、もう心配しなくていい。安心して、戻ってきなさい」と私たちは招かれています。
■一緒に考えてみましょう
- 今日の聖書に書かれているイエスの特徴の中で、特にあなたの注意が向いた特徴はなんですか。
なぜその特徴に注意が向いたと思いますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章38-42節
人生をシンプルに
38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 福音は想定より開かれている
39節のマリアの行動は考えられないことでした。
2000年前のユダヤの文化では、男性のいるべき場所、女性のいるべき場所というのが決まっていました。
女性はイエスの教えを聞くために足元に座ることはあり得ないことでしたが、イエスはそれを最も良いことだと言われます。
イエスは私たちに問いかけます。あなたは勝手に福音を狭めてないか。小さくしていないか。
教会はイエスを映し出す場所として、常に主イエスの言葉に開かれていなければいけません。
- 奉仕が恵みではなく不満になる可能性
マルタのもてなしは、いつの間にか、不満に支配されてしまいました。これは私たち誰もが経験したことのある感情ではないでしょうか。
やろうとしていることは正しい。なのに周りのサポートがない。だんだん不満が膨らんでいく。
気づいたら、1番大事にしたい人であるイエスにも腹を立てている。自分の正当性を当然のように人にぶつける。
マルタも私たちの鏡です。このようなことが私のうちにあるかどうかを振り返る時間を取るのは価値あることです。
- 「でこぼこがいい」の土台作りの1年目
本当に必要なことは、私たちが思うほど多くないのかもしれません。イエスは一つだと言いました。
マリアはその良い方を選んだ。ここでは、良い分、良い分け前、良い食事を選んだというメッセージが込められています。
人はパンだけで生きるのではない。という聖書の言葉を暗に意味しています。神の言葉によって私たちは生かされるのです。
No Bible, No Breakfast (朝飯前に聖書から)という泉田昭先生の生き方が思い出されます。
昔も今も、弟子たちは忙しすぎて、イエスの足元に座ることを軽んじることがありませんように。
■一緒に考えてみましょう
- 自分の奉仕に恵みを見出しているか、それとも不満を感じているでしょうか。不満に感じるような時は、どのようなサインがあるでしょうか。
- 本当に必要なことに集中できているでしょうか。生活を見直してみましょう。