世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
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新年、71周年創立記念
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ピリピ人への手紙3章12-16節
目標を目指して走ろう
12.私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13.兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえられたなどと考えてはいません。
ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14.キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
15.ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。
もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
16.ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.「キリストを得るように」、と(12節)
「キリストを得るように」というこの目標は、信じるすべての人に開かれていて、誰かに奪われる心配もありません。
「キリストを得る」というマラソンコースは、信じる一人ひとりにそれぞれ別のコースとして備えられていて、
私たちは自分に与えられたコースを自分のペースで進めばいいのです。
キリストを追求すると、みことばそのものであられる主を通して、主を信じる「神の家族」を通して、
主が創造されたこの世界を通して、教えられることがたくさんあります。
神さまとの証しの体験として、その思いは心の中に貯えられます。見える世界も見えない世界も心の中で広がっていきます。
この目標は歳を重ねたら追求できなくなるものではありません。
むしろ、ますます豊かになっていくものです。皆さん、キリストに捕らえられるって凄いことですよね。
2.ただ一つのこと(13、14節)
ここでパウロが語る「うしろのものを忘れ」の「忘れ」に相当する言葉は現在分詞が用いられていて、
すでにスタートしているけど、まさに今、動いていて、ゴールに到達していない様子を表わしています。
たとえキリストという目標が定まっていても、うしろのもの、過去の出来事は時にパウロを苦しめます。私たちもそうでしょう。
パウロはかつて自分がキリスト者を迫害する者であった、ということを決して忘れなかったでしょう。
キリスト者になってからも異邦人に福音を伝える働きを神さまから託され、数々の失敗をしては、
次にどうしたらよいかということを考え、行動に移してきたことかと思います。
失敗してもそこで働きを止めてやめてしまうのではなく、うまくいかなかった原因を神さまと語り合い、
新たな宣教のアプローチを考えてはまた一歩を前へと踏み出したのです。ただ「キリスト」という目標を目指して。
3.到達したところを基準に(15、16節)
この競争は他の人と争うものではありません。
皆さんお一人おひとりに神が用意されたマラソンコースを、自分のペースで進んで行くのです。
しかし、その道を進むのを妨げる思いがあったり、私たちの側が何か違う考え方をしていて、歩みが止まってしまうこともあります。
「何をどうしたらよいのか?」ということは、キリストを信じていても必ず起こることですが、それでも心配はいりません。
その時々で、神さまが明らかにしてくださるので。私たちは到達したところを基準にして進めばよいのです。
■一緒に考えてみましょう
- キリストを目標に走る人生の中で、どんな体験を味わわせていただいたでしょうか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:使徒の働き 11章19-26節
ピンチだから、できること
19 さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、
ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。
20 ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、
ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。
21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
22 この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。
23 バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。
24 彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。
25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。
弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ユダヤ人以外の人にも福音を語ることができた理由
キプロス人とクレネ人とは、キプロス出身やクレネ出身のユダヤ人という意味です。
ギリシャ語を生まれながらに話す環境で育ったユダヤ人でした。
彼らもどこかでイエスを信じ、彼らも福音を伝えるようになったのです。
ヘレニズム文化に開かれた環境で育った彼らだから、ユダヤ人に限定せず、
自然と福音をギリシャ語を話す人たちに伝えることができたということができます。
彼らだから、福音を異邦人世界に届ける橋をかけることができたのです。
- 同じユダヤ人でも、違いがあった
イエスを始め、イエスの弟子たちはヘブル語を話すユダヤ人でした。幼い頃からエルサレム神殿が身近にありました。
もう一方で、イスラエルから見たら外国で生まれた人たちがいました。彼らはギリシャ語を生まれながらに話す環境で育ちました。
イエスを信じる教会は、エルサレムを中心に始まりましたので、ヘブル語を話すグループが重んじられていたと言われます。
しかし、どちらか一方だけでなく、どちらも神様の祝福の働きの大事なパートを担います。これが神様のやり方です。
- でこぼこがいいと告白したい
初期の教会の中で、ヘブル語を話すグループとギリシャ語を話すグループとで、食事の問題が起こったこともありました。
でこぼこがあるから、問題が起こります。だけど、でこぼこをいいねと言う聖書の神様です。
私のでこぼこも、あなたのでこぼこも、そして、私たちが一緒に集まる時のでこぼこも、それがいいね!と神様が言うので、
信仰を持って「でこぼこがいい」と今年も祈り続けたいと思います。私たちは、みな、誰もが、主イエスの前で尊い存在です。
■一緒に考えてみましょう
- ピンチかもしれません。でも、ピンチだからできることもあるかもしれないと思って、少し周りを見回してみませんか。
神様の祝福の働きの大事なパートを託されているかもしれません。 - 自分が追い詰められている時は、SOSを出して、祈ってもらいましょう。遠慮せずに、声を出してください。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:使徒の働き 11章18節
沈黙から始める1年
18 人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 語ることから、聴くことへ
「1人の人が祈った。最初彼は祈りは語ることであると考えた。しかし徐々に静かに、静かになり、ついに祈りは神に聴くことであると悟った。」
(キルケゴール)
言いたいことがたくさんある時、無理に黙る必要はありません。自分の願い事を祈ること自体、悪いことではありません。
私たちは多くの願いを携えて、神のところに向かいます。切なる祈りを聞いてくださいと必死で祈ることがあるでしょう。
心を注ぎ出したあと、神様の声を聴くスペースができるから、それを大事にしたいと思います。
- 神に従いつつ、神を非難してしまう
聖書の時代も、沈黙から始まったわけではありません。1-3節にあるように、ペテロ(神に導かれて行動した人)を非難するところから始まりました。
非難した人は、自らが神に従っていると信じて疑いませんでした。
でも、目の前で働かれている神を見ることなく、ただ過去の常識に従ってペテロを非難したのです。
イエス・キリストの十字架は、ユダヤ人限定ではありませんでしたし、人種の壁を超えて広がっていくべきことでした。
神のなさることを前にして、まずは耳を傾け、沈黙するゆとりを持つことができますように。
- 自分の常識に縛られず、神の前にオープンに
今年も予想もしないような、展開があるかもしれません。教会の常識が問われることがあるかもしれません。
この出来事が教えているのは、私たちが注目すべきは、神の働き。神が今、ここで、何をしているのか。
過去も大切だけど、神は今、生きて働かれている。何か言いたくなる時、まず、神の前に沈黙を。今、働いている神の前に沈黙を。
そして、神の働きを見て、神をほめたたえましょう。本当に、神は信じられないことをなさるから。私たちは目撃者、証人になりましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 心騒ぐことが起きているかもしれません。すぐにそのことに反応するのではなく、一呼吸おいて、神の前に静まり、反応できますように。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ローマ人への手紙8章17-18節
キリストとともに共同相続人として生きる
17子 どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、
神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです
18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
アドベント
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:詩篇 100篇1-5節
1年の感謝を数える
1 全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。
2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3 知れ。主こそ神。主が 私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。
4 感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ。主に感謝し 御名をほめたたえよ。
5 主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- そのままでいいから、神の前に行こう
人生、途方に暮れることがあります。疲れ切って、もう何もできないという時があります。
そういう時こそ、思い出したいことは、そのまま(でいいから)、神様のところに行くことです。
ちゃんとしてないと、神様のところに行けないと、私たちは無意識に考えてしまう傾向があるかもしれませんが、それは違います。
不安がある。心配がある。悩みがある。解決しない。そういう時こそ、神様のところに一緒に行きましょう。
神様に全部、聞いてもらいましょう。
- 私は神様のかわいい羊
この詩篇は、「神様がしてくれたことがある。だから、感謝をしましょう!」と言います。
3節にシンプルに書いてあります。神様は私たちを造りました。
どういう意味かというと、私たちは神様の大切な存在で、羊飼いが自分の羊をかわいがり、丁寧に世話をするように、
神様にとって私たちは大切な羊だということです。
「神様にかわいがってもらっている、大切な羊」というのが聖書の教えるイメージです。
私たちは神様に大事に育ててもらっています。この関係は絶対に、揺らぐことがありません。
- 感謝を数えるとは信仰の表明
先週、クリスマスを迎えました。暗闇を照らすまことの光、イエス・キリストの誕生を祝いました。
暗闇の中、光は輝くと聖書は約束します。私たちは、暗闇を見続けることもできますし、暗闇に輝く光に目を向けることもできます。
1年の終わりに感謝を数えるということは、暗闇の中に輝く光に目を向けるという私たちの信仰の表明です。
今もなお、困難な中にいる方がいることを思います。決して、人生は簡単ではありません。
それでも、「知れ、主こそ神。私たちは神の牧場の中にいる羊」です。信仰によって、感謝を数えましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 神様のスペースを作ってから、感謝を数えましょう。私が気づかなかったかもしれませんが、神様はと私たちと一緒に、
この1年ずっと、寄り添ってくださっていたはずです。イエス様、どうぞ私たちの目を開いてください。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書2章8-20節
会いに行ける救い主
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。
「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ヨハネの福音書1章9節
まことの光
9.すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.「まことの光」を指し示す者
「まことの光」であられるイエスさまのことを指し示し続けたのがバプテスマのヨハネでした(アドベントの第2、第3週の説教を参照)。
彼が神さまから託されたつとめは、光について証しすること。
「証し」とは、神さまからいただいた恵みを人々に伝えることですが、光について証しする人がいなければ、
誰も光に心を向けることも、光について理解することもできませんよね。
この光を指し示す預言者を当時のユダヤの人々は約400年もの間、待ち望んでいたのです。
バプテスマのヨハネは、来るべき「まことの光」を指し示し、私たちの心の中に「まことの光」がやって来れるよう、
人々の心を神へと向け(=「悔い改め」)、脇役としてひたすら主の道を整えたのです。
2.「まことの光」との出会い
バプテスマのヨハネが指し示した「まことの光」は、私たち人間のように人が人から生まれるようにではなく、
おとめマリアが聖霊によって身ごもるというおおよそ人間の常識を越えた形で、この世界に飛び込んで来てくださいました。
この光は決して消えることのない「まことの光」です。
この光から目を離さずに歩む生き方、バプテスマのヨハネのように「まことの光」を指し示す生き方こそ、
「世の光」として輝かせていただく生き方だと言えましょう。
私たちもバプテスマのヨハネ同様、光ではありません。消えない光を灯し続ける器です。
光が私たちのうちで輝いているのです。
3.「まことの光」と共に歩む
最後に、イエスさまをお送りになられた父なる神さまのお心について思い巡らしてみましょう。
ルカの福音書15章にある「放蕩息子のたとえ」を思い起こすと、そこに出てくるお父さんのように、
神さまは、ご自分のもとから離れてしまったすべての人が、再び、ご自分のもとへと戻って来ることずーっと待ち望み続けていることがわかります。
主を待ち望む私たちのことを、父なる神さまは、私たちが主を知る前からず~っと待ち望み続け、ず~っと気にかけておられたのです。
私たち一人ひとりのことを、ですよ! すべての人を救いたい!!
だからこそ神さまは、私たちの世界に「すべての人を照らすそのまことの光」をお送りになられたのです。
クリスマスは御子イエス・キリストのご降誕を喜ぶだけでなく、父なる神さまの果てしないご愛を味わう時でもあります。
私たちの心のうちに輝く「まことの光」。
決して消えることのないその光こそ、私たちにとって人生最高のクリスマス・プレゼントであることを、じっくり味わいましょう。
■一緒に考えてみましょう
- まことの光に関するあなたの体験(証し)を自由に分かち合い、主の恵みを数えましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:マルコの福音書 1 章 4-8 節
クリスマスの前に罪の告白を
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。
私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 「神に帰れ」と叫ぶ荒野の声
悔い改めは、方向転換を意味する言葉で、向きを変えて、神と共に神に向かって歩くように生き方を改めるという言葉です。
旧約聖書が書かれたヘブル語では帰る、戻るという言葉です。
「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
(イザヤ 55:6-7)にその心が表れています。
2. 自分の役割に徹することができる幸せ
ヨハネは自分に注目を集めるのではなく、やがて来る救い主に人々の注意を向けました。
ヨハネ自身、大きな影響力を与えられていましたが、自分は荒野で叫ぶ声であり、神様の道を整えるのが役目だと理解していました。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、イエス・キリストは聖霊でバプテスマを授けると語ります。
聖霊とは、旧約聖書の中に約束されていた終わりの時代を象徴する特別な存在でした。
イエスによって本当の救いが始まるとヨハネは証言をし、イエスのために道を備え、このあと、イエスが登場して来るのです。
3. 私のクリスマスの準備は何か
私の使命は何だろうかと改めて思います。私たちは、必要以上に大きくなろうとしたり、必要以上に縮こまって自信を持てなかったりします。
どうすれば、自分のありのままの大きさを受け入れ、ヨハネのような生き方ができるのでしょうか。
まずは、「豊かに赦してくださる」という主の言葉を信じ、神の前に正直になり、神に立ち返ることから始めましょう。
■一緒に考えてみましょう
- イザヤ 55 章の神の招きを読んで、どのような感想を持ちますか。
- 私の役割、神に託された使命とは何でしょうか。必要以上に大きくなろうとしたり、縮こまったりしてしまうことはありますか。
神様に託された使命を全うできるように祈りましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:マルコの福音書 1章1-3節
新しいペンキの匂い
1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。
「見よ。わたしは、わたしの使いを あなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。 主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 主イエスの道を準備するバプテスマのヨハネ
イエスを迎える準備をしたバプテスマのヨハネに関するマルコの記録を読みながら、今年のクリスマスの準備をしましょう。
この部分は簡潔にまとめると、イザヤの預言に、神様が来る前に使いを遣わすと言われていた通りに、
バプテスマのヨハネが準備のために荒野で活動したということです。
マルコがここで伝えたメッセージはその通りですが、これで終わらすにはあまりにも、もったいないということが聖書を調べていたらわかりました。
- 聖書引用の意図を読み解く
2-3節は3つの引用の組み合わせです。
最初は出エジプト記23:20。エジプトで奴隷であったイスラエルを神が救い出した記録。
再び、出エジプトが起こるという予感がしますが、2節後半のマラキ書3:1の引用で、空気は引き締まります。
マラキは当時の現状を厳しく批判します。民は慢心し、態度が大きくなっていました。突然、神の使者が現れて、その腐った現実を正していきます。
3節はイザヤ書40:3の引用で、ずっと待ち望んでいた救いの約束を思い出させます。
バビロン捕囚からの解放を第二の出エジプトと重ねて、奴隷となっていたイスラエルをもう一度、約束の土地へと神が導いてくださるという終末的な救いの希望が語られます。
- クリスマスを迎える準備はできていますか?
マルコの冒頭は、ただバプテスマのヨハネの登場を紹介するだけでなく、終末的な救いの実現をイエス・キリストに託しているのです。
マラキ書にあるように、突然の裁きに驚かないように、新しいペンキを塗る必要がないかもしれませんが、私たちもクリスマスを迎える準備をしましょう。
今の自分の心を吟味する時間を持ちたいと思います。一番大切なことは、不十分な私を神様の前に正直に差し出すことです。
しばし、静まって祈りましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 今の状況を考慮しつつ、私はどんな準備ができそうですか。
- バプテスマのヨハネは悔い改めを説きますが、悔い改めとは、神様に心を向けることです。
私にとって、どのような時間が神様に心を向けるきっかけになるでしょうか。
ピリピ書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:詩篇 46篇1-11節
祈り ― 自分に正直に
1 神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け。
2 それゆえ われらは恐れない。 たとえ地が変わり 山々が揺れ 海のただ中に移るとも。
3 たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても その水かさが増し 山々が揺れ動いても。 セラ
4 川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる。 いと高き方のおられる その聖なる所を。
5 神はそのただ中におられ その都は揺るがない。 神は朝明けまでに これを助けられる。
6 国々は立ち騒ぎ 諸方の王国は揺らぐ。 神が御声を発せられると 地は溶ける。
7 万軍の主はわれらとともにおられる。 ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ
8 来て 見よ。主のみわざを。 主は地で恐るべきことをなされた。
9 主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。 弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。
10 「やめよ。知れ。 わたしこそ神。 わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」
11 万軍の主はわれらとともにおられる。 ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の前に心を注ぎ出す
「神の前」というのは、私を受け入れてくれる神様に祈るということです。
誰かに聞かれる心配はないし噂話のネタにされる心配もない、安心・安全な場所。
自分の心にある思いの全てを吐き出して大丈夫な場所です。
最初は、嬉しかったことや感謝なことを伝えるだけでも、自分の心を豊かにする助けになります。
次第に、自分の心にある不安や悩みも、神様の前に伝えたらいいかもしれません。
率直な、正直な祈りによって、自分の心の整理が始まっていきます。
- 次第に神の現実に目が向く
不思議ですが、自分のことだけ祈っていても、神様の前で祈られる祈りは、次第に、神様が今、ここにいることに光を当ててくれます。
詩篇の祈りも、苦しみから始まることが少なくありませんが、祈りの最後には、神に心が向かっていくのです。
この詩篇46篇は、神の現実を力強く語ることで、この祈りは、人生に降りかかる大きな困難に直面し、恐れ、思い悩み、
神様を信じきれないような人の心を慰め、力づけてきた祈りです。
宗教改革者のマルティン・ルターも恐れ、悩みましたが、この詩篇46を繰り返し読み、元気付けられました。
- 変わりゆく世界で、変わらない神を知る
自分に正直に祈りつつ、「やめよ。知れ。 わたしこそ神」という言葉を受け止めたいのです。
右往左往するような場面があります。自然の脅威、人との関係。私たちの心が騒ぎ、揺さぶられる時に、神様との関係を深めることができます。
「この神様が私と共にいてくれる」「私が逃げ込める砦がある」「ここにいたら絶対安心、絶対裏切られることもない」
「厳しい道を通らなければならないとしても、そこを耐え、通り抜けることができる」という体験をしたいのです。
■一緒に考えてみましょう
- 人を思いやるゆとりを失うほどに、自分を忙しくしてはいけません(マザー・テレサ)という言葉を聞いて、
どのように今日の私に響くでしょうか。 - 祈り方は人それぞれです。静かに座って祈ることが好きな人もいれば、単純な作業をしながら神様に心を向ける人もいます。
自分に合った祈り方で、心を注ぎ出す時間が取れますように。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 3章7-11節
損得の基準が大きく変わる
7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、
すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イエス・キリストを知ること
パウロの損得の基準が大幅に変更になったのは、キリストを知ったからです。
これは知識として知るだけでなく、体験として知ったということです。
全てに優ってこの体験はすばらしいので、今までの価値観は大きく変わったとパウロは主張します。
キリストを知ることは、9節ではキリストに認められる(直訳:見出される、見つけられる)とも書いてあります。
私たちが知ることと、私たちが知られること。この関係性の中に入ることが価値観の変化のポイントです。
- 「律法」は悪くないけど、「律法」を主張する人の間違い
「律法」は聖書の神らしさを身につけるための指針。これ自体は何も問題ありません。
パウロがここで問題にしたのは、「律法」を主張する人たちの問題点です。
ユダヤ主義者と呼ぶことがありますが、彼らはイスラエル民族だけが特別だという優越感を持っており、
異邦人クリスチャンにユダヤ人の律法を強要するのは当然だと考えました。パウロはこの点が間違いだと主張します。
使徒15章で明確に結論が出たのですが、「イエス・キリストの恵みによって救われる。」ここに何も付け加えてはいけません。
- イエスと一つになりたいという祈りへ
イエスの従順と私たちの信頼、この2つが1つとなるように。イエスの従順に私も従いたい。これがまさに10-11節にあるパウロの祈りでした。
ピリピ2章で描かれていたようにイエスが十字架に至るまで従った従順、忠実さがパウロの模範であり、時代を問わず、教会の目指す姿です。
10-11節をじっくり味わいながら、私たちも、イエスと一つにしていただけるように、
ますます、キリストを知っていくことができるようにパウロに心を合わせて祈りましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 私の損得の基準として、日常的に使うことが多い基準は何でしょうか。
- 「理想のクリスチャン」を自分で作って、苦しくなっていないでしょうか。
救いは恵みです。好意を受けるに値しない人に、神様がくださるものです。受け取ることから始めましょう。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ピリピ人への手紙3章1-6節
誇るべきはキリスト
1.最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。
私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。
2.犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。
3.神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼のものなのです。
4.ただし、私には、肉において頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。
5.私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
6.その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.心の割礼(1-3節)
パウロがピリピの信徒たちに注意するように呼びかけている「反対者たち」とは、「ユダヤ主義的傾向の強い人たち」のことでした。
彼らは割礼こそ救いのあかしだと主張しますが、本当に大切なのは「心の割礼」だということをパウロは知っていました。
パウロは、「包皮の部分を切り取るように」と言われたときに神さまが願っておられたことが、私たちの心の頑なな部分を切り捨てること、
神と共に歩むとこから離れようとする性質を切り捨てることだということを知っていたのです。
キリストと共に歩む者は割礼の本当の意味の知る者であり、神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇る者こそ心の割礼を受けた者なのです。
2.古い自分を見つめるパウロ(4-6節)
かつて熱心なユダヤ人指導者であったパウロは、誰よりも聖書を知っていたはずなのに、みことばに生かされるという体験を味わうことができず、
誰もが羨むような血統であっても、その心はいっこうに満たされませんでした。
いくら努力しても「神の聖さや正しさに到達した」という実感もなければ、真の平安も、生きる喜びもなかったことを、パウロはここで振り返ります。
その時のパウロに無かったもの、それがイエスを主と信じる信仰でした。
迫害者サウロはダマスコ途上でキリストに捉えられ、キリスト無き人生から、キリストに導かれる人生へという大転換を経験するのです。
このドラマチックな展開は来週の説教に期待しましょう。
3.主にあってこその喜び(1節の冒頭)
かつて、決して満たされることのなかった心が主にあって満たされ、主にあって喜びが満ち溢れてくることを体験し続けたパウロ。
イエスさまを王の王、主の主と告白し、聖書に記されたいのちのことばに生きようとすると、みことばの奥深さに心揺さぶられ、
喜びが満ち溢れる体験を誰もがしていることでしょう。私たちの喜びはどこから来るのでしょうか?
「主」にあって、「キリスト」からですよね。
キリストを知る喜び、キリストと共に生きられる喜び、約束された祝福をこの世界で味わえる喜び、将来が約束されている喜び。
ありとあらゆる喜びが「キリスト」から来ることを心に留め、キリストを知っていることを心から誇ろうではありませんか?
■一緒に考えてみましょう
信仰を持つ前の自分、信仰を持った後の自分の変化について自由に分かち合いましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 2章25-30節
計画が台無しになって
25 私は、私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、
あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。
26 彼はあなたがたみなを慕っており、自分が病気になったことがあなたがたに伝わったことを、気にしているからです。
27 本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼をあわれんでくださいました。
彼だけでなく私もあわれんでくださり、悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。
28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
29 ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。
30 彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。
あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 使命を全うできなかった教会の使者
パウロが投獄されたと聞いたピリピ教会は行動しました。エパフロディトという人を教会から派遣しました。
彼には2つの使命がありました。1つは教会からの経済的なサポート、献金をパウロに手渡すこと。
2つめは、エパフロディトがパウロの日常的なサポートをすることでした。
つまり、彼はパウロのところにそれなりの期間、留まって、パウロを助けることが期待されていました。
しかし、彼は死ぬほどの病気になり、使命を全うできませんでした。
- 「胸を張って帰ることができない」と思っても
死ななくて、本当によかった!と思う人もいるだろうけど、中には、表立っていうのか、陰で言われるのかわかりませんが、
「何やってんだよ」という声が出るかもしれません。
この計画は自分だけでなく、教会にとって重要な計画でした。それを成し遂げることができなかった。周りからの批判も出たかもしれません。
エパフロディト自身も、自分にガッカリしたでしょう。命を投げ出す覚悟だったのにこの結果。
「なぜですか?」という祈りが聞こえてきそうです。
- 志半ばのエパフロディトもイエスを証している
パウロはエパフロディトを「共に働き、共に神の戦いの最前線で命をかけた戦友」と評しました。
期待された役割を全うすることはできませんでした。
でも、命がけでパウロに仕えたその姿は、まさに福音にふさわしい人生だとパウロは評価するのです。
自分のためではなく、人のために、神のために命の危険を冒した彼は、まさにイエスのような生き方を示したとパウロは評価するのです。
「エパフロディト、あなたの奉仕は決して失敗ではない。あなたの心からの捧げものは尊い。わたしはあなたを喜んで迎える」と
主イエスも言われるでしょう。
■一緒に考えてみましょう
・計画が台無しになった時のことを振り返ってみましょう。自分の気持ち、周りの反応、その後、どうなったでしょうか。
・今、その出来事を改めてどう受け止められるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 2章19-24節
自分のことで頭がいっぱい
19 私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。
20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。
21 みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。
22 しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。
子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。
23 ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。
24 また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 自分のことで頭がいっぱい
クリスチャンだから誰もがイエス・キリストのことを求めていたかというと、決してそうではありませんでした。
パウロの周りには、妬みや争い、自分勝手な思いから、イエスを伝える人もいたと書かれていました。
教会はもっときれいな場所であってほしかったのに、汚れた現実を目にしてがっかりすることがあるかもしれません。
でも、もし完全な人しか教会にいられなかったら、誰もここにいることはできません。
正直に神の前に出るなら、神は私たちを受け入れてくださいます。
- 人を心配し、イエスを求める
テモテはあなたがた、ピリピ教会のことを心配しています(20節)。テモテはキリストのことを求めています(21節)。
神を大事にすることは、目の前の人を大事にすることで、目の前の人を大事にすることは、神を大事にすることにつながる。
この相互関係も大事なポイントだと思います。
お互いに別々のものとして取り組むのではなくて、つながっているものとして理解できたら、
神の恵みを毎日の生活の中で、ますます見つけられるようになります。
- テモテのようになろう
テモテはパウロが自分の子供のように愛情を注ぎ、宣教のパートナーとして信頼している人物です。
周りの人が、みな自分自身のことを求めているような時代にも、テモテのような人がいました。
周りがどうであれ、自分のことではなくイエスを求め、教会を心から心配していました。
2章の前半に書かれていたパウロの言葉を実践しているのがテモテです。
この時代にあって、私たちもテモテのようにイエスを求め、人を心配する心をもった人がいました。
■一緒に考えてみましょう
・最近、自分の頭の中をいっぱいにする事柄は何でしょうか。神を信頼して明け渡していない事柄があったら、グループの人と一緒に祈りましょう。
・神を愛することと人を愛することを分断しないで、つなげるためにどんな工夫ができますか。
ピリピ書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書22章31-34節
聖書 ― 人生の鏡に
31「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。
ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 心の余白を作る
忙しすぎて ほほ笑む暇も 愛を与えたり、受けとめたりする暇もない そういう生活になっていませんか?(マザーテレサ)
この言葉に大事なことが詰まっている気がします。私が余白を作りたいと思うのは、こういう理由からです。
余白は余りものではなく、意識して作る必要があります。「余白」はキリスト教の伝統の中でも大事にされてきました。
長年の知恵の一つです。その方法として、今日は聖書を読むことを紹介します。
2. 「取り返しのつかない失敗」とその先
弟子の代表的な立場にあったペテロは、牢屋も死も覚悟はできていますと言いましたが、いざその場面になったら、イエスを否定し、逃げました。
一番大事な場面での大失態。取り返しがつかない失敗です。ちょっとした失敗ではない。
どん底に落ちて、そこからどうやって出たらいいかわからないような失態。
でも、この続きがあるとイエスは言うのです。
3. わたしはあなたのために祈りました
「もう取り返しがつかない」と人には思えるような大失態をしたとしても、その先に道を作ってくださるのが神様です。
イエスはここで祈りましたと言いました。イエスの祈りは実現していきます。確かな力があります。
「とんでもない失敗をして、取り返せないと人は思っても、あなたは立ち直れる。
そして、あなたと同じように沈んでいる兄弟たち、仲間と言う意味です、を力付けてやりなさい。」とイエスは失敗の先に、
神の保証する道を用意してくれました。
イエスを裏切ったペテロだからこそ語ることのできる神の赦しと愛の言葉をペテロは手にすることになるのです。
■一緒に考えてみましょう
- 「取り返しのつかない失敗」だと思ったけど、立ち直ることができた体験はありますか。
- 最近、忙しすぎて、愛を与えたり受け取ったりする余裕がないということはありませんか。
生活を見直す必要があるとしたら、どこから始められるでしょうか。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ピリピ人への手紙2章17-18節
キリストに従う喜び
17.たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。
あなたがたすべてとともに喜びます。
18.同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
1.パウロの願い、牧会者の願い
パウロにとっての「喜び」とはいったい何だったのか?
残念なことに、ピリピ教会でも、一部の信徒たちのねたみや争い、党派心といったものが存在し、教会全体に不協和もたらしていました。
そのようなピリピの信徒たちに、パウロは恐れおののいて自分の救いをを達成するようキリストの弟子として生き抜いて欲しい、
そのためにもいのちのことばをしっかり握り、みことばに生きることによって世の光として輝いて欲しいと願います。
私もパウロのこの思いに共感します。
牧会者にとっての喜びとは、信徒の皆さまがキリストの弟子としてキリストの福音にふさわしく生きる姿を見ることであり、
キリストの教会を建て上げる皆さんお一人おひとりが、みことばに堅く立ち、キリストに喜んで従う姿を見ることです。
そのためにも私はいのちをかけてキリストの福音を語り続けるつもりでおります。
2.伝道者パウロの喜び、牧会者の喜び
Ⅰテサロニケ2:18,19と3:8、およびピリピ2:16や今日のみことばに共通するパウロの喜びとは、
自分を含め、愛する兄弟姉妹たちが、キリストにあって堅く立ち続けること、
いのちのことばそのものであられるキリストと共に生き続けることであることがわかります。
伝道者はそして牧会者は、キリストを主と仰ぎ、キリストと共に生きる皆さんのことを自分のことのように喜びたいし、誇りたいのです。
共に苦しみを味わいながらも、共に困難を乗り越えてきた皆さんのことを喜びたいし、誇りたいのです。
パウロは決して自分の自己実現、自己満足のために教会を建てたわけではありません。従うべきはキリスト。
私たちのために注ぎのささげ物となられたキリストのように、教会も聖くて傷のない捧げもとのして、主の御前に捧げられることをパウロは願ったのです。
3.キリストこそ喜び
パウロは、自分のためではなく、神と人々とに仕える生き方の中にキリストを見いだし、自己実現や自己満足のためではなく、
自己犠牲、自分を主と人々とに捧げていくの中で、師であるキリストを見いだしていきました。
このような体験の積み重ねていったパウロだからこそ、ピリピの教会に存在する、キリストの愛を忘れ、互いに見下し合ったり、高ぶり合ったりする人たちが、
キリストの愛の中に戻れるためなら、供えのささげ物になっても構わない、と自信を持って言えたのでしょう。
キリストが神の愛に満たされていたから自ら喜んで犠牲のいけにえになられたのと同様、
パウロもキリストの愛に満たされていたからこそ注ぎのささげ物になっても構わないと言えたのです。
パウロの喜びはキリストから来ます。私たちだってそうではないでしょうか?
■一緒に考えてみましょう
- 「キリストに従う喜び」に関する実体験をもとに、自由に分かち合いましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 2章14-16節
無駄になるか、報われるか
14すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、
また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。
そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 荒野の生活を思い起こす「不平」
パウロが使った言葉は荒野の生活を思い起こさせます。
イスラエルはエジプトから解放され、最初は喜んで神に従いましたが、次第に不満が溜まり、不満の声をあげるようになります。
一回、二回ではなく、民の不満は何度も何度も繰り返され、結局、神の言葉に信頼しきれなかった民は約束の土地に入れず、
不信仰ゆえに40年間、荒野での生活をしなければならなくなりました。
荒野は、神に従う人の信仰が試される場所であり、先祖たちが失敗した場所です。
そして、聖書では、過去の失敗から学ぶようにと、何度も荒野の教訓が語られます。
- 「不平」を軽く見ない
私たちは不平不満を述べることに慣れすぎているかもしれません。
ヤコブ3:5にあるように、信仰の成熟と、自分の舌(言葉)のコントロールは深く関わっていると聖書は警告しています。
言葉の問題は個人の問題でありつつ、共同体の問題でもあります。私の舌が大きな森を燃やすことになるのです。
たかが噂話と思うかもしれませんが、その「不平」が教会全体を燃やす火になるのです。
- 何を握りしめているか
最後に問いかけたいのは「私が一生懸命に握っているものは何か」です。私を生かすいのちの言葉を握っているでしょうか。
聖書には悪魔という存在が記されていて、悪魔は天使の格好をして巧みに誘惑してきます。
イスラエル民族は荒野で誘惑に負けましたが、私たちの救い主、人となったイエスは荒野の誘惑に負けませんでした。
自分の努力だけでは無理ですが、イエスが一緒にいてくださるならば、私たちは試みの時も、信仰に立ち続けることができるのです。
■一緒に考えてみましょう
- 荒野で試みられ(困難に直面して)、信仰が弱くなった経験、信仰が強められた経験を振り返ってみましょう。
- 私が最近、一生懸命に握りしめているものは何でしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 2章12-13節
あなたの模範は誰ですか
12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、
私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「従順」とはイエスの特徴
パウロがいても、いなくても「従順」でいるようにと記しました。
2:8に同じ言葉が使われていて、そこではイエス・キリストについて記されていました。
従順という言葉は、イエスの人生を象徴する言葉。イエスを模範として生きなさいとパウロは手紙に書いているのです。
続けて、「恐れおののいて」とありますが、聖書の伝統では神をリアルに感じた時、「恐れおののく」と表現されます。
今ここで神の臨在を感じましょう。
- 自分の救いを達成するよう努める?!
ここで学者は、キリスト教というのは神の恵みによって救われるから、人が自分の努力で救いを達成するような書き方は困るんだよなと頭を捻り始めるのですが、そんなに難しいことではありません。
救いを達成するよう努めるとは、あなたが神に愛され、神らしさを映し出す生活を実際に送ることができるんだから、
そのために、あなたにできることをしなさいと言われているのです。
神の働くための「余白を作る」というのはその一つです。
- 神があなたがたの中で働いている
13節でパウロが言いたいことは、あなたがたのうちで神は働いているという面です。
私たちが救いを達成できるように、つまり、神らしさを映し出す生活が送れるように当然、神ご自身も働いてくださいます。
神のみこころの実現を願って、意志を持って、行動できるようにしてくれます。
私たちがイエスのように、神の思いと自分の思いが重なって、一つとなって、福音を映し出す生活ができるように、神は全面サポートしてくれます。
■一緒に考えてみましょう
・私たちの周りにたくさん魅力的に映る模範があるかもしれません。言わされるのではなくて、正直なところ、私の模範は誰なのでしょうか。
・努力で救いを達成することはできませんが、救いのために私たちが努力することはできます。この微妙なニュアンスの違いを自分なりの言葉で説明することはできるでしょうか。
ピリピ書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:マタイの福音書11章28節
重荷をおろせる場所
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 疲れは気づきにくいから、まず休みなさい
一般的に、自分が疲れている、重荷を負っていると自覚することが苦手です。
だから、まずは休みなさいとイエスは私たちを招いています。
あなたの背負っている重荷を下ろしなさいとイエスは言います。
休んで、心にゆとりができて、自分で精一杯だったところから、少しずつ回復してきた時、神様のことがわかるようになります。
神様のことを考える時、神様はどんな目で私を見ているのかなと想像してほしいんです。
2. 神の願いは私たちに愛を示すこと
「神の意志を知るというのは、私たちの生活の中に神の愛がはっきりと示されていて、
それが私たちにぴったりの方法であることを見つけ、受け入れ、肯定すること」これはヘンリ・ナウエンの言葉です。
私たちがイエスのもとで休むとき、神の思いに触れることができるはずです。
神は私に見つけほしいと思っているし、私が神の愛を受け入れられるようにと願っているし、神に愛されていると心の底から納得してほしいと願っています。私たちができるのは、神のスペースをつくり、神の思いに浸る時間を見つけることです。
3. すべてを知って、受け入れてくれる
人には、誰だって、大なり小なり、隠し事があります。誰にでも話せる話題ではないけど、誰かには打ち明けたいと思うことがあるかもしれません。
神は私たちのことを全てお見通しです。神の前に隠し事はできません。
私たちが隠したいと思うのは、これを知られたら嫌われると本能的に察するからだと思いますが、でも、神は私たちを受け入れてくれる。
私たちが苦しんでいることを知っている。だから、私たちはここで重荷をおろすことができるのです。
■一緒に考えてみましょう
・神の前だから、神を信頼して、正直な気持ちになることができます。
悩みを打ち明けることができます。悲しみを告白することができます。
どうやって重荷をおろしてきたか、周りの人と体験談を話してみましょう。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ピリピ人への手紙2章9-11節
高く挙げられるキリスト
9.それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10.それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11.すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.十字架という苦しみの先に
9 節の冒頭にそれゆえ神は、この方を高く上げてとありますが、この方とは「キリスト」のことです。
「それゆえ」という接続詞は、前の内容を受けて次どうなったかということを示しますので、
2 章 6-8 節の内容を受けて、神は、キリストを高く挙げられたことがわかります。
キリストはへりくだり、しもべとして、低くなる生き方を私たちにお示しになりました。その極地にあるのが十字架です。
神を知らない人からすれば誰の目から見ても惨めな死ですが、
神を知る者にとっては、唯一、キリスト・イエスだけが、罪人であった私たちと神さまとの間を隔てていた罪を取り払い、
その尊い血潮でもって私たちが神と共に歩める道を「十字架でもって」切り拓いてくださったことを知っています。
イエスを信じる者はイエスがそのあとどうなったのか知っています。
そうです、復活があり、キリストは天に挙げられ、すべての名にまさる名を与えられたのです。
2.高く挙げられるキリスト
キリスト賛歌の前半部分(6-8 節)の主語は「キリスト」でしたが、9 節以降の主語は「神」に変わります。
キリストを通して、私たちは神を知り、神がすべての主権者であられることを知るのです。
神を知るには、「わたしに従ってきなさい」と招いてくださるイエスさまのあとについていくことが求められています。
キリストの福音にふさわしい生活を送る者は、キリスト者が必ず味わう苦しみに意味を見いだし、
キリストを模範とする生き方を実践する中で平安を見いだします。
それがみことばに生きるということです。
私たちは自分で自分を高めようとする過ちを犯しやすいのですが、
十字架で死なれたイエスは自分の力で墓から出てきたわけではありません。
自分の力で天に上がったのでもありません。「神が」イエスをよみがえらせ、天に挙げられたのです。
3.王なるイエス
イエスが天に挙げられるとは、イエスがすべてのものの王となられたことを意味します。
天にあるもの、地にある物、地の下にあるすべてのものが膝をかがめという表現から、
王なるイエスの支配が及ぶ範囲は、神がお造りになられた被造世界のすべてであることがわかります。
キリストを信じ、王なるイエスと共に生きる者は、キリストを通して、ますます神の恵みの御座へと近づきます。
上ではなく下にまで降りて来てくださったキリストにならい、へりくだって、みことばに生きる私たちを、神は高くあげてくださるのです。
イエスがすべてのものの王であられることを、すべての人が知る日が来たらどんなに素晴らしいことでしょうか?
そのためにも、私たちがキリストの福音にふさわしい生活を送ることでもって、父なる神に栄光を帰することができますように。
■一緒に考えてみましょう
・王であられるイエスは、今のあなたにとってどんなお方ですか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙2章5-8節
神は人の常識に縛られない
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. キリストの思いが私の思いになるように
これまで、次のようなことが述べられてきました。イエスが十字架に向かったように苦しみがある。
でも、神の励ましがあり、神に愛される中で、神の思いと私たちの思いは重なっていく、
そうすれば、私たちの罪の根幹である、自分が神のようになろうとする心、自分勝手な思い、虚しい栄光に心が囚われなくなり、
人を思いやるような生き方に変わっていく。これらはまさにキリストの思い(このギリシャ語は思うだけでなく行動も含みます)そのものでした。
2. 聖書の神らしさは、自分を人に与える
6-8 節は複雑な議論がありますが、まとめるとこうです。
「キリストは神であり、神の威厳や力、栄光を自分のために使うのではなくて、人となり、周りの人に奉仕するために使うことにした。
自分を高くすることを求めなかったし、自分の手にしたものにしがみつくこともしなかった。
利己的な、自分勝手な生き方やこの世界での虚しい栄光を求めるのではなく、人となり、低くなることを選び、
当時、最悪の殺され方である十字架での死にまで従った。どこまでも、自分のためではなくて、他の人のために、周りの人が生かされることをキリストは望んだ。」
3. 強制ではなく、喜んで差し出す美しさ
この生き方は私たちの接している日常の価値観と正面から衝突します。
「なぜ、そこまで人のために尽すのですか。神の威厳があったら、それを見せて、言うことを聞かない人を強制的にひざまずかせたら、いいじゃないですか」
と質問したら、おそらく神様はこう答えるでしょう。
「それじゃ、何の意味もないんだ。誰に強いられたからではなく、自分の心で納得して、人のために差し出すことができる、その美しさを、まだまだ十分に理解してないね」
■一緒に考えてみましょう
・ 私の信仰のピントはイエスの生き方に合っているでしょうか。
また、ずれているとしたら、どのような部分がずれていて、修正が必要でしょうか。
・どのような天からの恵みが今日の私に必要でしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙2章3-4節
自分のことが気になる人へ
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 教会の中にある利己的な思い
パウロを妬んでいる人がいて、党派心からパウロと対立しながら宣教活動をしている人もいると 1 章に書いてありました。
あの「党派心」がこの「利己的な思い」「自分勝手な思い」と同じ言葉です。パウロの時代から、
パウロの近くに、またピリピ教会に自分勝手な思いはありました。
だとしたら、私たちの教会の中に自分勝手な思いがあっても驚きません。
もっとはっきり言えば、多分、私の中に、自分勝手な思い、虚栄、虚しい栄光を求める心があるのでしょう。
2. 「へりくだる」のは奴隷の姿
「へりくだる」というのは日本の文化ですから、違和感なく聞こえますが、当時のギリシャ人にとっては受け入れられない考え方でした。
「へりくだる」とは元々、奴隷のように考えるという意味合いがあります。
奴隷と同じなんて、恥に感じることはあっても、誰も憧れない姿でした。
しかし、イエスは奴隷となったと聖書は記します。誰も憧れないかもしれないけど、
でも、へりくだるところに真理があって、みんなが避けるようなところに宝物が隠れている。
聖書はこの世の常識をひっくり返します。
3. 他人のことも気にかける
「自分のことを考えていても幸せにはなれない」これが聖書の人生観です。
自分を大事にする心は大切です。でも、自分のことばかり考えていると、大事なことが見えなくなってしまいます。
神様の思いを聞こうとするスペースがなくなってしまいます。
一見、反対に思えるかもしれませんが、周りの人のことも考える余白が、幸せに至る道なのです。
神に愛されることが動機となり、神を礼拝し、周りの人を大切にすることができます。
そのような生活が不思議と自分を愛し、大切にすることにつながるのです。
■一緒に考えてみましょう
・利己的な思い、虚栄という思いが、どのような結果をもたらすか話し合ってみましょう。
・聖書に書いてあるルールだから、利己的な思いを捨てなければいけないと思っても、利己的な思いから自由にはなれないでしょう。
ルールに込められた神様の思いを考えてみましょう。
ピリピ書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙2章1-2節
愛されることが原点
1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 苦しみがあるから、励ましが必要だと神は知っている
パウロもピリピの教会も、苦闘を経験していた(1:30)ということが直前に書いてあります。
教会の置かれる状況は、大抵の場合、厳しいものです。
人となられたイエスは、私たちの世界の汚れ、醜さを実際に体験し、最後は十字架で殺されました。
この世界の苦しみや孤独、絶望をイエス様は身をもって知っています。
だからこそ、この世界で神を信じる私たちが直面する苦しみを理解し、私たちには励ましや慰めが必要だってことをよくわかってくださいます。
2. 苦しみに向かい合えるように、励ましがある
苦しみがあるのと同じくらい確かに、神の励ましや慰めがあります。
私たちの感覚からしたら、こんなひどい状況は救いようがないと思っても、
こんな悲惨なところに救いはないと思っても、これだけは確かなのは、神の手が届かないところは決してない。
神の光が届かない暗闇は決してない。
どんなに苦しくても、1 人ぼっちだと思っても、全世界の罪を背負って十字架で死んだイエスは、私たちの隣に来てくれる。
イエスの励ましと慰めは確かです。
3. みこころを求め、一つに
同じ思い、一つの思いになるとは、この世界の価値観を手放して、神の価値観を受け入れていくこと。
私の考えではなく、神の思いを優先すること。みこころが天でなるように、この地で、この場所でなるようにと心から祈り、実際に行動することです。
それも 1 人ではなくて、一緒に。1 人だけでも素晴らしいけど、一緒に手を取り合ったら、
想像できないような、いわゆる「奇跡」を私たちは目撃することになります。
私たちの役割はきっと奇跡を起こすのではなく、神の起こした奇跡を目撃すること。
そして奇跡の証人となることです。
■一緒に考えてみましょう
・「励まし」「慰め」「交わり」「愛」を必要としている人のために祈りましょう。
・一つになることは決して簡単ではありません。その道のりは険しいでしょう。
でも、その先には神様の祝福が待っているはずです。みこころを求め、一つになった体験はあるでしょうか。
説教者:宮﨑 哲郎 神学生
聖 書:伝道者の書 3章1-8,11節
神のなさる時を生きる
1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。
3 殺すのに時があり、癒やすのに時がある。
崩すのに時があり、建てるのに時がある。
4 泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
6 求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
7 裂くのに時があり、縫うのに時がある。
黙っているのに時があり、話すのに時がある。
8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある。
11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. その人が神様と出会う時は神様が定めている
あなたが教会に来だしたのはいつですか。
人それぞれに神様と出会う時期は違って当然なのです。
私たちが神様と出会う時期も神様の定めた時なのです。
そこに、いろいろな人や出来事を用いられる神様の恵みがあります。
2. 「生まれるのに時がある」
すべてのことに神様が定めた時があると聖書は言っています。
私たちの人生の節目にも、神様が定めた時があるのです。
努力や失敗も用いて、神様はその時を知らせてくださいます。
どのような時に神様の定めた時を感じるでしょうか。
3. なぜ、神様の定めた時を意識するとよいのでしょうか。
つらいことの中にも神様の定めた時があります。
つらいことを感謝するのは難しいですが、必ず脱出の道は用意されています。
それを信じることで、神様の定めた時を感謝することができます。
つらいことを脱出した時が、神様が定めた時です。
そのことを思い出すことで、諦めずに神様が定めた時を待つことができるのです。
■一緒に考えてみましょう
人生のいろいろな時の中に、神様が定めた時を感じたことはあるでしょうか。
自分のこれまでの人生を振り返って、その時々にどのような人々や出来事を用いて、神様が定めた時であることを教えてもらったでしょうか。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 29-30節
キリストのために・・・
29.あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
30.かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.キリストの福音にふさわしい生活(27節)
今日のみことばの理解を深めるために、ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい(1:27)、というパウロの勧めについて確認します。
そもそもパウロがいのちがけで宣べ伝え続けた「キリストの福音」とは何だったのでしょうか?「良い知らせ」ですよね。
イエスが私たちの罪の身代わりのために十字架にかかられ、死なれ、三日目によみがえり、天に昇り、父なる神の右の座に着かれた、ということです。
これが何を意味するかと言うと、イエスが「神の国」を治める新しい王として即位された、ということです。
これが「キリストの福音」です。
「キリストの福音」にふさわしく生きるとは、この世の市民として生きるのではなく、
「神の国」の市民として生きること。その際に必要となるたった一つのことは「イエスこそ王である」と告白し、
告白した通りに師であるイエスにならって、一日一日を「神の国」の市民として生活していくことなのです。
2.キリストのために苦しむ(29節)
ピリピの信徒たちや今を生きる私たちが「神の国」の市民だとしても、その「神の国」は今日においても未完成のままです。
地上の目に見えるローマ帝国を、目に見えない「神の国」が覆っていくように願ったパウロは、
あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです、と語ります。
このように語れたのは「キリストの福音」のために苦しむことで、キリストを信じる者に勝利が与えられるということをパウロは体験していたからです。
神の子であられるお方が父なる神から離れて生活していた私たちの苦しみを味わわれるべく、父なる神から見捨てられる経験されたこと。
神の御子がこのような苦しみを味わわれたことをパウロは知っていたから、キリストのために苦しむことは「キリストの福音」にふさわしく生活したいと願う者にとって神から出た「救いのしるし」(1:28)となる、とパウロは書き記すのです。
3.よみがえりのイエスの傷跡(30節)
かつてパウロについてピリピの信徒たちが見たこととは、使徒の働き16章12-34節に見られる、パウロの第二次伝道旅行中のピリピでの出来事だと言えましょう。
また、今、パウロについて聞いているのと同じ苦闘とは、パウロにとっては「キリストの福音」に生き続けたことによりローマの牢獄で苦しみを受けていること。
ピリピの信徒たちにとっては「キリストの福音」に生きようとし始めていたことにより、味わうことになった苦しみです。
しかしそれは、先の見えない苦しみではありません。
キリストのための苦しみであるなら、私たちはそこに意味を見いだせます。
キリストのための苦しみが、苦しみで終わらないのは、よみがえりのイエスのお身体に十字架上での傷跡が残っていたことが、
確かな証拠として私たちの心に訴えかけるのではないでしょうか?
■一緒に考えてみましょう
●苦しみを通して神に近づいたという体験を、自由に分かち合いましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 27-28節
福音を映し出す生活
27 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。
そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。
あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、
28 どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。
そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. やったらいいことは多いけど、必要なことは一つだけ
やったらいいことはたくさんありそうですけど、本当に大切なことはそう多くはありません。
ただキリストの福音を映し出す生活をしなさい。心配はたくさんあったとしても、気にかけるべきことは、本当にわずかです。
ルカの福音書 10:41-42 のイエスの言葉と重なります。
マルタがイエスをもてなすために、一生懸命準備することが悪いのではありませんが、
「必要なことは一つだけ」とイエスは言われました。私たちの心は大事なことに向いているでしょうか。
2. 自分の関心事を認めつつ、神の関心事に焦点を移す
ピリピ教会にとっては、パウロの安否情報は、何よりも大事な情報でした。パウロはそれほど重要な人でした。
教会はパウロに会えたら嬉しいし、離れていたら寂しいし、万が一でも殺されてしまったと知ったらショックの大きさは計り知れません。
パウロが生きて訪問できる見通しを直前できちんと伝えつつ、教会の関心をパウロではなくて、神へと焦点を移します。
「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」と。
3. 揺れる可能性があるから、堅く立つようにと励ます
霊を一つにして堅く立ちなさい。
「堅く立つように」と言わなければいけないということは、裏を返すと、信仰が揺さぶられる可能性があるのです。
教会の内外に課題はありました。
教会の中に目を向ければ、考えの違う人が集まっていますから、一致する点を見つけるのは不可能に思います。
一致する点は唯一、「キリストのうち」であり、ここでは「霊を一つに」と書かれています。
教会の外からの脅かしもあったようです。
難しい場面をいつの時代の教会も通るからこそ、揺るがない神の上に、信仰をもって、堅く立つようにと励まされるのです。
■一緒に考えてみましょう
●今朝、私の心は一番大事なことに焦点が合っているでしょうか。
自分自身の関心事を認めつつ、礼拝の中で、安心できる神様の前で、神様の関心事に焦点を移す作業をしてみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 25-26節
心配ご無用
25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。
26 そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■説教アウトライン
1. パウロはここで死なない
ピリピ教会は不安があり、手紙を送りましたが、パウロが再びピリピ教会を訪問することで、彼らの不安が一転して、
キリスト・イエスの誇りがますます確かなものになるという将来の明るい見通しをパウロは伝えるのです。
この知らせを聞いて、教会はどれほど安心することができたでしょうか。
パウロの厳しい状況は変わりないですが、それでも、神様の責任で将来を保証してくれると知ることができて、どれだけほっとしたことでしょうか。
2. あなたの信仰の前進のため
パウロの身の回りで起こった神の働きの前進がすでに報告されました(1:12-14)。親衛隊に福音が届けられ、
クリスチャンたちが今まで以上に大胆に語るように変えられました。
この「前進」が今度は、ピリピ教会の人たちの身の回りで実現するという将来をパウロはここで伝えます。
今はまだ、パウロは鎖に繋がれて、何もできず、命も危うい状況だけど神の働きがパウロの周りで行われているのと同じように、
今度はピリピ教会の人と一緒に体験できるようになるという神が見せてくださった将来のビジョンをここでパウロは大胆に伝えたのです。
3. この前進は「私たち」の周りでも、必ず
ピリピ教会に対して「福音のパートナーである皆さんの周りでも神様の働きがあるから、
ぜひ一緒に神の働き、あなたがたの信仰の前進と喜びを体験しましょう。待っていてね」とパウロは言っているのです。
これはピリピ限定の約束ではありません。
コロナ禍で鎖に繋がれているみたいな生活をしているかもしれない私たちの身の回りでも、神様は大胆に働きたいんです。
信仰の前進は「私たち」の周りでも、必ず神様は実現してくださいます。
ぜひ、神様の祝福が身の回りに溢れていることに気づくことができるようにお祈りしましょう。
■一緒に考えてみましょう
●心配していたけど、神様が安心していいと答えをくれたような体験はあるでしょうか。ゆっくり思い出してみましょう。
ピリピ書講解
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 21-24 節
生きること、死ぬこと
21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 生きるも死ぬもキリスト
直前の「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」(1:20)という言葉を抜きに、今日の部分は理解できません。
いつ、どこで、何をするにしても、それこそ、生きていても、死ぬことがあっても、イエス様があがめられるように!というのがパウロの姿勢でした。
あがめるとは、文字通りには「より大きくなるように」という言葉。牢獄の中、自分の生死に関心が向きそうな状況で、イエス様にパウロの心は向いていました。
2. 苦難を経て達した感覚
生きるも死ぬもキリストと大胆に述べるパウロ。この境地に至るまでに、彼は多くの困難を通りました。
2 コリント 1:8-11 を読んでみてください。自分の苦しみを知ってほしいと語り、どれだけ厳しい状況だった説明しました。
その経験を通して彼は「自分自身に頼らず、神に頼る」ことを学びました。苦難の中、パウロにも感情の浮き沈みはあったでしょう。
辛いと思うこともあったと思います。そういう苦しい中を、神様の守りの中、通ることによって、信仰は成熟していくものだということを心に留めたいと思います。
3. 「死」はもはや苦しみではない
「死」とは、聖書では最後の敵として登場します。痛み、悲しみ、苦しみの極みが「死」です。
でも、パウロは死を悲惨なものとは理解していません。なぜなら、イエス・キリストの十字架と復活があったからです。
「死」に伴うすべての否定的なものをイエス・キリストが身代わりに引き受け、苦しまれ、そして死を滅ぼして、復活しました。
ですから、イエス・キリストを信じるすべての人は、もう「死」を恐れなくて大丈夫だとパウロは知っているのです。
死はキリストと共にいることであり、平安な場所に変わりました。
■一緒に考えてみましょう
●「生きるも死ぬもキリストがあがめられること」をパウロは求めましたが、今日の私の心はどこに向いているでしょうか。
神様の愛の中でゆっくり考えてみましょう。
●「苦しみを神の守りの中で通り抜ける経験」を思い出すことはできるでしょうか。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 18-20節
私の身によってキリストがあがめられますように
18 しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。
そうです。これからも喜ぶでしょう。
19 というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■説教アウトライン
1.キリストが宣べ伝えられているという事実に心を留めて(18節の途中まで)
ローマの牢獄の中で、心を痛め、苦しんでいたパウロが心に留めたのは、キリストが宣べ伝えられているという事実でした。
自分はあくまでも「主の器」。
ピリピにおいて誤った動機からキリストが宣べ伝えられているとしても、
宣教の最前線におられる神さまがすべてのことを正しく導かれれる、
ということをパウロは自分の身体に染みついている実体験(=主を迫害する者から主を証しする者へと変えられたこと。回心)を思いつつ、語っていることでしょう。
自分の想像をはるかに越えたことを主がこの身を通して体験させてくださる。
パウロは「主の器」として用いられていることを喜び、動機はどうであれ、
キリストが宣べ伝えられているという事実を喜んでいるのです。
2.ピリピの信徒たちの祈りとキリストの御霊の支えられて(18節の途中から19節)
どんな方法であろうと、キリストが宣べ伝えられているという事実がパウロに喜びをもたらしたのは、
パウロにとって、キリストが無視され、キリストが非難されることの方がはるかに辛く感じることだったからでしょう。
ピリピの信徒たちの間で問題があったとしても、キリストが宣べ伝えられているのであるなら、
主の御名で互いに祈り合うことができます。
そしてパウロにとって、ピリピの信徒たちにとって、私たちにとって、祈ることには物理的な距離など問題になりません。
神を知る者、キリストを信じる者が「祈り」でもってつながることのできる幸い。
そこにキリストの御霊が働きます。
離れていても共に祈り合える兄弟姉妹がいるという事実がパウロにとって、
またピリピの信徒たちにとって大きな励みになったのです。
3.私の身によってキリストがあがめられますように(20節)
このときのパウロは牢獄で比較的自由が与えられていたとは言え、
先のことがわからない状況にありました。
キリストを信じる者に対するローマ帝国による迫害が始まりつつあった頃、
そのリーダーだったパウロは真っ先に処刑される可能性もあったでしょう。
当然のことながら、パウロは死を意識していたと思います。
でも20節のみことばを読んでいると、パウロを本当の意味で生かしたお方がどのような生き方を貫かれたか、
その生き方に倣おうとするパウロの思いが伝わってくるように感じます。
キリストこそパウロにとってのすべて。
パウロは伝道旅行をしていた時も、牢獄の中でも同じように「イエス・キリストの福音」を宣べ伝えています。
生き方が一貫していました。周りの状況が変わっても、変わらない神さまを信じて生きられることの幸い。
このような祝福、神の恵みの中に私たちも生かされていることを、今一度、覚えたいと思います。
■一緒に考えてみましょう
自分の身によってキリストがあがめられるような体験談について、自由に分かち合いましょう。
会うにしても、離れているにしても、心を重ねて礼拝できることを覚えつつ
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 15-17 節
教会の中にある妬み
15 人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。
16 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、
17 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。
鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 教会の中で、見たくないものを見てしまう時
イエス・キリストを宣べ伝える人は誰でも尊敬に値するか、というと残念だけど、そんな簡単な話ではない。
結構、ショッキングな告白から今日の話は始まります。妬み、争い、党派心(利己的な心、自分勝手な心)が教会の中にあると言うのです。
神を伝えながらも、人の目を気にして、人と比較することだけに心がとらわれている人が残念ですがいると言うのです。
そういう現実を見ると、がっかりする気持ちになるかもしれません。
2. どこにでも起こるという認識
ここではパウロの周りの出来事として語られますが、このような問題は、どこにでも起こることだとパウロはこの後、語ります。
福音のパートナー、恵みのパートナーとしてパウロを支えるピリピ教会も例外ではありません。
教会の中に妬みがあり、争いがあり、自分勝手な思い、自己中心な思いが教会の中にありました。
ということは、この手紙を読む私たちの中にも、大なり小なり、同じ問題はあるはずです。
大事なのは、見ぬふりをしないで、神の前に差し出す姿勢です。
そして、神の赦しの深さを私たちは体験し、神をあがめるのです。
3. 鎖につながれてもなお、神に立てられている自覚
パウロは鎖で繋がれていてもなお、ここに神によってここに立てられているという自覚を持っていました。
パウロが福音の弁証のために立てられているように、私たち一人一人も、今、この時代、この場所で、神様が置いてくださった場所があります。
そこで神の愛を表すことができますように。
神に赦され、恵みを受け、愛された体験をした人だけが、神の恵みの福音を口先だけでなく、本当の意味で伝えていくことができます。
■一緒に考えてみましょう
●教会の中で、見たくなかったものを見てしまうことがあるかもしれません。その場合、どうしたらいいでしょうか。
●妬み、争い、党派心(利己的な心、自分勝手な心)を神様の前に差し出すとは、どういうことだと思いますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 12-14 節
ピンチもチャンスに
12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。
13 私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、
14 兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. ピンチでも福音は前進中
宣教師として町から町へ福音を伝え、イエスが待ち望んでいた王であると伝えるのがパウロの使命でした。
今、鎖につながれ、身柄を拘束されています。これがパウロの身に起こったことです。
でも、このような状況であっても、神様は福音を前進させている。これがパウロの物事の見方でした。
別に強がっているわけではないし、無理をしているわけでもない。
パウロはこの状況が福音をますます前に進めていると手紙の本論の最初に伝えるのです。
その理由を 2つ述べます。
2. ローマ兵に福音を伝えるチャンス
パウロを捕らえているローマ兵は、仕事上、福音を知ることになります。
福音から最も遠いところにいるであろうと言われる皇帝の軍隊に、パウロの投獄は福音を伝えるチャンスになりました。
とはいえ、変人扱いだったでしょう。おそらく、ほとんどの人は福音そのものには関心を示さなかったかもしれません。
だけど、手紙の終わりの 4:22 に「すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています」という文章があります。
いくつもの解釈がありますが、その一つは投獄をきっかけに福音を信じた人がいたというものです。
3. パウロ以外の人が大胆に語るチャンス
パウロの姿勢を見て、多くの人が、恐れるのではなく、勇気を出して、福音を語るようになったとここに書いてあります。
これは、パウロの時代に限定されることはないと私は思います。
この手紙を読んだピリピの教会の人も燃やされたでしょう。
そして、今の時代にこの手紙を読み、パウロの姿勢に触れる私たちも、同じように、
主にあって確信を与えられ、勇気を出して語ることができるように変わっていく可能性が大いにあると思うのです。
そのために神様は全力でサポートしてくれます。
■一緒に考えてみましょう
●最近の私はピンチでしょうか。少し前でも、ピンチを思い出してみましょう。
● 私のピンチの中で、神様はどんなチャンスを用意してくれたのかを考えてみましょう。
ピリピ書講解
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ピリピ人への手紙1章9-11節
神の愛を祈りに込めて
9.私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
10.あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
11.イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.大切なことを見分けることができますように(9節-10節の途中)
今日のみことばに見られるパウロの祈りの具体的な内容は二つに分けられます。
一つは「大切なことを見分けることができますように」という祈りです。
「大切なことを見分ける」とはどういうことなのでしょう?
そのヒントは、私たちクリスチャンが二重国籍を持っているということを考えてみるとわかるかと思います。
私たちはこの世界を生きつつ、同時にこの世界に「神の国」を見いだし、「神の国」を生きています。
「神の国」の価値観、すなわちイエス・キリストの福音に生きているのです。
イエスを信じ、みことばに養われ、みことばに生き続けていると、どうでしょう?
私たちの生き方は変えられますよね。
神を知る前は、自分の知識や識別力に頼っていたけど、神を知る今は「イエスさまなら、どうなさるだろうか?」と考え、
相手も自分も生かすような平和をつくり出す道を探っていくことでしょう。
この生き方のベースに「神の愛」があります。
2.キリストの日に備えて、神の栄光と誉れが現されますように(10節の途中-11節)
パウロの祈りの二つ目のものは、「キリストの日に備えて、神の栄光と誉れが現されますように」という祈りです。
先の祈りが、今、キリスト共に「神の国」を生きる、というところにパウロの意識が向けられているとしたら、
この祈りは、聖書が約束する「神の国」の完成に意識が向けられています。
今、私たちが神と共に歩むことがゆるされている「神の国」は、イエスさまによって「すでに」もたらされましたが、
「いまだ」完成には至っておりません。だから、苦しみもあるし、悲しみもあります。
しかし、「神の国」の完成の約束は約束されています(参照:ヨハネの黙示録21-22章)。
私たちは、先が見えない不安の中を歩んでいるのではなく、先が見えなくて不安に感じるような中においても、
聖書が約束している確かな希望の中に身を置いています。聖書の世界観の住人なのです。
キリストの日が必ず来ることを知りつつ「今」を生きられる幸いを味わいましょう。
3.パウロの祈りが私たちの祈りになる
私の神学校の恩師のように、神さまが「私たち」を通してどのように働かれるか、ということを大いに期待し、
今日のみことばの「あなたがた」を「私たち」に置き換えて、共に祈りましょう。
私はこう祈っています。「私たち」の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
「私たち」が、大切なことを見分けることができますように。
こうして「私たち」が、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。
共に祈れる幸いに感謝します。
■一緒に考えてみましょう
●「聖書のみことばが自分の祈りになる」体験がありましたら、自由に分かち合い、互いに祈り合いましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 6-8 節
神の働きはもうあなたの中で
6 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、
キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成 させてくださると、私は確信しています。
7 あなたがたすべてについて、私がこのように考える のは正しいことです。
あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証している ときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、
そのようなあなたがたを私は心に留めている からです。
8 私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っている か、その証しをしてくださるのは神です。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 「良い働き」とは天地創造と同レベル
イエス・キリストを信じる人の中で、神は天地創造と同じことを始めるとパウロはいくつも の手紙の中で記しています。
神は、イエス・キリストに信頼する人の中で、天地創造と同じこ とが起こるのです。
混沌とした中に、神の愛を溢れるばかりに与え、愛によって人を根っこか ら変えていく。
その人の抱えている傷、悲しみ、痛み、弱さ、呪い、そういう否定的なもの全 てを神様が受け止めてくれて、
神の愛が流れ込み、癒し、次第にその人から溢れ出し、周りの 人に祝福をもたらす人に変えられていく。
これが「良い働き」がです。
2. 神様が信頼できるので、私たちは安心できる
神の愛が私たちのうちに流れ込んできて、私たちの人生を根っこから劇的に変えるだけでは なく、
さらに、神様の責任で最後まで導いてくれる。劇的に変わったけど、また元に戻ってし まうことはない。
神様が始めたら、神様が責任を持って完成まで導いてくれる。この安心感を 感じてほしいです。
「神の働きは、もうあなたの中で」始まっている。そして、この働きは神が 責任を持って完成させてくださいます。
神様は信頼できるから、私たちは安心できるのです。
3. 苦しい時も、パートナーでいたい
ピリピ教会は、苦しみも一緒に背負ってくれる恵みのパートナーでした。これは本物です。
辛い時、苦しい時が人生にはつきもので、イエス様の人生にも十字架があったし、私たちの人 生にも苦しい時期があると思います。
苦しい時期・辛い時期を含めて一緒に労苦するのが恵み のパートナーなのです。
なぜなら、苦しい中、弱さの中で、神の恵みは私たちに十分であると 知ることができるからです。
神の愛は溢れていることに目を向け、お互いに支え合えたらと祈 ります。
■一緒に考えてみましょう
●神様の良い働きが私の中で始まっているなと思うエピソードを探してみましょう。
●苦しい時に、神の恵みが十分にあると感じたことを思い起こしてみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙1章3-5節
心からのありがとう
3 私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。
4 あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、
5 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. パウロとピリピ教会は福音のパートナー
5節の「携わってきたこと」という言葉は、ギリシャ語の「コイノニア」です。パウロの時代、ビジネスパートナーを、コイノニアと呼びました。
金銭的なリスクをお互いに背負いながら、一緒に仕事をする人がコイノニアです。
「福音」は迫害のリスクもありましたが、「福音」こそ、文字通り、私たちの現実を変えていく神の力であり、
パウロもピリピ教会も自分たちが変えられた事実ゆえに、リスクを冒してでも、福音を伝えることに捧げたのです。
2. パウロの「喜び」を少しずつ理解したい
「喜び」は、ピリピ書の大きなテーマの一つですが、普通の「喜び」と違うようです。
パウロは投獄され、死ぬかもしれないリスクもあり、敵もいるような状況の中で、喜んでいると語ります。
どういう「喜び」なのでしょうか。人生には嬉しいこともあれば、悲しい出来事も起こります。
私たちには全てを理解することはできないですが、大きなところで、神様が治めていてくれる。
神様の手の中にある。私の人生は神の優しい手で守られている。この神への信頼がパウロの語る「喜び」の土台なのでしょう。
3. 神への感謝を私たちも
パウロが全てを思い起こし神に感謝できたのは、この世界に神の恵みが届かない場所はないと知っていたからです。
目の前には、悪があり、どうにもならない難しいことがあり、不自由があり、絶望があったかもしれません。
でも、これが最終的な状況ではないと神が保証していることをパウロは知っていました。この神への信頼が、喜びと感謝を生み出すのでした。
私たちの目の前にも、難しい出来事があるでしょう。にもかかわらず、神への感謝を捧げることができるように。
昨日よりも今日、神に少しでも信頼できる人生を送りたいと願います。
■一緒に考えてみましょう
今日、心からの感謝が浮かんでくるでしょうか。
パッと思い浮かばなくても、少し祈って振り返ってみましょう。
感謝をどのようにして伝えることができるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 1 章 1-2 節
たとえ会えない日が続いても
1 キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスに あるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリ ストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. イエスがしもべとなったので、弟子もイエスのしもべに
イエスの弟子というのは、神の前にひれ伏す、神の奴隷である。
これが神の代理人として、 教会を導く人に求められる態度でした。パウロだけではありません。
12 弟子のペテロ(2 ペテ ロ 1:1)もイエスの兄弟でありエルサレム教会のリーダーとなったヤコブ(ヤコブ 1:1)も自らを イエスのしもべと名乗っています。
すべてのクリスチャンに求められる姿勢と言うこともでき ます。
なぜなら、イエスご自身が神であるのに、しもべになったからです。
弟子の足を洗い、 十字架ですべての人の罪を洗い流した王であるイエスを思い起こしましょう。
2. キリストが住んでいる聖さ
手紙の受取人はキリストの中にいる「聖徒」だと言われます。
「聖い」とは、神に属している (神のこども)という意味と神らしさを映し出す大事な務めを託されているという二つの意味が 込められています。
王であるイエスと一つに結ばれることで、先月、確認したように、神の子 どもとして受け入れられ、人と人との関係が変わり、
あなたの人生で起こったことをイエスの 証人として、この良い知らせを必要としている人に届ける。
聖霊によって聖められた「聖徒」 に託された大切な使命です。
3. 恵みと平安は父なる神と主イエスから
恵みと平安。ヘセドとシャローム。旧約聖書から一貫している神らしさを表す言葉であり、 神からの贈り物です。
永遠に変わることのない愛と言われるヘセド、神の祝福を一言で表すシ ャローム。
これは、どこから来るのか絶対忘れてはいけない。私たちの父となってくださる神 様と、救い主、王であるイエス様から来る。
自分だけで手に入れられるような気持ちになった り、他のものに頼りたくなったりするかもしれないけど、
ここは忘れてはいけないよとパウロ は手紙の冒頭で語るのです。
■一緒に考えてみましょう
聖書の前にひざまずく準備ができているか、それとも自分の都合のいいように聖書を読むか。
同じように聖書を神のことばだと信じていても、結果は全く違います。
誰もが間違えるし、決 して完璧な人生を送れるわけではないですが、
神の前に、礼拝のたびに、ひざまずくことを思 い起こすことは、本当に大事なことです。今日の私はどうでしょうか。
余白のある生活
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:使徒の働き1章8節
バベルの塔からの大逆転
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、 ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. ペンテコステの日に何が起こったか
使徒2章を読むと、弟子たちが一つの家に集まっていたとき、聖霊が彼らの上に現れ、強大な風のような音を立てて、それぞれの上に火の舌のように現れました。
すると、使徒たちは奇跡的に外国語で話し始め、外国のユダヤ人たちは自分たちの母語がガリラヤ人に話されているのを聞いて驚き、注目を集めました。
これがペテロの説教の舞台となり、エルサレムで礼拝を捧げるために集まっていた人たちの中から、約3000人が悔い改め、バプテスマを受けました。
2. 外国の色々な言葉で話した理由
ペンテコステはユダヤの三大祭の一つですので、世界各地に散らされていたユダヤ人や改宗した外国人が礼拝のために集まっていました。
そこで、人々は地元の馴染みのある言葉で福音を聞いたのです。使徒1:8にあるイエスの約束が、この日から実現するというはっきりとした合図です。
この混沌とした世界に愛の秩序をもたらすというイエスの十字架と復活の救いのメッセージが地の果てにまで届けられるという最終局面に入ったということです。
3. バベルの塔と神の壮大な救いの計画
バベルの塔は創世記11章に出てきます。人間の名誉や力、満足することのない欲望、神抜きでできるという傲慢さが表れている出来事です。
この道を進んで行っても決して人は幸せになれないので、神はバベルの塔の建設をやめさせ、新しい神の壮大な救いの計画を始めます。
アブラハムを選び、神の代理人として、祝福をもたらす計画です(創世記12章)。アブラハムからイスラエル民族が誕生し、イエス・キリストへと至ります。
バベルの塔で、言語が混乱しましたが、ペンテコステでは異なった言語で神の救いのメッセージを語られました。
■一緒に考えてみましょう
・私たち一人一人、そして教会として、神の使命を確認することは大切です。
ペンテコステの出来事を読んで、どのような使命を自分のこととして受け取ったらいいでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書13章1-11節
人生の最後まで愛する姿
1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来た ことを知っておられた。
そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで 愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏 切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、 またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
4 イエスは夕食の席か ら立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入 れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、イエス がシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。
「主よ、あなたが私の足を洗 ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からな くても、後で分かるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないで ください。」
イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないこ とになります。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいので す。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切 る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 先生が「足を洗う」という非常識
当時、足を洗う仕事は、家の奴隷の仕事でした。土埃の道を歩いています。履いているのは 簡素なサンダルでしょう。
足は汚れています。汚れた足を洗うということは、最も品位を落と す仕事だったそうです。
家の奴隷の仕事は数多くありますが、誰もが避けたいと思う仕事が足 を洗う仕事でした。
選べる立場にあるなら、誰も、自分から引き受けるようなことはしない。
例えば、ユダヤ人の家だったら、ユダヤ人の奴隷はしないで外国の奴隷がする仕事だそうです。
2. イエスに足を洗ってもらう
「とんでもないです」とペテロみたいに断りたいかもしれません。だけど、恵みは実際に受 けることが大事なのです。
足を差し出し、汚れをイエス様に落としてもらうことに意味がある のです。
「自分で洗えます」と足を引っ込める人は、自分で人生どうにかできると思っているの と同じです。
確かに、自分の汚い部分を、自分の尊敬する師匠、先生に見せるなんて、非常に 恥ずかしいことかもしれませんが、
イエスはこの経験をして恵みを受けるが大事だと教えます。
3. 恵みを受け、恵みを手渡す人に
私たちの人生、思いも寄らない出来事が起こります。
時に、それは言葉にならない悲しみや 苦しみを伴うこともあれば、時に、言葉にならない喜びや感謝に溢れることもあるでしょう。
どのような時でも、私の前にひざまずき、あなたの汚れた足を出しなさいと言って、足を洗っ てくださるのがイエス・キリストです。
このお方は、私たちを最後の最後まで愛し抜いてくだ さいます。そして、「わたしについて来なさい」と足跡を残してくださるのです。
■一緒に考えてみましょう
●「死は自分の存在の消滅を意味するのではなく、むしろその存在を明らかにする道であると信 じているなら、それは人生で最も重要な課題です」(ナウエン)を聞いてどう思いましたか? l
●イエスに足を洗ってもらったような体験を思い出すことはできるでしょうか。
私にとっての神 からの恵みの体験はどのようなものがあるでしょうか。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ルカの福音書24章44-49節
神が約束されたもの
44.そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこう です。
わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなり ません。」
45.それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46.こう言われた。「次のよう に書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47.その名にって、罪の赦 しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
48.あなたがた は、これらのことの証人となります。
49.見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送り ます。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.「神の救いのご計画」と「イエスご自身の証言」は同じ(44 節)
イエスがここで言わんとすることは、旧約聖書全体が「わたし」のことを指し示しているという ことでした。
(例えば、 「イエスの預言者としての役割」については申命記 18 章 15-20 節、
「受難」 については詩篇 22 篇とイザヤ書 53 章、「復活」については詩篇 16 篇 9-11 節とイザヤ書 53 章 11-12 節を参照)。
聖書全体に記されている実に壮大な「神の救いのご計画」をイエスは「受 難と十字架、そして復活」でもって成し遂げ、
そのことを聖書から解き明かしたのです。だから、 私たちも聖書のみことばを味わうとき、
みことばそのものであられるイエスからの語りかけを聴こ うとする姿勢が大事になります。
主を信じる心が問われているのです。
2.私たちの心を開くイエス(45-48 節)
弟子たちは「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり」という内容を、生前 のイエスから何度も聴いていましたが、
その真の意味は隠されていました。しかし「このとき」弟 子たちの目の前に「よみがえりの主」がおられ、
そのお方から「心を開いて」いただいております。 目の前のお方のみわざを通して聖書のみことばが成し遂げられたことが、
弟子たちには「事実」と して心に迫ったことでしょう。物語はここで終わらず、イエスはみことばの成就に加え、
「ご自分 の名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、
とこれか ら起こる新たな展開を語り、その使命を弟子たちに、そして私たちに託すのです。
3.わたしの父が約束されたもの(49 章)
ここでイエスが言われた、「わたしの父が約束されたもの」こそ「聖霊」です。
神の霊であり、私たちを聖書の世界観へと導き、私たちの人生を本当の意味で導かれるお方です。
イエスを信じ、 世界の見え方や捉え方が変わったのは、聖霊なる神さまに導かれ、
私の人生が「神の救いのご計画」 の中にあることを知ったからに他なりません。
今、「神の国」を生きているという実感を与えるの が聖霊なのです。
聖霊なる神さまに導かれて、聖書を読むと、そのことばは単なる字ずらではなく、
イエスのいのちが宿った「いのちのことば」であること、私たちを生かすおことばであることがわ かるでしょう。
■一緒に考えてみましょう
あなたにとって聖霊の導きだと感じる出来事を思い出し、数え上げてみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:エペソ人への手紙2章14-22節
人間関係にキリストの平和を
14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉 において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。 こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされ ました。
17 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平 和を、福音として伝えられました。
18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊 によって御父に近づくことができるのです。
19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人で も寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
20 使徒たちや預言者たち という土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。
21 このキリスト にあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。
22 あなたがたも、 このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 神と人の平和が人と人をつなぐ
パウロの手紙を読んだ最初の読者にとっては、2 つのものを 1 つにするというのは具体的に は、
ユダヤ人とギリシャ人、2 つの民族がイエス・キリストを信じ、一つになることでした。
文化も言葉も何もかも違う人たちが一緒にやっていく。想像するだけで、トラブルだらけで大 変だろうなと思います。
イエス・キリストが神と人との間に平和をもたらしたのは、人と人が つながるため、一つになるため、神の愛が人と人との間をつなぐためなのです。
2. 教会は建物ではなく、人と人のつながり
土台の要の石はイエス・キリストで、その上に建物が組み合わされていきます。
この組み合 わされるパーツが私たち一人一人なのです。
元々は全然違うタイプの人たちがお互いの間に壁 を作るのではなく、壁を壊して一つとなり、一つのからだ、一つの人間、一つの教会が神によ って創造されます。
教会とは、建物ではなく、人と人のつながりだと言われるのは、このため です。
人と人とが一つになるとき、そこには聖霊の助けがあり、神の住まいとなります。
3. 現実の教会が理想とかけ離れていることに失望する時
21節を思い出してください。日本語の翻訳だと読み取りづらいのですが、この文の中心とな る動詞は「成長する」です。
「現在、成長中」と言ったらニュアンスが伝わるでしょうか。教会 は、すでに完成して、完璧な状態だとは書いていません。
当時の教会が人種の違い、男女の違 い、社会的立場の違いを乗り越えようとしたように、今の私たちも成長中、工事中、
人と人が 神様によって一緒に組み合わされている途中。
まだ道なかば。この道では簡単ないとわかって いたパウロは、手紙の後半でできる限りの努力を勧めます。
ぜひ4:1-6を読んでください。
■一緒に考えてみましょう
あなたはどちらに近いですか?
ある人は神の国生活を始めたばかりで、新しい価値観に馴染む のに時間を必要としています。
別の人は、新しい人を受け入れる中で元々のルールの変更を余 儀なくされ、ストレスを感じることがあります。
一つになるために聖霊の助けが不可欠です。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ローマ人への手紙8章12-17節
私が神の子に
12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。
肉に従って生きなければならないという、 肉に対する義務ではありません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになり ます。
しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
14 神の御 霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊 を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。
この御霊によって、私たちは「アバ、父」と 叫びます。
16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証しして くださいます。
17 子どもであるなら、相続人でもあります。
私たちはキリストと、栄光をとも に受けるために苦難をともにしているのですから、
神の相続人であり、キリストとともに共同相続 人なのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 「愛されたい」「認められたい」「評価されたい」
このような欲求を満たすのは、「肉」 (人間の根本的な欲求)に従うのがいい!とこの社会は 言うかもしれません。
一時的な満足感を得られたとしても、欲望のままに生きて、永遠へと続 く安心感、満足感を手にしている人はどれくらい、いるのでしょうか。
欲望に導かれるまま進 む先は、「死」だと聖書ははっきり書いています。
神様に信頼し、聖霊によって欲望に抵抗する 力をもらうことが本当の意味で、欲求を満たすこと、生きる道なのです。
2. 家での自分で神と親しくなる
15 節の「この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます」という部分に注目します。
「アバ」というのはアラム語で、イエスの時代、話し言葉として使われていました。
イエスが 「アバ、父」(マルコ14:36)で祈っているように、イエスと父なる神様との関係と同じような 関係に私たちも招かれています。
アバという言葉は、父親を意味しますが、「パパー」と呼ぶよ うな親しさが表現されています。
家の中でプライベート空間で親と親しく話すイメージです。
3. 聖霊が「神のこども」と保証する
御霊ご自身が、私たちが神の子供であることを証ししてくださいます。
「あなたは神に愛さ れている」「神に受け入れられている」「神のこどもだよ」と御霊ご自身が私たちの霊と共に保 証してくれています。
この声を、今日は受け止めましょう。「お前が神の子になれるわけない」 って言ってくる人がいるかもしれませんけど、神ご自身が言われます。
「あなたは神の子ども」 だと。神に愛され、受け入れられています。格好つけなくて大丈夫。そのままのあなたのまま で、あなたは神の子どもなのです。
天のお父さんが、苦しい時も共にいて支えてくださいます。
■一緒に考えてみましょう
「アバ」を自分の母語に訳してみましょう。私にとってしっくりくる、親密さを込めた神様へ の呼びかけ方は、どのような言い方になるでしょうか。
後でこっそりその言い方で、お祈りし てみてくださいね。
余白のある生活
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ルカの福音書 24章28-32節
心の内から熱くわき出る想い
28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、
30 イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
31 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
32 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.二人に強く勧められて一緒に泊まるイエス(28、29節)
13節から始まる「エマオ途上での物語」には二人の弟子が登場します。
エルサレムからエマオまでの道のりは約11キロ、歩くと2時間30分くらい。そこにイエスが加わり、三人は歩きながら語り合います。
しかし、二人の目はさえぎられていて、相手がイエスであることに気づきません。
話はしだいに盛り上がってきたのか、目的の村の近くにきて、二人はイエスに「一緒にお泊りください」と強く勧めます。
日も傾き、夕方になってきました。夜、旅をすると盗賊に襲われる危険もあります。
しかしそれ以上に、二人がイエスに泊まることを強く勧めたのは、「もっとこの人と一緒に話をしたい」という気持ちに変えられていったからではないでしょうか?
2.心の目が開かれて(30、31節)
30節を読んでいて不思議に思うのは、客人イエスが食卓を取り仕切っている点です。
これはいったい何を意味するのでしょうか? 二人にとって見覚えのある光景です。
二人は5千人の給食の場面(ルカ9:16)や「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください」(ルカ11:4)というイエスから教わった祈りを思い出したのではないでしょうか?
「この体験、初めてではない.」 という感覚は心と身体が覚えています。
この食卓の場面において、はじめて、二人は、かつての師イエスとその弟子という関係に戻ることができたのです。
心の中にしっかり本物のイエスがおられれば、その姿は見えなくてもいいのです。
3.心の内から熱くわき出る想い(32節、参照13-27節)
二人は、エルサレムからエマオへと向かう道で出会った復活の主との時間を、何度も何度も、思い巡らしたことでしょう。
イエスの声を聴き、聖書のみことばを通して、イエスと対話する。
聖書を読んで、自分が思っていること、考えていることをイエスの前に差し出し、
みことばそのものであられるイエスに、自分の誤った解釈や、間違った思い込みをなおしていただく。
実は、このやり取りが、エマオ途上で、二人の弟子と師であるイエスとの間でなされていたのです。
「受難と十字架」で終わらず、「受難と十字架」の先に「復活」がある、ということをイエスは十字架にかかられる前から語り続けてきました。
ただ、誰もそのことを信じられなかったのです。しかし、「聖書に何が記されていたか」ということを、二人は復活のイエスを信じることによってはじめて理解します。私たちの心の内に熱くわき出る想いが生じるのは、よみがえられた主が、いつまでも私たちと共にいてくださる、ということを信じられるからではないでしょうか?
■一緒に考えてみましょう
- あなたにとって「復活」とは何ですか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書 7章37-44節
水を得た魚のように
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。
「キリストはガリラヤから出るだろうか。
42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。
44 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「渇き」は生活の必要も、心の渇きも
仮庵の祭りは過去の救いの出来事(出エジプトと荒野での生活)を記念するだけでなく、祭りに参加した当時の人の「今」の関心事とも結びついていました。
雨を求める祈りがなされ、新しい年の収穫のために祈りました。生活の必要は切実です。
水をくださいと祈る祭りの1番大事な日に、イエスは言われました。「渇いている人はわたしのもとに来なさい」と。
「渇いている」には生活の必要も含まれますし、心の飢え渇きも含まれます。
誰でも、渇いている人は、イエスのもとに招かれているのです。そして生ける水の川を体験することができます。
- 「生ける水の川」は聖霊のこと
復活したイエス・キリストは、弟子たちに向かって「息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)
本来、神に造られた人間は神の息(霊と原語では同じ言葉)を受けて命を得ました。
しかし、今、私たちは「渇く」のです。それは人が神から離れた結果です。
人は神の言葉を信じず、蛇の言葉を信じ、自ら神になろうとして神を裏切りました。
神との関係を人間がぶち壊したのです。
イエスが約束した聖霊は、再び神との関係を回復し、本来の姿に、生き生きとした姿へと変えてくださいます。
- 「水を得た私」を目指して
「水を得た魚」のように「聖霊を受けて、生き生きした私」というイメージで「水を得た私」を目指したいというのが2020年度の基本方針です。
エゼキエル47章で描かれているように神殿から流れ出る水が死海をも回復させ多くの魚が生息できるようにするならば、
私たち一人一人の心の奥底から流れ出る水は私のみならず、私たちの周りの人の人生を大きく変える特別な力があります。
これが私たちに与えられた聖霊の力です。「水を得た私」を楽しみましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 私は今日「渇いている」のでしょうか。イエスは「聖霊を受けなさい」と言われます。私たちは聖霊をください。
枯れることのない命の水(生ける水)をくださいと求めましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書20章19-23節
怖いけどハッピーイースター
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。
すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 復活は「死後の希望」
「平安(シャローム)があなたがたに」とイエスは語り、手と脇腹を弟子たちに示されました(19-20節)。
十字架の傷跡を確認し、目の前のイエスが復活のイエスだとわかり、弟子たちは喜びます。
イエスが復活したということは、イエスが死によって滅ぼされたのではなく、イエスが死を滅ぼしたということです。
死はこの世界で絶対的な力を持っていますが、決して死で終わらない、復活という希望があると聖書は大胆に証言するのです。
2. 復活は「今の希望」
イエスの復活は死後に関係するだけではありません。今の私たちの生活に大きな希望をもたらします。
イエスと共に十字架に古い自分を捨て、新しい人生、罪に支配されるのではなく、神の愛に捉えられる人生を始めることができるからです。
この希望は自分のためだけでなく、周りの人の祝福につながります。
なぜなら、父なる神がイエスを遣わしたように、イエスの救いを体験した私たちはイエスによって遣わされるからです(21節)。
神の救いを体験した人は、この希望をまだ神を知らずに迷っている人、困っている人のところに届ける使命を託されます。
3. 復活は「新しい創造の始まり」
復活が週の初めの日曜日なのは、新しい天地創造の第一日目という意味があります。
イエス・キリストの復活によって混沌とした世界に神の愛の秩序が始まりました。
私たちは誰も、もう死を恐れなくていい、罪に怯えなくていい、過去の傷や恥に心配しなくていい。
なぜなら、イエスが全てを精算したからです。
不安に押しつぶされそうだとしても、イエスはそういう私たちの真ん中に来て、イエスは言われます。
「あなたの罪は赦された。安心していきなさい。平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
■一緒に考えてみましょう
・イエス・キリストの復活を証明することはできないかもしれません。しかし、証明が不可能だけど本当に大切なものが世の中にはたくさんあります。
何が思いつくでしょうか。
・復活は聖書の中心的な出来事であり、中心的なメッセージが込められています。あなたは復活をどう受け止めていますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書19章1-16節
恥も外聞もない
1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。
2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。
3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。
4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。
「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。
ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」
7 ユダヤ人たちは彼に答えた。
「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」
8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。
9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
10 そこで、ピラトはイエスに言った。
「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11 イエスは答えられた。
「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」
12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。
「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」
13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。
ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」
15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」
ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」
祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」
16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 聖書の「恥も外聞もない」恥も外聞も無いは「恥ずかしいと思ったり,人の目を気にしたりということがない。」という意味です。
神に対して、恥も外聞もなくなる。神に対して、恥ずかしいと思ったり、神の目を気にしたりということがない。これが聖書のいう罪です。
ユダヤ人指導者にも、十字架で殺すことに同意したピラトにも当てはまります。
そして、私たちが自分たちに問うべきは、「神に対して恥ずかしいと思ったり、神の目を気にしたりしない」という感覚があるかどうかです。 - 恥も外聞もない「ユダヤ人」
神殿に仕える祭司の中の選ばれた人たちが祭司長ですが、祭司長たちが「カエサル(ローマ皇帝)のほかに私たちに王はありません」と発言したのです。
神だけが王であるという信仰がイスラエル人にとって決定的に大事だったにも関わらず、
神を王とせず「ローマ皇帝の他に私たちに王はありません」と言ったのです。
イエスを殺すために、神を捨てたのです。このやり取りに人の弱さ、汚れがはっきりと映し出されています。 - 恥も外聞もない「すべての人」のために聖書はイエス・キリストを子羊と呼びます。子羊というのは神殿で、罪の償いとして殺される動物のことです。
人の罪の身代わりに殺される子羊がイエスなのです。
イエスはユダヤ人の殺意によって殺されますが、聖書が語るのはイエスに力がなくて殺されたのではなく、
自分の使命を理解して、自ら十字架に向かっていかれたということです。■一緒に考えてみましょう
・あなたの権威はどこから来ていると日頃から考えているでしょうか。
・この出来事は私たちに問いかけます。あなたはこの十字架をどう見ますか。あなたは神の十字架に示された恵みを受け取りたいですか。
余白のある生活
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書9章35-41節
誰にも理解されなくても
35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。
「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。
「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
37 イエスは彼に言われた。
「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
39 そこで、イエスは言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。
「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。
しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. インターネット越しであろうと神は働く
いつになるかわかりませんが、礼拝堂で一緒に礼拝を再開する日、きっといつも以上に、神の働きをリアルに感じる人が大勢出るだろうと思います。
だけど、インターネットを通して、この画面越しという制約があっても、神は確かに働きます。
「その人は誰ですか。主よ、私はその人を信じたいです」という率直な求めがイエスに向けられるとき、
イエスは私たちの目を開いてくださり、真実を見ることができるようしてくださいます。
2. 同じ体験はできないけど、私にぴったりの経験はできる
この彼と同じ体験は誰もできません。ですが、目が見えるようになった彼の人生を変えた神様が私たちの神様で、
この人を変えたように、私たち一人一人がそれぞれにぴったりの方法で神様は人生を変えることができます。
もっと言えば、神はすでに触れているはずです。牧師になって、何人もの信仰告白に立ち会ってきましたが、
私のところに来る前に、神様はその人に触れておられるし、神の愛はすでに注がれていました。
私がすることは、神様がすでにしてくださっていることを見つけるお手伝いです。神様の個性に応じたアプローチに注目です!
3. まさか私たちも盲目なのですか?
パリサイ人とは違うと思っているうちは、私たちはパリサイ人と同様に盲目なのです。
神と一緒にいると信じていますが、実際は光の近くにいないのです。
どれだけ自分が汚れているかはわからないのは、光の方に来ていないからです。
イエスが問題にしているのは、罪があるかないかではありません。誰もが罪にまみれています。
信仰が深まれば深まるほど、罪から清められていくと同時に、罪にまみれているという自覚も深くなっていくのではないでしょうか。
■一緒に考えてみましょう
- クリスチャンの数だけ、信仰のストーリーがあります。目が見えずに生まれてきた人の目が開かれたように、私に特別にしてくださったことがあります。
人生の難しい局面であっても、そこで神の光を見出すことができるでしょう。
説教者:渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ヘブル人への手紙4章14-16節
遠慮しないで神に近づこう
14.さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神のイエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15.私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
16.ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.私たちには「神の子イエスという偉大な大祭司」がおられる(14節)
この手紙の読者の多くは、ユダヤ教から離れてクリスチャンになった人々で、彼らは、当時、ローマ皇帝による迫害を受けていました。
一方で、当時のユダヤ教はと言うと、ローマ帝国において公に認められていたこともあり、ユダヤ教徒は迫害される心配がなかったのです。
なので、ヘブル書の読者たちの中には、厳しい迫害から逃れるために、ユダヤ教に戻ろうとしていた人がいたことが考えられます。
そのような状況において、ユダヤ教に戻るという誘惑に負けないで、「信仰の告白を堅く保とう」と促したのがヘブル書の著者でした。
この著者は、私たちの拠り所とすべきお方こそ「神の子イエスという偉大な大祭司」であり、そのお方が私たちと共におられると高らかに主張するのです。
2.私たちの同じように試みにあわれた主(15節)
私たち一人ひとりのことを本当の意味で同情してくださるお方は、神であられるお方だけです。
その理由は、私たちの大祭司であられる神の子イエスは、15節の後半にあるように、
罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたことからわかります。
イエスはサタンの試練をみことばで退けました。私たちはサタンの誘惑に打ち勝つことができるでしょうか?
なかなかできませんよね。私たち人間は、自己中心の罪からなかなか離れられない存在であり、サタンの誘惑にいとも簡単に負けてしまう弱さがあるのです。
しかし、イエスさまはその弱さを持った私たちのことをそのまま受け止めてくださるお方です。
イエスこそ、サタンに打ち勝つ「みことば」そのものであり、「わたしがいつまでもあなたとともにいよう」、と約束してくださるお方なのです。
3.遠慮しないで神に近づこう(16節)
私たちの信じるお方は、心の底から私たちのことを同情してくださるお方です。弱さに寄り添ってくださるお方です。
私たちをそこに留めようとする過去の思いや記憶を捨てるように言われ、これからはずっと「私があなたと共にいる」と約束してくださるお方です。
それでしたら、私たちは主のあわれみを受けようではありませんか?
主の恵みをいただこうではありませんか?
折にかなった助けを受けるために祈ろうではありませんか?
そして、大胆に神がおられる恵みの御座、主イエスの恵みが満ち溢れるところに近づこうではありませんか?
■一緒に考えてみましょう
- 遠慮しないで神に近づいていると思える時、それはあなたにとってどんな時ですか? どのような点で神さまとの近さを感じますか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書9章24-34節
心の盲目
24 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。
「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。
「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26 彼らは言った。
「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」
27 彼は答えた。
「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28 彼らは彼をののしって言った。
「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。
29 神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」
30 その人は彼らに答えた。
「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。
31 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
32 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
33 あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」
そして、彼を外に追い出した。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 「信仰」という名の圧力
ユダヤ人宗教指導者たちの権力は絶大でした。彼らはこのあと、イエスを十字架で殺すところまで追い込みます。
それができる立場にいました。そんな彼らが盲目で生まれた人を取り調べするのです。
「神に栄光を帰しなさい」とまるで盲目で生まれた人が偽りを言っているかのように迫り、
「イエスは罪人だと知っている」と宗教指導者としての見解をはっきりと示すのです。
前回、両親を追い詰めた圧力が、目が見えるようになった彼にかかっているのです。
2. 濁った目で物事を判断する
パリサイ人はモーセの弟子だと自認していました。神はモーセに語り、律法と呼ばれる神のルールが与えられました。
だから、パリサイ人たちは、モーセが受けた律法を文字通り守ることに命をかけていました。
ですが、神を愛し、人を愛するという律法のど真ん中にある神の心を理解することはできませんでした。
本当にモーセの弟子だったら、イエスのしているが理解できたはずなのです。
しかし、彼らはイエスは罪人だと決めてかかり、目が見えるようになった人の証言に耳を傾けることをせず、イエスの共犯者として、彼を追放しました。
3.空っぽの手を差し出す
このユダヤ人たちは彼らの価値観で神の思いを勝手に判断しました。自分たちは正義で、イエスは罪人だと決めつけたのです。
彼らは自分は見えていると確信していたのです。真理にたどり着くヒントは目の前にありましたが、彼らは耳を傾けようとは決してしませんでした。
彼らは権力を持っていました。立場を持っていました。
でも、1番大切な神への姿勢、神の前にひざまずき、空っぽの手を差し出すことをしませんでした。
■一緒に考えてみましょう
- 私たちは神の前にひざまずき、空っぽの手を差し出すことができるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書9章18-23節
親も守ってくれない時
18 ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、
ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19 尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」
20 そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。
21 しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。
本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」
22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。
23 そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 「怒り」に支配されたユダヤ人指導者
パリサイ人は「怒り」に支配されていました。ヨハネ5章で安息日の規程を破ったイエスに対し怒り、迫害が始まりました。
中には、真理がどちらにあるか迷う人もいました。
ですが、決してイエスを擁護する人たちは多数派にはならず、
9章に至るまでには、パリサイ人たちがイエスを殺そうとしていることは一般の人たちにも知れ渡っていました。
怒りに支配されたパリサイ派、ユダヤ人指導者たちは、神の働きを全く見ようともしませんでした。
2. 「恐れ」に支配された彼の両親
この両親は、どこを見ていたのでしょうか。神様のなさった奇跡に目を留めたのでありませんでした。
イエスが目を開く前に言われた言葉を両親にも聞いてほしかった。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」イエスはそう言って、彼の目が見えるようにされたのです。
息子が罪人と言われ苦しんでいたように、両親も苦しんでいたはずです。
神がその苦しみを取り除いてくださったのに、両親は見ようとしなかった。
彼の両親が見ていたのは、神ではなく、人でした。人を見て恐れたのです。
3. 十字架に向かう受難節と正面から向き合う
受難節とは、イエス・キリストが十字架に向かっていく日々を意識する40日間です。
今日はイエスを罪人にしたい人たちと、この世の権力を恐れる人たちの会話でした。
救いがないというか、光が見えない場面です。「怒り」と「恐れ」が今日の聖書に表れていました。安らぎも平和もありません。
これが私たちを取り巻く現実であり、聖書は決してこの世のこういう部分を否定しません。だけど、と言葉が続きます。
イエスは言われました。「わたしは世の光です」神の言葉には力があります。現実を変える力があります。だから、信じられるのです。
■一緒に考えてみましょう
- 今日の私は「どこを見ているか」と自分自身に問いかけてみましょう。
- 厳しい現実がありますが、イエスの光に照らされたいと願うことはあるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書 9章13-17節
神は時に常識を超える
13 人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。
15 こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。
彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。
16 すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。
ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。
そして、彼らの間に分裂が生じた。
17 そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。
「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」
彼は「あの方は預言者です」と答えた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イエスは神に背いたと周りの人は判断した
「安息日を大事にしなさい」と聖書にあります。神様のルールです。
「安息日には働かないよ」これも神様のルール。みんな、よくわかっていました。
ただ、実際に生活してみると、どこまでは安息日にしてもいいのかと考え始めると、判断は難しいだろうと想像できるでしょう。
そこでパリサイ人(聖書のプロ)が、ガイドラインを作りました。
イエスはこのガイドラインを破りました(癒した、泥を作った)。
「ガイドラインを守る=安息日を守る=神に従う」と考えていた当時の人たちは、奇跡を喜べず、問題が起こったと感じ、取り調べが始まりました。
- 人間の決めたルールに過ぎないという可能性
意見が分かれますが、声が大きい人たちはイエスを有罪と決めたいグループでした。
自分たちは神様の定めた安息日を尊重し守っているが、イエスは安息日を破り神に背いていると確信していました。
実は彼らが必死に守っていたのは、人間が定めたルールでしたが、それに気づかなかったのです。
この状況を私たちも、軽く見てはいけないと思います。
もしかしたら、私たちも人間のルールに縛られ、神の本質を見誤っているかもしれません。
いいえ、私たちも必ずそういう面があるのです。私の目は見えているかと9章全体で繰り返し問われます。
- 自分の体験を偽らない勇気
生まれた時から罪人と陰口を言われ続けた生活から解放され、目が見えるようになった彼。そんな彼の口から出てきた言葉は「預言者」でした。
預言者というのは、神の言葉を神に代わって語る、神の代弁者のことです。
「預言者」は彼の中では、最高級の表現でした。
そして、預言者と告白することは、パリサイ派の人たちと真っ向から対立する答えだということも彼はわかっていたでしょう。
何度も問われ、圧力をかけられても、彼は自分の考えを表明しました。自分の体験を偽りませんでした。
■一緒に考えてみましょう
- 神様の導きがわかりにくくて迷う出来事はあるでしょうか。
- 簡単に答えを出すよりも、そこで立ち止まり、悩むゆとりが必要かもしれません。
余白のある生活
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書 9章1-12節
「誰が悪いか」ではない道
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
11 彼は答えた。
「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 負い目を感じながら生きてきた
生まれつき目の見えないこの人は、ずっと罪意識を押し付けられてきたんだと思います。
ずっと負い目を感じながら生きてきました。周りからは、罵られ、家族からも邪魔者扱いされていたかもしれません。
今回の弟子たちの一言。「あの人が目が見えないのは、誰の罪ですか。誰が悪いのですか。」
すでに何百回も繰り返された問いかけだったことでしょう。
彼の心は、硬く閉ざされていて、そういう言葉にいちいち傷つかなくなっていたかもしれません。
- 神は暗闇を照らす光
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」というイエスの言葉がどう彼に響いたでしょうか。
「わたしが世の光です」(5節)とイエスは言葉を続けます。
この世界の隅に追いやられ、誰も信頼できないと思っている人たちのところに行き、
神の愛は決して裏切ることがない、信頼して大丈夫だということを語り、また、行動で示しました。
神のわざとは、罪の束縛からの解放ですが、この世は何も信頼できない・救いなんかないという運命にあるような人に、イエスは神のわざを明らかにするのです。
- 新しい創造、愛の支配が始まる
イエスが自分を光と表現したことも天地創造の神と重なりますが、「泥」という言葉も創造のキーワードの1つです。
目の見えない人に塗った「泥」という言葉は創世記2:7の神が大地のちりで人を形作ったという、あの「ちり」と同じギリシャ語です。
つまり文字通り、イエス様はここで、新しい創造、新創造を行われたのです。
目の見えない人に、光を与えました。混沌とした希望の失われた現実にイエスは希望を与えました。
彼はそれを信じ、目を洗いました。
■一緒に考えてみましょう
- 「誰が悪いか」と思っている出来事はあるでしょうか。そこに神の別の道はあるでしょうか。
- あなたにとって、神によって目が開かれたと思うような出来事はあるでしょうか。
説教者:髙橋 和義 牧師
聖 書:マルコの福音書10章45節
生かすための死
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:`渋谷 昌史 伝道師
聖 書:ヘブル人への手紙4章11-13節
神のことばは生きている
11.ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
12.神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、
心の思いやはかりごとを見分けることができます。
13.神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。
この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.「第一の出エジプト」と「第二の出エジプト」
ヘブル書3章から4章11節のみことばの間には、旧約聖書にみられる「出エジプト」の出来事と、
新約聖書におけるイエス・キリストによる救いの出来事が比べられています。
神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放されたことを「第一の出エジプト」と言うのに対し、
イエス・キリストが私たち人間を罪の奴隷状態から解放された救いのみわざのことを「第二の出エジプト」と言われます。
私たちがここで注目する「第二の出エジプト」は一度限りの完璧なみわざでした。
その完璧なみわざにより、イエスを信じるわたしたちは「神の子」「神の民」とされ、「神の国」へと招き入れられ、
いつまでも神と共に歩めるという「神の安息」が与えられたのです。
2.神の圧倒的なまでのゆるし
神のことばが生きていて、力があるとはどういうことなのでしょう?
それは、いのちある神のことばが、私たちを罪の告白へと導くこと。
そして、それに基づく神のゆるしが完全なものだということを、聖書は、日々、私たちに教えてくれるからではないでしょうか?
その完全さがどれほどのものか?
私たちは人からされた嫌なことを、そう簡単にゆるせる存在ではありません。
ところが神さまのゆるしはどうでしょう?
ルカの福音書15章にみられる「放蕩息子のたとえ話」を思い起こすと、神さまのゆるしとは、
私たち人間が他人をゆるそうとする思いとは別次元にあることを思わせます。
その別次元のゆるしを私たちはいただいているのです。
イエスの十字架のみわざは、完全なる罪のゆるしであり、私たちは徹底してゆるされているのです。
3.神不在の世界観から神中心の世界観へ
生きて働く神のことばによって明らかにされることは、聖書の世界観でしょう。
かつて、私たちは誰もが神を知らない世界で生きていました。
しかし、私たちの人生の中にイエスが飛び込んで来てくださり、このお方を信じることによって、
私たちは、この世界が神がお造りになられた世界だったことに気づかされます。
この視点の変化は、「第二の出エジプト」を成し遂げられたイエスを信じることにより明らかにされます。
そして、その救いが完全さゆえに、私たちは、神さまにゆるされているからこそ生きられる存在であることを知ります。
私たちは神の御前で申し開きすることしかできない存在です。
しかし申し開きできるようになったからこそ、「神の安息」の中で生きられるようになったのではないでしょうか?
■一緒に考えてみましょう
- 神のことばが生きていると感じるとき、あなたにとってどんなときでしょう?
説教者:`蒔田 望 牧師
聖 書:マタイの福音書 13章31-32節
「小さい」という魅力
31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。
32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
はじめに
2月、3月は神の国について取り上げます。
「余白」を持って、溢れるばかりの神の恵みを見つけたいと思っていますが、
神の国の特徴を知っていると、神の恵みがどこに溢れているのか、見つけやすくなるはずです。
- からし種は「小さい」
イエス様は「小さい」という魅力があると言われました。
やせ我慢でもなければ、かわいそうだからと同情してくれたわけでもありません。
神の溢れる恵みは「小ささ」の中にあるのです。
神の国は小さいという特徴があると言われて、パッと思い出すのが、小さな子どもが神の国にふさわしいというメッセージです。
社会で、取るに足らないと言われる人、貧しさ、病気、社会の隅っこに追いやられている人こそ、神の愛を真っ先に受ける人だと言われます。
「小さい」ということが、決して神の国では、悪いことではない。
むしろ、弱さを背負っていることが逆に神に近づけてもらうことになるのです。
- からし種は「成長する」
小さいけど、神様はそれを豊かに育ててくれる。これも神の溢れる恵みの特徴です。
最初は取るに足らないことだと思っていても、恵みというのは、まさに取るに足らないところに注がれ、立派に成長させてくれる。
33節には、パン種(イースト菌)の例えが語られます。
パン種を混ぜることによって、それは少しにも関わらず、パン全体が膨らみます。
この2つの例えからわかるのは、小さくても、神様は想像をはるかに超えた影響力を与えるという事です。
- からし種は「巣になる」
巣を作るという表現が、終わりの時代を描く時に使われています。
鳥は聖書では、異邦人を表すことがあります。
さらっと書いてありますが、旧約のイメージがここには暗示されていて、
終わりの時代に異邦人もが神の国に加えられるというメッセージを読み取る事ができます。
イエスの共同体は最初は小さかったと思いますが、次第に成長していき、
やがては異邦人もがそこで休むことができるような広がりを持つのです。
■一緒に考えてみましょう
- からし種の3つの特徴を踏まえて、私たちの身の回りに神の恵みを見つける事ができるでしょうか。
ご注意:2月7日までの礼拝について
練馬バプテスト教会へご来会の皆様
イエス・キリストは昨⽇も今⽇も、とこしえに変わることがありません。(へブル 13:8)
練⾺教会では、緊急事態宣⾔が発出した場合はオンライン礼拝に切り替えるという基準をもって礼拝を⾏ってきました。
東京、埼⽟、千葉、神奈川の 1 都 3 県を対象に、2021 年1 ⽉ 8 ⽇より 2 ⽉ 7 ⽇まで緊急事態宣⾔が出されましたので、
当⾯の間、⽇曜⽇の礼拝はオンライン礼拝のみとします。
主⽇礼拝 10:00-10:30(YouTube ライブ配信、ライブ配信後も視聴できます)
⽉の第 1,3 週は第 1 礼拝の式次第、第 2,4,5 週は第 2 礼拝の式次第で⾏います。
YouTubeチャンネル:https://www.youtube.com/channel/UCP4PpifOWaWsECYGfFwF7pA
配信や奏楽の奉仕者は、公共交通機関を使わずに来られる⽅での対応を原則とします。
また、平⽇の活動も、原則オンラインでの対応とします。
オンライン参加が難しい場合は教会にご相談ください。
困難な中にも主の導きがあることを信じて。
2021 年 1 ⽉ 7 ⽇
牧師 蒔⽥ 望
伝道師 渋⾕昌史
議⻑ ⽚⼭信彦