世界中で最も読まれている書物『聖書』から、人生の真理を思い巡らします。
第一礼拝・第二礼拝は同じメッセージです。
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説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 5章8節
得意分野で行き詰まったら
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。
「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 全面的に賛成できなくても、やってみる
5節のシモン・ペテロに注目しましょう。まず自分の気持ちや考え方を正直に伝えます。
漁師の経験から言って、難しいと思います、と。でも、おことばですのでやってみます!とイエスに言われた通りにトライしてみる。
神のなさろうとすることは、大体私たちの現実的な範囲を超えていることばかりです。
ですから、私たちの第一印象としては、神様からの提案に、全面的に賛成することは難しいことが多いものです。
「でも、やってみます!」とイエスの通りに行動に移す。これが神に従うことなのです。
- 自分の小ささに気づくことから始まる
当時、罪人とは、神から遠く離れていて神の恩恵を受ける資格がない人だと考えられていました。
ですから、ペテロは罪深い私から離れてくださいとイエスに語ったのです。
しかし、罪人こそ、神からの恵みが必要なのです。
イエスが弟子として招くのは、自分は神の働きをする価値がありますという人ではなく、自分の罪深さを自覚している人なのです。
神の前で圧倒的に自分が小さい存在だと気づいている人こそ、神の国の奉仕に相応しいのです。
- どういう人が弟子に招かれるのか
イエスの弟子としてどういう人が招かれるでしょうか。欠点のない人が求められるのではありません。
いつでも、私たちは自分の足りなさ、欠けを持ったまま、ただ恵みによって招かれるのです。
そして、神の恵みが私たちの信仰を育て、生き方を決定的に変えていきます。
これが神の国の原理原則です。私の足りなさや弱さをそのまま神の前に差し出すことができるでしょうか。
このような正直な献身こそ、私たちの信仰の表明であり、神への信頼なのです。
このようにして従う人を、神はいつの時代も待ち望んでおられます。
■一緒に考えてみましょう
・常識とは反して昼間に漁をして多くの魚が捕れたように、神を信じたことで、私たちの予想とは違う結果を目にした経験はあるでしょうか。
・自分の足りなさや弱さを神の前に差し出すとしたら、今日の私は何を献げるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 4章36節
人生が変わる体験
36 人々はみな驚いて、互いに言った。
「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 悪霊から解放するイエス
悪霊につかれるという場面自体は正直私たちの感覚とかけ離れているかもしれません。
しかし、イエスがもたらす神の国について、目に見える形で示されています。
悪霊につかれた人は、もうどうすることもできない状況に追いやられてしまっている人です。
イエスは悪霊を追い出すことにより、神が確かに働いておられることをカペナウムの人々は目の当たりにし、驚くのです。
神が働かれるのを間近で見て、驚く。まずはここから今日も始めたいと思います。
- イエスの使命とは
「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(43節)とイエスは語ります。
神の国という言葉は神の支配や統治というニュアンスがあります。神ご自身がここで具体的に行動している。
その現実を伝え、具体的に示すのです。神の国の福音を宣べ伝えることこそ、イエスが命をかけて、成し遂げるべき使命です。
堕落した世界に神の秩序をもたらす。そのために神に遣わされたとイエスは言われます。
- イエスのように遣わされている
2000年経った私たちの生活もまさに戦いの最前線と言えるでしょう。
悪霊につかれた人がいても、いなくても、正しいことが正しく行われることは決して簡単なことではなく、神の支配など誰も信じていないかもしれません。
そういう中に、私たちは遣わされているのです。神ご自身はこの日本でも具体的に行動しています。
イエスがなさったように堂々と私たちができるとは思えませんが、弱く貧しいからこそ神に頼ることを信じ、
神の言葉を語り、神の働きを示す尊い働きをしようと私たちも招かれています。神の恵みによって、人生が変わる体験へ。
■一緒に考えてみましょう
・今、ここで働いていることを目撃し驚いた人々と自分を重ねることはできるでしょうか。どのようなことに今、私たちは目を向けたらいいでしょうか。
・それぞれ遣わされている、決して簡単ではない現実を分かち合い、祈り合いましょう。
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:使徒の働き 11章25節~26節
“キリスト者“誕生の逸話
25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。
弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 本日の聖書箇所は、このアンティオキアで、初めて信者がキリスト者と呼ばれたと書かれています。
本日は「”キリスト者“誕生の逸話」と題して、少し想像力を働かせてこの背景を見てみたいと思います。
そして、そこには、人生における“たまたま”と言える出来事があったことを再発見したいと思います。
- マルコ15:21~ ここにイエスの十字架を背負わされたクレネ人シモンという人物が出てきます。
クレネ人はアフリカ東部の出身者だと言われています。つまりユダヤ人ではなく異邦人です。
それなのに彼の出身地とアレクサンドロとルフォスという二人の息子の名前まで聖書に記されています。
このシモンは、たまたまイエスが十字架に至る所に通りかかったのですが、この“たまたま”が彼の人生だけでなく、
後の“キリスト者”誕生に大きな影響を及ぼすことになったのです。
十字架を背負わされたシモンとその家族について、ローマ16:13では、シモンの息子ルフォスの母親、つまりシモンの妻をパウロは、「私の母」と呼んでいます。それほどシモン一家がパウロと親しい関係にあったことが想像できますが、なぜパウロはルフォスの母を「私の母」と呼ぶほどに親しかったのでしょうか。
- 使徒11:19~20 クレネ人の信者はエルサレムから迫害を逃れてアンティオキアに逃げたようです。
シモン一家も信仰が与えられて、このクレネ人信者の中にいたのだと思われます。
アンティオキアは当時のローマ帝国第三の都市と呼ばれるほど繁栄していた都市でしたからアンティオキアの様な大きな都市にいれば目立たない、と考えて逃れたのかもしれません。
そのアンティオキアにパウロがバルナバによって連れられてきて、一年以上滞在しました。
一年以上滞在したパウロの泊る所や炊事洗濯など日常生活の世話をしたのがシモン一家だったのではないでしょうか。
シモン一家は家族ぐるみでパウロの生活の助けをしたので、パウロは「私の母」と呼んだのではないか、と想像できます。 - パウロはこのシモン一家に支えらえたので一年間アンティオキアに滞在でき、
人々に福音を伝えることができたので信者たちが“キリスト者”と呼ばれるようになったのです。
“キリスト者”誕生の陰には誠実に伝道者パウロを支えた一家の存在があったのです。
たまたまシモンが通りかかり、無理矢理に十字架を背負わされたことから、シモン一家が“キリスト者”誕生の立役者になったと言っても良いでしょう。シモン一家は直接伝道の働きをしたのではないかもしれませんが、この一家がパウロを支えたことでこのアンティオキアからパウロの伝道旅行が始まり、キリスト教がローマ世界に広がる出発点ともなります。
シモン一家はパウロの様にキリスト教の歴史の表舞台には出てこないけれど、陰で支えたに違いない人たちです。
それが、シモン当人にとってはたまたまと思えることが出発点でした。
でもそこに神様の計画があるのではないかと思わされますね。 - 皆さんが練馬教会に集うようになったのも、“たまたま”と思えることがきっかけだったかもしれませんね。
人生の不思議です。シモンの様に、“たまたま”がきっかけで思いもかけない人生に踏み出すことも有るのではないでしょうか。
たまたまの出会いによって後に良いことが起きるかも知れませんし、困難にぶつかるようなことがあるかもしれません。
でもそのたまたまの出来事、出会いに真摯に向き合い、誠実に生きる時に神様の計画の中でその人に相応しい歩みができる。
神の計画の中に生きることができるのではないかと思います。
日々の生活の中で、“たまたま”を大切に、たまたまの基にある神様の計画を信頼して生きていきたい、とシモンの歩みから教えられるのです。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 4章18-19節
救い主のマニフェスト
18 「主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イザヤ61:1はイエスのマニフェスト
イエスを通して語られる神の福音、良い知らせ。それは全ての人は神に招かれているという知らせです。
貧しい人とは、お金がない、友達がいない、価値がないと思われている、大事にされていない気がする。
そういう人のために、神の国はあるのだとイエスは語ります。そこに人種や生まれ、育ちの壁はありません。
この良き知らせ、福音をイスラエルに限定せず、全ての人に祝福を注ぐことが神の計画です。
イエスは大胆に語ります。人を程よく気持ちよくさせ、イエス自身の名声を高めるような内容は選びません。
イエスの生き方は私たちの模範です。
- 心のうちを露わにするメッセージ
最初はナザレの人たちは非常に興奮して、喜んでイエスを迎えました。イエスのメッセージを聞いてワクワクしました。
しかし、そこで終わりませんでした。イエスは人々の心のうちを露わにしたのです。
イエスの警告を聞いて、人々は悔い改めることもできました。
自分の内側にある期待は、神への聖なる期待ではなく、自分のための期待だったと認めることもできましたが、彼らはしませんでした。
むしろ、イエスの言葉を聞いて、怒りをイエスに向けたのです。
- ナザレの人たちは私たちの現実
ナザレの人たちは私たちの現実です。自分の期待を神に求めます。それが叶わないと神に怒るのです。
外国人にも祝福を与えるなんて!そう感じるのが自然な人の感情です。
異邦人を教会に加わるために、教会では多くの努力が必要になると使徒の働きでも語られています。
だからこそ、私たちは教会を開き続けなければいけないと思うし、居心地の悪さを主張したくなる自分の内側にある欲を神の前に差し出し続け、
惜しみなく与え続ける神の恵みがこの世界に実現するようにと今日も祈りたいと思います。
■一緒に考えてみましょう
神のことばが語られて、人々が受け取っていく場面を思い浮かべましょう。
また、人々が反発する場面も思い浮かべましょう。両者の反応の違いを生じさせる理由は何でしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 4章1-2節
悪魔の誘惑
1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、
2 四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の力を使って、自分の必要を満たせ
1つ目の誘惑は、パンを石に変えたらいいと言うものでした。
イエスは神の愛する子として王となり、かつ、しもべとして人々に仕えるようにと使命を託されました。
この使命のために、力が託されています。悪魔は神に与えられた力を間違った方向に使うように仕向けます。
悪魔は神の力を使って、自分の必要を満たしたらいいとささやきます。
神様は体のことも大切に思っているし、神の口から出る言葉が私たちを満たすのだとイエスは答えます。
- 悪魔を拝み、欲しいものを手に入れろ
手っ取り早く、王になれる道を悪魔は提案します。「悪魔である私を拝みなさい。
そうすれば、あなたの欲しいものは手に入る。」これも、嫌になる程、甘い、誘惑です。
しかし、悪魔の提案する方法では、本当に必要なものを手に入れることはできません。
イエスが神に奉仕し、人に奉仕する中で、神の支配は実現していくのです。
イエスは申命記6:13を要約し、悪魔の試みを退けます。神に仕えることが何より大事であることをイエスは思い起こさせてくれます。
- 神が働かれると証明してみろ
「そんなに神に信頼しているなら、聖書にこう書いてあるから、やって見せてくれ。
神は本当に守ってくれると信じているんだろう」と悪魔に挑発されることもあるのです。
神を試みるとは、神を信じていないことの表れだと聖書では考えられています。ですから、試みること自体をイエスは拒みます。
イエスは神にとことん従い、信頼し続けます。悪魔の試みに対して、神のみことばで対抗し、悪魔の試みを退けました。
ここに私たちの希望があります。私たちは失敗を繰り返すのですが、イエスが私たちの失敗を取り返してくれるのです。
■一緒に考えてみましょう
・大胆に、弱さや足りなさを抱えたままの姿で、イエスに近づくことができた体験を振り返ってみましょう。
イエスは本当に受け止めてくれたでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 3 章 22 節
神に愛される
22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. なぜイエスはバプテスマを受けたのか
イエスも悔い改めが必要だったわけではないでしょう。バプテスマのヨハネのメッセージは確かに神から出ていることであることを明らかにするため、
イエスもヨハネの言葉に従ったと言われます。ヨハネの語った罪の赦しに導く悔い改めは非常に重要なことでした。
また、ヨハネは、救い主を指し示す役割があると言っていました。イエスがバプテスマを受けたあと、
聖霊が降って来ることによって、ヨハネが待ち望んでいた救い主がイエスであると示されました。
2. 「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」
天からの声は旧約聖書の響きがあります。前半は詩篇 2:7 で、イスラエルの王が即位する際に歌われました。
イエスは神の子、王、救い主(ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)に神によって任命されたというのが前半の意味です。
後半のイザヤ 42:1 は「神のしもべ」であると言われます。苦難のしもべとして、イザヤ書では、苦しまれる救い主の姿が出てきます。
王として、苦しむしもべとなる。この複雑な使命は、イエスが十字架の死を通して、全ての人に救いの道を与えることで実現することになります。
3. 聖書の民だけでなく、人類の救い主
マタイの福音書にも系図が記されています。マタイの読者は聖書の文化の中で育っている神の民なので、アブラハムからイエスまでの系図を示しました。
ルカの読者は誰だったでしょうか。聖書を知らない、ギリシャ・ローマ社会で暮らす人たちです。
ですから、ルカの場合は、イエスから遡り、アブラハムで終わらずに、聖書に出てくる最初の人、アダムまで遡ることによって、
イエスが救い主であるというのは、全ての人にとっての関係する出来事なのだということをルカは系図から語るのです。
■一緒に考えてみましょう
「愛されている」という体験を振り返ってみましょう。
周りの人にとっては小さなことかもしれませんが、自分にとって大切な体験というものがあるかもしれません。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 3章10節
どうすればいいですか?
10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 抑圧と腐敗の時代の中で
3:1-2に出てくる支配者たちの名前は、抑圧と腐敗の現実を思い起こさせるものです。
かつてイスラエルはエジプトで奴隷として虐げられ、今はローマ帝国によって支配され、再び出エジプトが起こることを人々は願っていました。
腐敗は宗教の中枢まで及んでいました。ユダヤ人の大祭司はローマ帝国によって政治的な手先として任命され、神聖な地位を汚されていました。
至る所で、あるべき姿から離れてしまっていました。この現実に、神様、あなたが介入してくださいと人々は祈っていました。
- 必死で問いかけられるか
ヨハネの警告は聞き手の心に恐怖を与えたので、人々は「私たちはどうすればいいですか」とヨハネに問いかけました。
今日のクライマックスはここです。悔い改めのバプテスマを受けに来た人々と同じように、真摯に神様に問いかけられるでしょうか。
「私のでこぼこな人生が、主の通られる道になるために、どうすればいいですか。
言葉だけの信仰、悔い改めではなく、悔い改めに基づく実を結ぶために、どうすればいいでしょうか」と本気で必死に問いかけられるでしょうか。
- 誰にでも神に立ち返る道がある
「もし下着一枚を与えることができないなら、その下着を所有しているのではなく、下着に所有されているのです。」
下着に限らず、もの、お金、地位、名誉、権力、いつの時代も、人を支配しようとしてきます。
そのような束縛から解放され、私たちは本来の居場所である神様のところに立ち返る道があると聖書は教えます。
全ての人にこの救いは開かれています。当時、宗教的に最も嫌われていた取税人や兵士が悔い改める人として出ています。
ローマのために働く人たちにも、神に立ち返る道があるのです。
■一緒に考えてみましょ
自分のでこぼこな人生が、主の通られる道になるために、どうすればいいですか。
言葉だけの信仰、悔い改めではなく、悔い改めに基づく実を結ぶために、どうすればいいですか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章44-46節
少年イエス3日後に発見
44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
45見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
46そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 慌てふためき、必死に探すような時
12歳の息子が突然いなくなってしまうという場面には遭遇しないかもしれませんが、
イエスの両親のように、私たちが慌てふためき、後悔し、苦しむような時はあるかもしれません。
その後、必死に探して、思いがけない形で解決に至ることがあるかもしれません。
思いも寄らない神様の言葉を聞いて、受け止めることができますように。
もしかしたら、私たちが見失っただけで、神様はなすべきことをなし、働き続けていたのかもしれません。
- 芯のある生き方
心配していた両親とは対照的なのが神殿で議論しているイエスです。12歳の時点で、イエスは自分の人生の芯が見えていました。
「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(49節)。
天の父なる神の家である神殿にいる、もしくは天の父なる神の働きをしているということは、私にとって当然なことですとイエスは語ります。
軸のある生き方と言ったらいいでしょうか。私たちの人生にとっての中心は何でしょうか。
- すぐに理解できなくても、心に留める
「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(51節)と母マリアの姿勢が書かれています。
3日間、死ぬほど心配したかもしれません。イエスを見つけた際にその心配を伝えました。
親が自分の主張をするだけでなく、子供であるイエスの言葉に耳を傾け、心に留めようとすることです。
相手の話に耳を傾けるゆとりを持っているだろうかと思うのです。
その場で理解ができないことでも、言葉や出来事を心に留めて思い巡らす。
これが母マリアが繰り返し、行っていることなのです。
■一緒に考えてみましょう
・今日の出来事の中で、特に関心が向いた内容は何でしょうか。なぜ、そこに関心が向いたのでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章28-32節
救いは万民のために
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、 しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。 31あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、 御民イスラエルの栄光を。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 誰にとっての救い主か
イエスによって、万民に救いが備えられていくのです。福音書を読み進めていくと、その意味が次第に明らかになってきます。
当時の社会では、イスラエルの中でも、救いを受けていると思われている人と、
あなたは救いの外にいますねと救いから外されている人がはっきりと分けられていました。
そのような常識をイエスは問い直し、文字通り、全ての人に救いを備えられます。取税人が救われ、異邦人が救われる道をイエスは備えられるのです。
- 救い主は人の心のうちをあらわにする
罪の始まりは、神を信じないで、悪魔の言葉を信じ、あなたが神のようになれるという幻想に惑わされたことに遡ると聖書は言います。
自分の人生は自分でコントロールしたいし、神の前にひざまずくなんて、ごめんだという人も少なくないでしょう。
イエスは私たちの心のうちにある思いを、表に出します。
神の温かさの中で、過去が精算され、洗いきよめられ、赦され、乾きが潤されるチャンスにもなるし、
不安定で不十分な偽りの自分にしがみ続けることをやめられないこともあります。
- 根本的な救い
今日はシメオンとアンナ。この2人の年老いた、信仰深い人たちによって、救い主が確かに誕生したことが明らかにされました。
シメオンもアンナも長年、祈り続けていました。だからこそ、彼らは特別に赤ちゃんのイエス様を見て、本物だとわかったのです。
「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」(イザヤ40:1)と今日も語られています。
神は私たちの心のうちにある思いがあらわにすることで、表面的な解決ではなく、根本的な解決に至りますように。
■一緒に考えてみましょう
・私にとっての救い主とはどういうお方なのか。私はどういうタイプの人に心が魅了され、私の人生を献げたいのでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章7節
飼葉桶に寝かされるイエス
男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- イエスの生まれた場所
場所がなく飼い葉桶に眠る救い主。これが聖書の記録する救い主の誕生です。
大々的に国をあげて、誕生がお祝いされるのではなく、ひっそりと、隠れて、宿屋だろうと客間だろうと居場所もなく、飼い葉桶に眠るのです。
マリアは自分を「卑しいはしため」身分の低いしもべだと表現しましたが、
赤ちゃんのイエスも同じように、小ささの中、貧しさの中、居場所を与えられずに生まれてきたのです。
このような誕生はイエスの生涯を物語っているようです。
- 羊飼いが招かれる
羊飼いというのは、夜、星の下で、岩を枕にして眠るような生活をしている人たちです。
彼らが最初に救い主が誕生した喜びの知らせを聞きます。
神の計画は絶妙だなと思うのは、居場所がなく、飼い葉桶に寝かされるイエスだからこそ、
貧しい暮らしをしている羊飼いたちが会いに行けたということです。文字通り、全ての人が会いにいける救い主。
小ささ、弱さ、貧しさをご自身で経験され、暗闇に住んでいた人たちを照らし、平和の道に導くのがイエス・キリストなのです。
- 価値観に正面から対立する主張
ローマ社会では、ローマ皇帝こそ、全人類の救い主だと呼ばれていたのですが、
イエスを救い主と呼ぶことで、直接、触れなくても、ローマ皇帝ではなく、
イエスこそ、まことの救い主であると宣言しているのです。これは大きな挑戦でした。
神の国はイエス・キリストによって、はっきりとこの世界に示されます。
この世の常識とは全く違います。
弱さ、取るに足らないと思われること、傷つきやすさ。そういう中に、神の国の真理が隠れています。
■一緒に考えてみましょう
- 「彼らのいる場所がなかったからである」そういう中で生まれてきたイエスは私たちの居場所を作ってくれます。
私たちもまた誰かのために居場所を作ることができるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章62-64節
苦悩を通して
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 沈黙の期間を通して
今日の主人公は、再び、祭司ザカリヤです。神の前に正しい人であっても、
なお、神の特別な知らせを前に、信じきれなかったザカリヤ。彼は口が聞けなくなりました。
耳も聞こえていなかったのではとも言われます。ザカリヤは、いつまでこの状況が続くかわかりません。
しかし、この沈黙の期間を通して、苦悩を通してザカリヤは神に信頼するようになったのです。
苦悩を通して、信仰が練られ、彼の口から神への賛美が出てくるに至ったのです。
- 今日はペンテコステ
イエス・キリストが天に昇られたあと、代わりに神の霊、聖霊が送られると約束されていて、
聖霊が弟子たちに与えられた日のことをペンテコステと言います。使徒の働き2章にその様子が記されています。
聖霊こそが、常にイエスの弟子たちの導き手、教会の導き手でした。これは時代が変わっても、変わらない真理です。
余白のある生活と表現しますが、自分自身でいっぱいいっぱいにならずに、
神に信頼し、神の働くスペースを作り出そうと願う人と共に、聖霊は働いてくださります。
- ザカリヤも暗闇を歩いていた
79-80節でザカリヤは救い主について賛美します。
救い主は朝日のように、暗闇にいる人たちを照らし、私たちを平和の道に導くとザカリヤは告白します。
祭司として神の前に正しく生きてきましたが、まだまだ信じきれていない部分が彼の中にあることを天使の言葉によって明らかにされました。
ザカリヤもまた、暗闇を歩いている1人だと認めているのです。
しかし、暗闇は救い主によって照らされ、平和の道に導かれると彼は告白します。こういう歩みに私たちは招かれています。
■一緒に考えてみましょう
- 今日の私の口からどのような言葉が出てくるでしょうか。疑いでしょうか。沈黙でしょうか。神への賛美でしょうか。
説教者:片山 信彦 兄
聖 書:マルコの福音書 5章25節~34節
気づき、探し、向き合うイエス・キリスト
25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。
「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.今日の箇所は、多くの群衆に囲まれたイエスの後ろからその群衆をかき分けて、でも静かに目立たない様に近づいて、
主イエスの衣(多分当時普通に着ていたと思える上着で、マタイ9:20のよれば、房が付いていた衣のようです)に触れて、
病が癒された女性の箇所です。
この個所をさっと読むと、12年も出血が止まらない婦人科系の病気を持っていた夫人が主イエスの衣に触れて病気が癒された。
主イエスには癒しの力を持った方だ、と読んでしまいます。でもこの個所にはとても深い物語があるように思います。
2. この女性がなぜ、主イエスの後ろから主イエスに近づいたかです。正面から出なく。
この女性は12年もの間、出血が止まらない病気で苦しんでいました。
いろいろな医者にかかったのですが医療費だけがかさみ、病気は一向に治りませんでした。
この病気のおかげで、この夫人は肉体的な痛みだけでなく、経済的にも苦しかったでしょう。
この種の病気にかかった人は、当時のユダヤ人の世界では宗教的にけがれた人と見られていたようです。
その結果、堂々と人前に出ることができない社会的にも差別される存在であったようです。
つまり、肉体的、経済的、宗教的、社会的、更には精神的にも大きな苦しみの中にいたのだと思います。
ですから、主イエスの前から来ることができなかった存在だったとのでしょう。でもこの女性は主イエスと正面から出会います。
この女性の態度や行動から、私たちは一人の存在として主イエスに触れるように進むべきこと。
主イエスと向き合う時は、自分の痛みや苦しみを隠すことなく、真実をすべて話すこと。
そうすれば、主イエスからの安心が与えられ、健やかに歩むことができる、ということを学びます。
と同時に、この女性の様に、自分は主イエスを求め、主イエスの触れるような行動をとっているだろうか、
そして何よりも恐れおののいてイエスの前にひれ伏してすべてを開け放して、
自分の真実の姿を主イエスの前にすべて出しているだろうかとも問われているようです。
3. この女性に対する主イエスの行動から私たちは学ぶことができます。
① 気づく:主イエスは私たちの存在に気付いてくださる方です。
決して私たちの存在を忘れることなく、私たちが主イエスに触れる時に私たちの存在気づいてくださる方です。
② 知ろうとする:そして私たちの持っている痛みや苦しみを深く知ろうとされる方です。
決して群衆として大勢のまとまりの中にいる人として見るのではなく、群衆の中から一人の人として知ろうとされる方です。
共同訳聖書では、「見つけようと」とあり、私たちを深く知ろうとして、私たちを一人の存在として探してくださる方です。
③ 向き合う:自分の前に出てきたこの女性と一対一で向き合い、その話を聞いてくださる方です。
④ 信仰に感動して、安心させる:そして、この女性の信仰に感動して、大丈夫ですよと声をかけ、安心させてくださる方。
安心させるような言動・行動をとってくださる方です。この主イエスが私たちに与えられている幸いを感謝します!
4. しかし、自分は何と人や物事に気づきにくい、鈍い存在なのだろうかとも思いますまた気づいても、
より深く知ろうとしているか、周りの人や出来事にしっかり向き合っているだろうか、
向き合っても安心を与えるような行動をしているだろうか、とも問われているようです。
主イエスに触れさせてくださいと主イエスを求め、主イエスと同じように、
気づき、向き合い、何らかの行動をとれる者とさせてくださいと祈りたいと思います。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章55節
いつまでも忘れない
私たちの父祖たちに語られたとおり、 アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 卑しいはしため
マリアは自分を「卑しいはしため」と言います。
身分の低い、小さな存在、見向きもされないような立場にある自分を、聖書の神様は見てくださっていると大胆に告白します。
マリアは田舎の小さな町の人でした。謙遜でも何でもなくて、確かにマリアは身分の低い、小さな存在なのです。
マリアの周りにいる人も、マリア自身も、マリアは見向きもされない存在だと思っていました。
にもかかわらず、神様は小さく弱い立場にあるマリアのことを覚えてくださり、目を留めてくださるのです。
- マリアは祝福のモデル
マリアは自分だけが特別扱いされるわけではないと知っています。
主の憐れみは、マリアだけに向けられるのではありません。代々にわたって、主を恐れる者、神に信頼する人に与えられるのです。
マリアが特別なのではなく、さまざまな厳しさを通っている人に対して、神様は目を向けてくれるという救いのメッセージがはっきりと語られます。
思い出したいのはマリアの前に、恵みを受けたのは、年老いたザカリヤとエリサベツ夫妻でした。
エリサベツは長年、恥を抱えながら生きてきたのですが、神から祝福を受けたのです。
- 召天者記念礼拝
周りから、また自分でも「恥」だと思うようなことを抱えている人のことを、神様は決して忘れないと聖書は約束します。
マリアはこの賛美を「私」という言葉で始めながら、最後は「私たち」で終わります。
信仰とは私の体験でありつつも、大きな救いの歴史の一部であり、私たちの体験になるのです。
時代は変わっても、変わらない真理について聖書は教えます。
それは神の救いの歴史の中に私たちは生かされているということです。
■一緒に考えてみましょう
- 「卑しいはしため」に対して神様が恵みをもって応答してくださる出来事を聖書の中でも、私たちの周りでも、思い浮かぶことはあるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章38節
マリアの信仰告白
マリアは言った。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の神秘の前に開かれているか
少なくとも、神の神秘に対して日々、私自身がオープンであるかは日々確認したいなと思っています。
聖書の神様について、私たちは全てを理詰めで説明することはできません。
牧師として、全てのことを論理的に答えたくなる誘惑がありますが、神様が明らかにされた部分は理解しつつも、
神が隠された部分の前に沈黙することも誠実な態度だと思いますし、
神の神秘の前に、一緒にひざまずきましょうと勧めることの大切さを思い出しています。
- 完全に人であり、完全に神
処女降誕は、イエス・キリストがどういうお方であるのかを説明する上で、重要だと言われます。
イエスは、完全な人間として、イエスは罪以外のすべてのことにおいて、私たちと同じであり、
かつ完全に神であるイエスは、神がどのようなお方であるかを、私たちに最も完全に示します。
人らしさと神らしさがイエス・キリストのうちで完全に調和するように、私たちが神を愛し、人を愛する中で、
私たちもまた、神のかたちに似せて作られた人としてのあり方を取り戻していく道がイエスのうちに示されるのです。
- 大事なパートを人に託す
注目したい点は、イエスの誕生に際して、ザカリヤの時のように強引に
「このことは後になったらわかります」というような形で話が進んでいかないということです。
マリアに告げられ、マリアが神の計画を受け取り、神の計画は進んで行きます。
神の働きの大事なパートを神はここで、マリアに託し、マリアはそれをちゃんと受け取りました。
神に信頼する人は、神の奇跡の大事なパートを託され、その役目を受け取ります。
神の祝福のパートナーになるようにと私たちは招かれています。
そのために、神の働きに注意を向ける余白を持っていたいと思います。
■一緒に考えてみましょう
- 神の計画の一部分をどのような場面で任されたことがあるでしょうか。
どのような心の動きがあったでしょうか。振り返ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1 章 20 節
祭司、信じられず
見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。
その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 一人一人に目を留める神
神様は年を取っていた夫婦に目を留めてくださいました。
もし、あなたが「自分のような小さな存在を神様は見てくれないかもしれない」と心配になることがあるとしたら、
決してそんなことはありませんと聖書に従って、お伝えします。神様は私たち一人一人に目を留め、
神様との温かい関係の中に招いてくださいます。
でも、神に信頼してきた人であっても、すぐに信じられるかというと、そうではないという、非常に現実的な話が書かれています。
2. 喜びの知らせを信じられなかった
御使いは恐れることはない、ザカリヤの願いが聞き入れられたと語ります。
ザカリヤは「何によって」と答えました。この言葉の意図は、証拠を求めていると言われます。
神の前に正しい歩みをしていましたが、ザカリア自身も、神との関係を修復しなければいけない部分があったことをはっきりと示されます。
ザカリヤは神の喜びの知らせを信じられなかったのです。罪の指摘とはこのようなものです。
ザカリヤを貶めるのではなく、神との関係をやり直す必要のあるところが明らかにされます。
3. 主は恥を取り除いてくださる
周りから見たら些細なことに思えることでも、本人には非常に大きなことに感じることがたくさんあります。
神様は私たち、一人一人に目を留めてくださっていることをザカリヤとエリサベツの出来事は教えてくれます。
それは私たち一人一人に目を留めてくれているということであり、私たちもお互いに同じようにしなさいと言われているのです。
エリサベツの「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」という告白。
これが私たちの信仰告白になりますように。
■小グループで分かち合うヒント
・ イエス・キリストの十字架は私たちの恥を取り除いてくださいます。取り除かれた恥について祈ってみましょう。
取り除いてもらいたい恥が思い浮かぶなら、合わせて祈りましょう。
説教者:安藤 廣之 牧師
聖 書:出エジプト記4:1~5
あなたの手にあるものを~モーセの生涯から
1 モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
2 主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」
3 すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4 主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。
5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
受難週、イースター
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章3節
外国人から見たイエス
私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- ルカだから伝えられる人がいた
ギリシャ語が流暢に扱えるルカだからこそ、ギリシャ人に向けた福音書を書くことができました。
ルカも自分の使命を理解していたでしょう。例えば、マタイの使命はユダヤ人クリスチャンに待ち望んでいた救い主キリストはイエスだと伝えることでした。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。ここにも「でこぼこがいい」の精神が見てとれます。
それぞれの背景が違う4つの福音書が残され、4人の視点を通して、イエスの福音の豊かさを受け取ることができるのです。
- 「神の友」となって一緒に読もう
「尊敬するテオフィロ様」という言葉遣いから、地位の高い人に向けた文章だということがわかります。
テオフィロという名前は、「神の友」という意味です。ただ、このテオフィロという人が本名なのかどうかは、学者の間でも意見が分かれます。
大事なことは、テオフィロという人に向けて書くという形を取ることで、当時のギリシャの背景を持った人たちが違和感なく、
イエス・キリストの記録を読み始めることができたということです。私たちも神の友となって一緒に読んでいきましょう。
- イエスの足元に座るような気持ちで
ルカは「私たちの間で成し遂げられた事柄について」と書き始めました。
この福音書は「私たち」の物語です。信仰を持つことは個人的な決断ですが、信仰は共同体の中で養われていきます。
礼拝の中で、私のことだけ考えるのではなく、一緒に神の前に、神の光に照らされる経験をしていくことを願っています。
テオフィロになって、すでに知っていることもあるでしょうが、ルカの福音書を通して、よりイエス様に近づくことができるように、
イエスの足元に座るような気持ちで、福音書に耳を傾けていきたいと願っています。
■一緒に考えてみましょう
- 3節の最後の「思います」という意味は、自分の考えを述べているというより、聖霊に促されたことを感じるときにルカが使う言葉です。
聖霊の促しをどのような時に感じるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ローマ人への手紙 6章4節
復活により人生に輝きを
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- もう苦しまなくていい
バプテスマを受けることで、イエスの十字架と一つとされ、イエスの復活と一つとされることを、文字通り体験します。
まず、水の中に浸される。これはキリストの死と一つになることを表現します。
私たちを責め立てる過去の失敗、経験したくなかった出来事、痛み、悲しみ、貶める言葉、行為、あらゆるものを、
イエス・キリストは私たちの身代わりに引き受けて十字架上で犠牲となりました。
だから「あなたはもう苦しまなくていい」これが最初の大切なメッセージです。
- 復活のキリストと新しい人生を
水から出てきます。これはイエス・キリストの復活と一つとなるということです。
キリストが死者の中からよみがえられたように、新しいいのちをいただいて、イエス様と一緒の人生をスタートさせるのです。
これが二つ目のメッセージ「一緒に新しい人生をスタートしよう」と私たちは招かれています。
バプテスマを受け、水から引き上げられ、公にあなたは神の愛する子どもとして、神様に守られ、支えられる人生を始めることができるのです。
- あなたはわたしの愛する子
天からの声です。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11) 私たち一人一人も、この声に耳を傾けましょう。
私たちは神の養子になるのだとパウロは表現します。最初から神の家で生まれたわけではないから、父なる神様に愛されても、最初は疑うかもしれません。
受け入れられないかもしれません。時に、逃げ出したくなることもあるかもしれません。
そうだとしても、ちょっとずつ、でも確実に神の愛情が私たちの心に届き、私たちから神の愛が溢れる瞬間に気づくようになっていきます。
■一緒に考えてみましょう
- バプテスマを受けることは、イエス・キリストと一つとなることを象徴しています。
あなたにとって、イエス・キリストと一つとなることは、どんな意味がありますか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ピリピ人への手紙 2章5-11節
十字架で死んだ救い主
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 立場や状況に固執しない
イエスは神であることに固執しませんでした。手放す準備ができていました。
自分の立場や状況にしがみつきませんでした。人となることを受け入れました。
例えば、健やかなる時も、病める時も、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、
その時々の状況に左右されずに、全ては神の手の中にあると信じ、
自分で必死に握りしめず、手放す準備ができていたと言うことができるでしょう。
- 空っぽになっても慌てて埋めない
キリストは、自分を空っぽになることを受け入れました。
私たちは空っぽだと不安だから、とりあえず、何かで満たそうと思うかもしれませんが、
イエスは神様が満たしてくれるのを待つことができました。神のスペースを常に作っておきました。
また、人を支配するのではなく、人に仕えることを選ばれました。
聖書を読んだらわかりますが、自分の都合のために、奇跡を起こすことはありませんでした。
イエスが奇跡を起こすのは、人を苦しみから助け出すためだけでした。
自分の満足のためではなく、人のために使うことが喜びでした。
- この道に招かれている
いわゆる人気のある道ではないと思います。ですが、ここに救いがあると2000年間、教会は語り続けてきました。
イエスが私の十字架を一緒に背負ってくれます。私たちは決して一人ではありません。一人で孤独に歩かなくていいのです。
私の全てを知って、全てを受け止めてくださるイエス様が共にいてくださいます。
十字架のイエスは私たちの罪を身代わりに背負ってくれました。
「だから、もう心配しなくていい。安心して、戻ってきなさい」と私たちは招かれています。
■一緒に考えてみましょう
- 今日の聖書に書かれているイエスの特徴の中で、特にあなたの注意が向いた特徴はなんですか。
なぜその特徴に注意が向いたと思いますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 10章38-42節
人生をシンプルに
38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 福音は想定より開かれている
39節のマリアの行動は考えられないことでした。
2000年前のユダヤの文化では、男性のいるべき場所、女性のいるべき場所というのが決まっていました。
女性はイエスの教えを聞くために足元に座ることはあり得ないことでしたが、イエスはそれを最も良いことだと言われます。
イエスは私たちに問いかけます。あなたは勝手に福音を狭めてないか。小さくしていないか。
教会はイエスを映し出す場所として、常に主イエスの言葉に開かれていなければいけません。
- 奉仕が恵みではなく不満になる可能性
マルタのもてなしは、いつの間にか、不満に支配されてしまいました。これは私たち誰もが経験したことのある感情ではないでしょうか。
やろうとしていることは正しい。なのに周りのサポートがない。だんだん不満が膨らんでいく。
気づいたら、1番大事にしたい人であるイエスにも腹を立てている。自分の正当性を当然のように人にぶつける。
マルタも私たちの鏡です。このようなことが私のうちにあるかどうかを振り返る時間を取るのは価値あることです。
- 「でこぼこがいい」の土台作りの1年目
本当に必要なことは、私たちが思うほど多くないのかもしれません。イエスは一つだと言いました。
マリアはその良い方を選んだ。ここでは、良い分、良い分け前、良い食事を選んだというメッセージが込められています。
人はパンだけで生きるのではない。という聖書の言葉を暗に意味しています。神の言葉によって私たちは生かされるのです。
No Bible, No Breakfast (朝飯前に聖書から)という泉田昭先生の生き方が思い出されます。
昔も今も、弟子たちは忙しすぎて、イエスの足元に座ることを軽んじることがありませんように。
■一緒に考えてみましょう
- 自分の奉仕に恵みを見出しているか、それとも不満を感じているでしょうか。不満に感じるような時は、どのようなサインがあるでしょうか。
- 本当に必要なことに集中できているでしょうか。生活を見直してみましょう。
聖書全体から恵みの福音を
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの黙示録 22章20-21節
聖書の最後は恵みを祈る
20 これらのことを証しする方が言われる。
「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 人生の危機でも信仰を告白する
イエスは必ず来る。その約束を受けて、アーメン、主イエスよ、来てください。と応答する。
黙示録は信仰が危機にさらされる時があることを思い起こしてくれます。
信仰が危機にさらされているような中で、なお、私はあなたを待ち望みます。
あなたこそ、私の救いです。と告白してきた信仰の先輩たちの背中を心して見たいと思うのです。
人生の難しさが私たちの信仰の中にある不純物を表に出し、神によって、ますます信仰が磨かれ、輝くことがあると教えていただきたいと思います。
- 恵みの福音:すべての人のために
主イエスの恵みは、クリスチャンの土台です。神の恵みが私たちをイエス・キリストに近づけていきます。
私たちに尽きることのない、渇くことのない命の水をくれます。
ですが、主イエスの恵みは、クリスチャンのためだけではありません。
まだイエス・キリストに出会っていない人のために恵みはあるのです。
この聖書の最後の祈りは、教会がどういう場所であるのかを思い起こさせてくれます。
教会はクリスチャンを支えます。それだけでなく、まだキリストに出会っていない人に常に開かれている場所なのです。
- 「でこぼこがいい」の土台作りの1年目
この1年間は聖書全体を読み、ざっくりとした聖書の流れを確認しながら、
いつの時代にも神の恵みが豊かに注がれていることを味わえたらと願ってきました。
どの時代も神が一緒にいてくださること。
それが何より大切なことでした。幕屋、神殿、イエス・キリスト、聖霊と、どの時代も神ご自身が一緒にいてくださいます。
この神の現実を、この地で見ることができるように、信仰の目が開かれ、恵みを見せてくださいと祈ることを土台としたいと思います。
■一緒に考えてみましょう
- 私の信仰告白として、20節をゆっくり読み、味わってみましょう。どう感じるでしょうか。
- この1年を通して、「でこぼこがいい」を感じたことはあったか振り返ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの黙示録 21章3-4節
聖書の約束する天国
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 天国の約束
シェキナーというヘブル語があります。神の臨在を表現する言葉です。昔から、神を信じる民の中で神は栄光を表されました。
古くは、モーセの時代、神を礼拝する幕屋の建設が終わった際に、神の栄光で幕屋は包まれました。あの栄光をシェキナーと呼びます。
イエスが世の光となるという約束も、神の栄光に照らされ、神から決して離れることなく、一緒にいることができるという希望の約束です。
やがて、あらゆる涙を流さなくてよくなる日が訪れますが、まだ地上で完全に神の国は実現していません。
- いつまでですか?
まだ、私たちは涙を流さなければいけません。
私たちは日々の生活の中で、この世界情勢の中で、「いつまでですか?」と何度も祈っているでしょう。
「いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。
「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。」(ハバクク1:2)このような祈りが聖書にはたくさん記されています。
厳しい現実の中で、祈ってきたのが神の民です。決して、祈りを止めなかった信仰の民です。
- 恵みの福音:御心のため祈る/働く
御国が来ますようにと私たちは今朝も主の祈りを祈ります。教会は天の御心をこの地にもたらすという使命に生きています。
神の御心、恵み、神の愛がまず先にあるから、私たちはまず神に思いを向け、神の思いを受け取らないといけません。
何を始めるにしても、私自身を神に明け渡し、変えていただくことからスタートです。
私のうちに神からの動機付け、使命をいただき、私に託された使命の実現のために忠実でいることができますように祈り、働くのです。
■一緒に考えてみましょう
- 祈る言葉に迷うとき、150篇ある詩篇の祈りに心を合わせることで祈りが深まります。
- 神の栄光(シェキナー)を私なりに感じる体験について振り返ってみましょう。
説教者:根城 昌美 主事
聖 書:ヨハネの福音書 8 章 12 節
光に照らされて
エスは再び人々に語られた。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 心の闇を照らすまことの光
イエス様は人の光、すべての人を照らすまことの光だといいます。
私たちはこの世界で生きていく時に、闇の中を通るようなことがあり、心の闇を経験することがあります。
思いもよらないことが、自分ではコントロールできないようなことが起こってくるのが人生だと言っても過言ではありません。
喪失の悲しみ、失望、先行きが見えない不安、変化に対する恐れ、コンプレックス、
怒り、憎しみ、赦せない思い、孤独など数え上げたらキリがないでしょう。
人それぞれ、その人にしかわからない苦しみ、その人だけの闇というものがあるのではないでしょうか。
2. 光に照らされると居心地が悪い
私たちの心の闇に、光であるイエス様はきてくださいます。
光に照らされると、それまで見えなかった自分のあらゆるものが見えてきます。気がつけば心が痛み、向き合えば苦しいのです。
痛みを感じでないで済むようにしまい込んできた心の傷や、解決されていない問題というものがあります。
ですから、私たちは闇である心のうちが光に照らされるということを知らず知らずのうちに避けます。
闇の中で光に照らされるということは居心地の良いものではないのです。
3. 光に照らされて本当の自分を取り戻す
8章1節〜11 節にある姦淫の女性の話に示されているように、イエス様はさばくのではなく私たちの隣にいてくださいます。
私たちの心の深みにある暗闇に光であるイエス様をお迎えし、あたたかい光に照らされて、イエス様とともに過ごすなら、
私たちの傷ついた魂は回復していきます。時間のかかることですが、神のかたちに造られた本当の自分になっていくプロセスです。
イエス様の光は、あなたのいのちを照らし、あなたのいのちを生かす光です。
イエス様のいのちの光によって新しくされ続ける、それが、イエス様とともに歩む信仰の旅路です。
再び、闇の中を通ることがあっても、最後の最後まで、この人生の旅路をともに歩んでくださるのです。
■一緒に考えてみましょう
・闇を抱えたままのありのままの私たちを、イエス様は愛しともにいてくださいます。
でも、傷ついたままにしておかれずに、神に造られたかたちを取り戻すようにと招いておられます。
闇を経験することは、そのプロセスへの入り口だと知るなら何が変わるでしょうか。
説教者:片山 信彦 先生
聖 書:コリント人への手紙第一 10章13節
脱出の道
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。
あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 試練は人間的なもの
今日はまず、ここで「人の知らないもの」と訳された言語についてもう少し考えてみたいと思います。
原語は、「アントローピス」という言葉で、もともとは「人間的なもの」という意味です。
「人間的なもの」とはどのような意味でしょうか?
この個所が書かれた文脈から考えてみると、「悪をむさぼる」(6節)という人間的な行いが原因で試練が生じるのだということを書いているようです。
つまり、試練は「人が引き起こす」ものというニュアンスがあるのです。
13節は、神様が人に意地悪して試練を与えるのではなく、また試練は神様が何もしないから起きるのでもなく、
それどころか、人が起こす試練であっても神様は脱出の道を備えてくださる方だと語っているように思います。
- 脱出の道は『出口』
この「脱出の道」と訳されている言葉ですが、聖書協会共同訳は「逃れる道をも備えてくださいます」
共同訳聖書も「逃れる道をも備えていてくださいます」と訳しています。
原語は、「エクバシス」で、もともとの意味は「出口」です。
岩波版『新約聖書』(2004年)の注記には、「試練を避けて通る『逃れ道』ではなく、
試練の真っただ中を通って行ったのちにそれを突き破っていく、『出口』の意」と記しています。
つまり、試練を避けて別の方向に逃れるための「逃れの道」ではなく、試練に向き合い、試練から逃げるのではなく、
試練の中を通ることで見えてくる出口、試練に取り組むことを通して、その試練を突き抜ける脱出の道を神様は用意してくださるということでしょう。
試練の中で逃れる道が別にあるのではなく、その試練を通して与えられるというのです。
試練に向き合い、取り組むことは苦しいことで、その苦しみは本人しか分からないことで、
できればその試練、困難は避けて、別な道を歩みたいというのが自然です。そうする方が良い場合もあるとは思います。
ですが、試練を通り抜けることを通して成長することも有るのではないかとも思います。
- 真実な神様
なぜ神様は試練に耐えられるように脱出の道を備えてくださるのでしょうか?
それは、神様が真実な方だからです。(10:13)真実な方であるが故に、私たちを導き、脱出の道を備えてくださるのです。
哀歌3章22節~24節:
「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。
『あなたの真実は偉大です。主こそ、私への割り当てです』」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」
試練は神様の真実を信じる時であり、憐れみを受ける時でもあります。
試練の中で神様の恵みを忘れそうになりますが、必ず脱出の道が備えられていることを覚えて歩みたいものです。
そして、今、特に、ウクライナの人々がこの試練を乗り越えられるように祈りましょう。
聖書全体から恵みの福音を
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ペテロの手紙第一 2章11-12節
旅人になろう
11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、
あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 旅人としてこの世界で生きる
信仰の父、アブラハムに始まり、神の民はエジプトでの生活やバビロンでの生活など、旅人・寄留者として長く暮らしてきました。
また、神の民という立場は、この世の民ではなく、神の国の市民を意味しました。
この世界の中で、神の祝福のパートナーになるために、まず言われるのが、肉の欲を避けることでした。
私たちの内側が神に似せられ、外側・行動が変化し、異邦人の中で、立派に生きることができるのです。
理解されず悪人呼ばわりされ続けることもありますが、その生き方を続けることで、神をあがめるように周りの人は変わっていきます。
- 信仰の旅の歩き方
信仰の旅とは、継続的な応答です。私たちが神を愛したのではなく、神がまず私たちを愛してくださるのです。
神の恵みがいつも先にあります。私たちは神の恵みを探し、神に応答するのです。
神の恵みは私たちをイエス・キリストに似せていきます。
聖霊の働きによって、神の導きを受けて、神の風を見つけ、応答していくのです。
そのために信仰の共同体は不可欠です。そしてこの世界に遣わされていくのです。
- 恵みの福音:でこぼこがいいを個人、教会、社会に
一人一人が個人的に神に信仰を告白することは大切ですが、信仰の成長のために共同体は欠かせません。
お互いに愛し合いなさいというイエス様の命令は、でこぼこな私たちの間に、
イエスの愛が表されることを信じ、期待し、諦めないで求め続けることなのです。
このように教会はキリストの体として建て上げられていくとともに、教会のためだけでなく、
福音を伝えるために、この世界のために旅人として、遣わされていくのです。
■一緒に考えてみましょう
- 旅人・寄留者のような、肩身の狭いような部外者のような体験を思い出してみましょう。
- 信仰の旅の歩き方を読んで、印象に残る部分はあるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ペテロの手紙第1 2章9-10節
闇から光へ
2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。
それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. この世界で、神の民として
神のものとされ、聖められる。聖書の聖という言葉は、区別するという意味があります。
この世界から神のために取り分けられて、神の民となったのです。これはこの世のものではなくなるということです。
神の家族となって神の世界みたいなところに移動できるなら苦労はないかもしれませんが、神の所有となって神を信じないこの世界の中で、生活する。
ここに難しさがあるのです。
2. 神の救いの計画の一端を担う教会
最初のクリスチャンたちは、ある意味、空気を読まない人たちでした。
イエス・キリストのみ唯一の真の神であると主張することは、ローマ皇帝への反逆であり、社会秩序を乱す悪い市民だと評価されていました。
このような状況でしたから、ペテロは信仰に立ち続けることを励ます手紙を書いたのです。
どんな暗闇からでも、神の温かい光の中に連れて行ってくれる神を思い出し、この体験を証しするように。
これが教会の使命なのです。神の救いの計画の一端を教会は担うように任されています。
3. 恵みの福音:葛藤を光の中へ
イエスを信じる人は苦労しなくなるわけではありません。
この世の中で、この世に従わずに神に従う道を選ぶというのは決して簡単なことではありません。
人には捨てられたが、イエスこそ、要の石です。どんな暗闇からでも、救い出してくれる光です。
イエスを信じる人は決して失望させられることはありません。
葛藤はあっても、困難を通っても、どん底に落ちたように感じても、そこで終わりません。
そこから救い出してくださるお方を私たちは知っています。私たちの葛藤をイエスの光の前に差し出しましょう。
■一緒に考えてみましょう
・私にとって、闇から光へ神に召された体験とはどのようなものでしょうか。
・神の栄誉を、私はどこで告げ知らせるようにとこの世界に遣わされているでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ペテロの手紙第1 2章4-8節
大事なのは建物ではなく人
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
2:5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、
「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 生ける石という共通点
人には捨てられましたが、イエス・キリストこそ神殿の要石。絶対に外せない中心なのです。生ける石は主イエス・キリストです。
本当に驚かされるなと思うのは、4節でイエスを表すのに使った生ける石という言葉が、
5節では、あなたがた自身も生ける石として霊の家(新しい神の神殿)を築き上げられていると書かれていることです。
イエスを信じる人は、イエスのように生ける石となって、新しい神の家を築くための大事なパーツになるのです。
2. でこぼこを組み合わせるのは神様
築き上げられ、という言葉はギリシャ語では現在形の受け身で書いてあるので、
今も、神の家は成長している最中で、受け身ということは、私たちが神の家を作るのではなく、私たちはそこに加えてもらっている。
神の家を作るのは神ご自身だという意味がここには込められています。
「でこぼこがいい」を思い浮かべる時、この原則は非常に大切になるでしょう。
教会は常に神の働きが先にあり、でこぼこを組み合わせるのは人ではなく、神の働きなのです。
3. 恵みの福音:離れていても神の家族の一員
このコロナ禍で、集まりたくても、一緒に集まれない私たちは、この手紙を最初に読んだ人たちの状況を想像することができるのではないでしょうか(参照1:1)。
もちろん、何もなければ一緒に集まりたいと思っている。でも、状況がそれを許さない。
そんな中で、ペテロはあなたがたが離れ離れになっていたとしても、一人一人が神の家族の一員なんだと語るのです。
集まれないけど、今いるところで、神に喜ばれる生き方を、イエス・キリストの助けによって、献げていくことができますように。
2000年前の祈りに合わせて。
■一緒に考えてみましょう
・霊の家の中で、でこぼこが見事に組み合わさっていると感じたことがあるでしょうか。
・「離れている神の家族」と聞いて、思い浮かべた人に連絡を取ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ペテロの手紙第一 2章1-3節
シンプルライフ
1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
3あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 注意を向けるべきこと
原文のギリシャ語では、1-3節は1つの長い文章で、2節前半が中心の文章です。
生まれたばかりの乳飲み子になって、純粋な、父なる神からいただく霊の乳を慕い求めるようにと命じられています。
生まれたばかりの赤ちゃんは弱いです。誰かに頼らなければなりません。
そのような立場に自分を置いて、神のみことば、何より神ご自身を求めるように命じられています。
自然にできますとは言われていません。意識して、注意して、やるべきことなのです。
- 思い切って捨てて大丈夫
私たちがこの世界で生きている中で身につけてきた生き方があります。
すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口。このようなものは捨てなさいと言われます。
こういう習慣は自分自身を愛すること、隣人と愛すること、神を愛することを邪魔します。
かつて、これらのものが自分を守ってくれたかもしれない。
でも、もう自分で自分を守らなくていい。神様があなたを守るから、すべての悪意を捨てて大丈夫です。
- 恵みの福音:すでに主を味わっている
主がいつくしみ深い方である。この部分は詩篇34:8からの引用です。
「34:7主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。
8 味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。 幸いなことよ 主に身を避ける人は。」
困難の中で神は私を守ってくださったとあなたはすでに体験したことがあるでしょう。
思い出してみなさいと私たちは招かれています。私たちが困難の中にあったとしても、主に身を避けるなら、大丈夫。
神を味わい、神から目を離さないでいられますように。
■一緒に考えてみましょう
- シンプルに生きるために、今日、何を捨てるようにと神は私の心を照らしているでしょうか。
- 困難の中で、神に守られた経験が誰にもきっとあるはずだとペテロは言います。思い出してみましょう。
連合主題聖句2022
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書 4章23-24節
礼拝する心
23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 御霊に敏感になることが不可欠
御霊について理解を深めるためにヨハネ3章8節のニコデモとの対話を紹介します。
風は思いのまま吹きます。風がどこから吹いてくるのか分からないように、人は神をコントロールすることはできません。
私たちがすべきことは、風を感じることです。神の働きに敏感になることです。
神の働くスペースを作ると表現することがありますが、どこに神様の風が吹いているだろうかと私たちが意識を向ける。
これが御霊によって礼拝する人の特徴です。
- 礼拝は場所に縛られない
神は霊ですから、物質が大事なわけではありません。場所に縛られることもありません。
先週、イエスが神殿です。イエス・キリストこそ、この世界の罪を取り除くための子羊として十字架で死なれた方であり、
大祭司として私たちの祈りを神に執り成してくださるお方です。
イエスが神殿であるなら、イエスがいるところこそ、私たちの礼拝する場所です。
それはどこか。イエスがご自分の代わりに遣わされた真理の御霊がいるところです。
- 恵みの福音:聖霊によって礼拝する
まことの礼拝者とは、聖霊によって礼拝を献げる人たちのことです。聖霊に導かれることを待ち望む人たちです。
私たちの礼拝は、常に一歩先を歩いてくれている神の働きに注意を向けることです。
今、イエスはどこにいるでしょうか。イエスは聖霊を通して、至るところにいてくださいます。
礼拝とは日曜日に教会ですることであり、また真理の御霊が私の生き方を導かれルナら、私たちの日々の生活が神への礼拝になるのです。
■一緒に考えてみましょう
- アドベントの時期に、マリアの祈りに注目しました。神のなさることを受け入れ、みこころがなりますようにとの祈りを礼拝者として今日、神の前に献げたいものです。
- 礼拝に聖霊の導きは欠かせません。どのようにして、聖霊の導きを見極め、従っていくことができるでしょうか。自分に合ったやり方を見つけているでしょうか。よく分からないと思ったら正直にイエス様に相談してみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書 2章18-22節
イエスこそ神殿
18すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
19イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
20そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
21しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。
22それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神殿をより良い形で実現したイエス
神殿とは、神が共にいるという象徴・いけにえや祈りの場所でした。
イエスが神殿であると言われていますが、イエスは人となった神であり、インマヌエル(神は私たちと共におられるという意味)と呼ばれます。
イエスが、究極のいけにえとなりました。私たちはイエスの十字架によって、神との平和を持つことができます。
つまり、誰もが神に祈りを献げることができるようになったのです。イエスは確かに神殿の役目をよりよい形で実現しました。
- 神の光で振り返ることができますように
イエスが十字架で殺され、3日目に死人の中からよみがえったことを理解して、ようやく、
「あの時、神殿を壊してみなさいと言われたのも、こういうことだったのか」と納得したというのです。
私たちの信仰の旅も似ています。
イエスの光で照らされて、振り返ってみることで、一つ一つの出来事が神の恵みによって結び合わされていくことに気づかせてもらうことができるのです。
ユダヤ人の対応に目を向けることも大事です。
神殿で権威を託されていたユダヤ人は自分の慣れ親しんだ考え方から離れられませんでした。これもまた私たちの現実です。
- 恵みの福音:イエスこそ救い主
今日は聖書のど真ん中。イエスに救いがあります。
「神様、私にはイエス様の救いが必要です」と求める全ての人にこの救いは差し出されています。難しい条件はありません。
自分の人生を自分でコントロールすることの難しさを認め、この世界を支配する自分中心の生き方を捨てて、
神の愛に支配していただく生き方を受け入れるのです。神との平和をいただき、神のもとで安らぎ、
神のイメージに創造されたと聖書が約束する本来の自分を取り戻す歩みを始めることができます。
■一緒に考えてみましょう
- 自分の歩みを振り返って神の恵みを見つけてみましょう。今日も新しい発見がありますように。
- イエスと一緒に歩く人生の旅は、イエスなしの人生とどう違うでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ヨハネの福音書 2章13-17節
イエスの起こした騒ぎ
13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- あらゆる民の祈りの家
「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)ように心がけるべきでした。
かつてソロモンが神殿を神に捧げた祈りの中でも述べられたように、神殿はイスラエルの人だけでなく、全ての民族に開かれているべきでした。
あらゆる民を神様が招いているのですから、先に神の民となった人たちは自分のことだけでなく、周りの人たちのことを考えるべきでした。
これが神の願いであり、神の民の願いとすべきことなのです。
- 異邦人の庭で異邦人の礼拝の妨げに
日本語では区別ができないのですが、14節の「宮」という言葉は、「神殿の建物だけでなく敷地内を含む」言葉が使われています。
イエスは神殿の建物の中で、商売をしていたことを怒ったわけではありません。
彼らが商売をしていたのは、神殿の外でした。庭と呼ばれる部分でした。
いくつも庭と呼ばれる場所がある中で、彼らが商売をしていたのは、異邦人の庭と呼ばれる場所でした。
異邦人に開かれた唯一の場所で、商売をすることによって、異邦人の礼拝を妨害したことを非難したのです。
これがイエスの怒りの根幹にあったのでした。
- 恵みの福音:あらゆる人が招かれている
神の家が祈りの家となるように。まず私が安心して礼拝を通して祈りを捧げることができますように。
そして、私だけでなく、あらゆる人にとって安心して神様と向き合える家になるように。
意図していなくても、無意識に私たちの社会では、声の小さい人、弱い人が我慢を強いられることがどうしても多くなりがちです。
あらゆる人が安心して、神様の前に祈りを捧げることができるように私たちはお互いに配慮し合うことを心がけましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 神の家が祈りの家となるために、どのようなことができるでしょうか。
- 教会では、どのような人が疎外されやすいでしょうか。どのようなことに気をつけたらいいでしょうか。
説教者:中澤 啓介 師(大野キリスト教会)
聖 書:ヘブル人への手紙 11:4 12:2 13:7-8 20-21
すばらしい神の家族の中に生かされて
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、
そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。
神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。
彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。
彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、
あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。
また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。
栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ローマ人への手紙 8章24-25節
この望みとともに
24 私たちは、この望みとともに救われたのです。
目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 今の苦しみと将来の希望
今の苦しみと将来の希望を対比して、確かに今の苦しみは大変だけど、
将来の希望は今の苦しみを吹き飛ばしてくれるくらい大きな希望が待っています。
パウロは直前で、この世界全体が救われるのを待ち望んでいると語りました。
今もなお、神様の救いの計画は続いています。
たとえ今、苦しくても、ここが行き止まりではなく、
荒野に道が作られるように主は希望の光を灯してくださいます。
- 日本バプテスト教会連合の「この望み」
苦難を分かち合うとは、コロナ禍のみならず、教会の置かれたさまざまな状況を分かち合い、祈り合い、支え合うということです。
責任をともに担うとは、日本全体の問題でもある2030年問題への対応です。
人口減少、少子高齢化。当然、教会を取り巻く状況も変わってきます。
そのような中にあって、十字架の主を証し続けたいと願いますし、時代に応じた宣教のあり方を検討し続けたいというのが連合の願いです。
困難を受け止めつつ、永遠に至る栄光に目を留め続け、新しい年も歩き続けることができたらと祈っています。
- 恵みの福音:神に託された望みを待ち望む
最後に、2022年を迎えた私たち一人一人にとって、この望みとは何かということを投げかけたいと思います。
この1年、神様から私に委ねられている望みとは何でしょうか。
私が期待し、待ち続けるようにと神に託されている望みは何でしょうか。
ビジョン、または使命と言い換えてもいいと思います。
私は神様から託されている、私が期待し、祈り続け、忍耐強く待ち続けなければいけないであろう「この望み」とは何でしょうか。
まだ見ていないものを、忍耐して待ち望むようにとチャレンジを受けています。
■一緒に考えてみましょう
- みこころが天で行われるように地でも行われますようにと祈りつつ、
私たちの心の奥底にある願いと、神の願いが重なりますようにと祈りましょう。
私の願望を神が聖めてくださり、私が願うべき「神の恵み」を見つけ、
そのために忍耐して待ち望むことができる1年になりますように祈りましょう。
聖書全体から教会の使命を
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 2章22-24節
富めるときも、貧しいときも
22 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。
23それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。
24また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 裕福な家に生まれたわけではなかった
ヨセフとマリアは24節にあるように「山鳩一つがい、あるいは二羽の家鳩」を献げたと書いてあります。
当時の習慣を知っている人はこのルールの前には「もし羊を買う余裕がなければ」という言葉が入っているのを知っていました。
二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを献げる人、羊を買う余裕のない人でした。
つまり、イエスは経済的に豊かな家に生まれたわけではなかったというが分かります。
もしお金が幸せの絶対条件だったら神様はイエスをこのような家に生まれさせなかったでしょう。
- 1年の最後に、私の願いを問い直そう
「健康や病気、富や貧しさ、成功や失敗、長生きや短命などに望みを託してはいけません。
すべてのものは、神との永遠の生活に対するより愛に満ちた反応を、私たちの中に呼び起こす可能性を持っているからです。
私たちの唯一の願い、そして唯一の選択はこうでなければなりません。
私は、私の中での神の深まる命に、より良くつながるものを望み、それを選ぶのです。」
(イグナチオ・ロヨラ『霊操』
Translation by David L. Fleming, SJ, in Draw Me into Your Friendship: The Spiritual Exercises—A Literal Translation and a Contemporary Reading)
- 恵みの福音:今、ここで恵みを味わう
パウロも言いました。
「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。」(ピリピ4:11)
私たちがこの社会の中で神の価値観を生きることができますように。
何に目を向け、何から解放されるべきでしょうか。私たちの現実は決して恵みだけでも罪だけでもありません。
イエス様はこの現実に暗闇を照らす光として来てくださいます。
イエス様を私たちはこの場所に、今いるところにお迎えしたいのです。
■一緒に考えてみましょう
- 私のうちにある正直な思いを神様の前に祈ることができます。神様はそれをちゃんと聞いてくださいます。
まず安心、安全な神様の前で正直に祈りましょう。 - 「健康や病気、富や貧しさ、成功や失敗、長生きや短命」それぞれの中に神の恵みを見つけることができるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:マタイの福音書 11章28節
ほっとできるクリスマス
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:マタイの福音書 1章18-21節
1人で悩まないで
18イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、
二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。
その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 考えられるベストの選択を超える選択へ
ヨセフはマリアの妊娠は自分の身に覚えのないことだということは自分でわかっていました。
自分のことだけを考えれば、マリアを訴えて自分が間違っていないと主張することもできましたが、
マリアや新しい命を考えて、ヨセフは密かに離れることを選ぶことにしました。
それでも1人悩んでいたヨセフの前に御使いが現れます。
自分の考えられるベストの選択を超える神様の選択肢がヨセフに提示されます。
- 最悪と思える出来事も
私たちは、イエスの誕生を喜びの知らせとしてお祝いしますが、
当事者にとっては、最初から喜びの知らせだった訳ではありませんでした。
逆に言うと、最初は最悪のニュースに聞こえても、神様は最悪のニュースすら、
神様の計画のために、良いものとして用いることができるお方だということもできます。
悩みがなくなる訳ではありませんが、最後まで1人で悩み続けて終わりにはなりません。
御使いの登場は私たちに希望の光を見せてくれます。
- 恵みの福音:助け手が送られる
私たちもきっと悩む時があるでしょう。
最悪のニュースのように思えても、私たちは自分に見えている範囲は物事のほんの一面に過ぎないことを思い出せたらなと思います。
限りのない神様が私たち一人一人のことを心配してくださっています。
ヨセフに御使が遣わされたように、神様からの助け手が送られてきます。
ただ、その助け方や神の御計画は私たちの想像していた内容とは、きっと違うことが多いので、
それに戸惑ったり恐れたりすることがあるかもしれません。
どうか神様の大きさに信頼することができますようにとお祈りしたいと思います。
■一緒に考えてみましょう
- 10代の2人の神への信頼によって、イエス・キリストはこの世界に赤ちゃんとして生まれてくることができました。
私たちの日々の生活の小さな神への信頼の積み重ねが、きっと神様にとって大切な意味があることでしょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章38節
マリアの信仰
マリアは言った。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
すると、御使いは彼女から去って行った。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 繰り返し、祈る
その話はもう先週、聞いたから、次の新しい話を聞きたいと思う人もいるかもしれません。
でも、今日はあえて「恵まれた人」と言われたらどう感じるか?ともう1度問いかけました。
それは繰り返し祈るということもいいものだということをお伝えしたかったからです。
効率が重視される時代です。確かに大事な価値観の一つですが、信仰の成熟に関しては、急ぐことは注意が必要です。
じっくり取り組むことそういう中で、見えてくるものがあるのです。
- マリアの信仰
マリアは御使が語ったことの全てを、事細かに理解したわけではないでしょう。
そのような状況の中で、マリアは自分が神様に仕える立場にあり、神様がなされる計画に全面的に従いますと信仰を告白するのです。
神の語りかけに耳をすまし、神の前に自分の小ささと限界を認め、神の語られる約束が実現しますようにと、自分自身の人生を神に全面的に委ねる。
これがマリアの信仰でした。シンプルな生き方です。シンプルな信仰の表現です。
ここに、神に招かれ、神と共に生きる信仰の本質が表現されています。
- 恵みの福音:私の人生にも、神の約束は実現する
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
この祈りを私の祈りにすることができます。私たち一人一人の人生を通して、神様の約束が実現していきます。
神様は待っていてくださいます。「私は主のしもべです」と告白する人を待ち望んでおられます。
どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますようにと心から祈る人に恵みを与えようと主は今日も待っておられます。
■一緒に考えてみましょう
- マリアの信仰の表明をゆっくり読んでみましょう。今朝の私には、この言葉がどのように響くでしょうか。
どんな感じがしたとしても、そのままの感情を安心・安全な神様の前に正直に告白することができるようにお互いのために祈りましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ルカの福音書 1章28節
恵まれた人と突然言われたら
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 突然、私のところに御使いが来たら
突然、神の使い、天使と呼ぶことが多いですが、入って来て、マリアに声をかけるのです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29節でマリアはひどく戸惑ったと書いてあります。
もし、私がマリアの立場だったら、どんな反応をするだろうかと何日か想像してみました。
皆さんもマリアになった気分でこの場面を想像してみてください。
普段過ごしている場所で、急に御使が現れて、私に向かって語りかけてきたら、どうでしょうか。
- 神と自分、どっちを信頼するだろう
30節で「恐れるのをやめなさい」という意味の言葉を御使いは語ります。
神からの語りかけを聞いて、恐れを抱くことが想定されています。私たちは神の言葉よりも、自分の経験を信頼してしまうかもしれません。
「私は神から恵みを受けるに値しない」「こんな私に神は祝福してくださるはずがない」「神の恵みを受けるのは特別な人だけ」とか。
結構、私たちの中は複雑で、単純に手を伸ばして、受け取ったらいいのに、それができないことが多いかもしれません。
私たち一人一人を大切に造った神様は、あなたに恵みを与えると招いてくださるのです。
- 恵みの福音:戸惑っても恵みを見つける
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」これは私たちの自己認識を改める言葉です。
神様が私をどう見ているかに置き換えるための大事な言葉です。あなたは恵みを受ける人。
あなたは神に愛されている。きっと、私たちの内側で、激しい抵抗が起こるかもしれません。
神様の言葉を否定する考えがたくさん出てくるでしょう。
でも、恐れなくていい。怖がらなくていい。
あなたは神の恵みを見つけることができると、聖書の神様は言われます。
■一緒に考えてみましょう
- マリアに言われた言葉が心の奥底から私にも言われた言葉として受け取ることができるようにじっくり時間をかけて味わいましょう。
私の内側から出てくる、受け取れない言い訳の一つ一つを神様の前に差し出してみましょう。
聖書全体から教会の使命を
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:詩篇 61篇1節
耳を傾けてもらう体験を
神よ 私の叫びを聞き
私の祈りに耳を傾けてください。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 耳を傾けてもらう体験
聖書の神様は私たち一人一人の存在に注意を向け、愛を持って、関わってくださるお方なので
「神よ 私の叫びを聞き 私の祈りに耳を傾けてください。」と私たちも祈ることができます。
「私の叫びを聞いてください」と、神様の前に大胆に祈りを捧げたいと思います。
当たり障りのない会話ではなくて、一番、気になっていることを話す時間を取っているでしょうか。
人には言えないと思うようなことでも、絶対に秘密を守り、安全な空間を作ってくださる神様に打ち明けることができます。
- 耳を傾ける体験
交わりの中でひとりがほかの人に負っている第一の奉仕は、<その人の言葉に深く耳を傾ける>ということにおいて成り立つ。
神への愛は私たちが神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは私たちが兄弟の言葉を聞くことになることである。
神が私たちにその言葉を与えて下さるだけでなく、私たちにその耳をも貸して下さるということは、私たちに対する神の愛である。
だから、もし私たちが兄弟の言葉に傾聴することを学ぶなら、私たちが兄弟に対してしていることは神のわざである。
ボンヘッファー著『共に生きる生活』より
- 恵みの福音:神は耳を傾けてくださる
神様に耳を傾けてもらう体験を通して、神様の愛に触れることができますように。
この神様の御前は、安心・安全な場所です。私たちが重荷を安心して下ろすことができますように。
同時に、多くの人たちが聞いてくれる耳を求めています。
神様が聞いてくださるように、聞く耳を差し出すことができますように。
■一緒に考えてみましょう
- 神様と話すべきことを話しているかなと問いかけることは大切です。当たり障りのない会話ではなく、
本当に大事なこと、1番聞いてもらいたいことを神様の前に差し出しているだろうかと振り返ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:エズラ記 6章14節
20年かけて成し遂げる
14 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。
彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 嵐に襲われるけど、恐れなくていい
預言者2人によって建築が再開しました。すぐに嵐が襲ってきました。ペルシャの監査が入ったのです。
しかし、神の目が注がれていたので(5:5)、工事は続きました。
さらに、20年前のキュロス王の命令が発見され、工事は妨げられず、援助を受けることができました。
神の道を歩んでいても、嵐に襲われる日があります。不安になることもあります。
でも、私たちはどこに立ち返ればいいか知っています。「わたしがともにいる」と言われる神様のところです。
- 神殿再建を通して信仰再建も
工事に関わった一人一人の信仰が問われたことでしょう。心配や不安があったことでしょう。
でも、これは主の戦いなんだ。主が成し遂げてくださるのだ。
主に最後まで信頼し続けようと、きっとお互い励まし合いながら、祈りながら、進んでいったのではないかと想像します。
神殿の完成に至る道のりを通して、人々の信仰も問われ、養われ、育てられていったのです。
この工事は誰によって成し遂げられたか、皆がわかっていました。神様によって。栄光は神に!
- 恵みの福音:神を喜び、お祝いする
神殿再建の20年を振り返るとき、誰がこの働きの中心にいたか、人々はよくわかっていました。神様ご自身です。
だから、神に栄光をお返ししようと神を喜び、祝い、礼拝へと導かれるのです。これが教会の歩みなのだと思うのです。
神の働きに招かれるとき、恐れを覚えながらも、そのような歩みが私たちの信仰を練り、深めてられていきます。
区切りがついたとき、大いにお祝いしましょう。
私たちの歩み導かれる主を賛美し、主を喜ぶ生活を送ることができますようにとお祈りします。
■一緒に考えてみましょう
- 神殿再建のように、何かに取り組む中で、信仰が練られた経験はあるでしょうか。振り返ってみましょう。
- 私たちの生活の中を振り返りながら、神を喜び、お祝いしましょう。
神様は私の人生を通して、どのように導いてくださってきたでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:エズラ記 5章1節
誰の言葉を選ぶか
さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、
自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- もう1人の預言者ゼカリヤ
大きな困難に立ち向かうのを後押しするために、神様はハガイだけでなく、もう1人の預言者ゼカリヤも遣わされたことが記されています。
「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4:6)と語りました。
あなたの力に頼るのではなく、神の霊に頼りなさい。これは神の戦いである。この責任者は神ご自身である。
神に信頼せよ。神殿建設のリーダーであるゼルバベルに向けて神の言葉を伝えました。
- 神の言葉を選びたい
ゼルバベルに語られた言葉であると同時に、神様と共に、目の前にある困難に立ち向かおうとする、全ての人に向けたられた言葉でもあります。
私たちの拠り所はどこかと問われます。権力ではない。能力でもない。
神ご自身の霊が共にいてくださる。導いてくださる。そこに信頼しようではないかと私たちも招かれています。
私たち自身や周りから聞こえてくる不安や心配の言葉も聞こえてくるでしょう。
しかし、私たちは神の言葉を選びたいし、神の言葉に人生をかけたいのです。
- 恵みの福音:一緒にいて助けてくれる
物事は決して簡単ではありません。神殿再建は何年もかかる一大事業です。次から次へと、大変なことが舞い込んでくるでしょう。
一度、神様に信頼し、さあやろう!と思ったら、あとは大丈夫かと言ったらそんなことではありません。
時に、自分の権力に頼り、自分の能力に頼り、神様を忘れてしまう日もあるでしょう。
だからこそ、繰り返し、繰り返し、主の前に立ち返る必要があります。
神の預言者たちが共にいて、神殿再建を励ましたように、聖霊の助けを受けて、私たちそれぞれに託された神の働きに取り組みましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 私たちの生活の中で様々な声が聞こえてくる中で、神の言葉を選んでいくために、どのようなことが助けになるでしょうか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ハガイ書 2章4節
強くあれ
4 しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。 ──主のことば──
エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。
この国のすべての民よ、強くあれ。 ──主のことば──
仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の主のことば──
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 「強くあれ」と言われる神
「無に等しいような、厳しさがあるよね。あなたの厳しい状況を知っているよ」と神様は言われます。
強くあれ!と3回も繰り返されます。強くあれ、強くあれ、強くあれ!仕事に取りかかれ。
そこに、この言葉が加わります。「私があなたがたと共にいる」もし、この言葉がなかったら、厳しい現実に1人で必死に立ち向えと言われているようです。
強くあれ!と言うだけで、助けはないのか。決してそうではありません。
「私があなたと共にいる」厳しい現実に神様が一緒に立ち向かってくれる。だから、あなたは心配するな。安心して大丈夫。
- ダメ押しは「万軍の主のことば」
サムエル記第一17:45に、ダビデがゴリヤテという巨人の戦士を倒すときに使った言葉が万軍の主です。
ダビデは万軍の主によってゴリヤテに立ち向かいました。そして47節ではこう言います。
「この戦いは主の戦いだ」(17:47)このダビデの感覚を忘れてはいけません。これは神の働きだということです。
私たちの目から見たら、まるで現実的ではない状況だとしても、神が、これを成し遂げると言われたら、神の責任で、神の方法で、物事は動いていくのです。
- 恵みの福音:主の働きを一緒にやろう
神の働きを間近で見るように招かれています。イエスの弟子たちもそうでした。
証しする人になりました。私たちは信仰を持って応答すると、現実の厳しさを知り、不安になります。神は言われます。
強くあれ。強くあれ。強くあれ。仕事に取りかかれ。神の働きを始めよう。
なぜなら、わたしが一緒にいるから。これは神の戦いなのだ。
だから、恐れるな。あなたは神に信頼し、神の後をついて来なさい。
私たちの働きではなく、神の働きに加えてもらいましょう。
■一緒に考えてみましょう
- 今、思い返してみると、神の働きだったのに、それを自分の努力だけでやろうとして、うまく行かなかった体験はあるでしょうか。
- 4節をゆっくり読んで、今日の私にどんな神の約束が語られているか思いめぐらしましょう。
聖書全体から教会の使命を
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ハガイ書1章1-2節
いつやるの?
1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、
エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、主のことばがあった。
2 万軍の主はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1. 時はまだ来ていない、主の宮を建てる時は
ハガイが語り始めたとき、人々は主の神殿を再建する時はまだ来ていないと思っていました。
実際、自分たちの生活の基盤は十分に整っていませんでした。
前回、見たように神殿を作ることを邪魔する人たちもいました。
もう少し、状況が落ち着いてから、ゆとりができたら、主の宮を建てようと考えていました。
そうこうするうちに、16,7 年の年月が過ぎました。
2. あなたがたの歩みをよく考えよ
これが今日、私たちへの神様からの問いかけです。
「あなた方の歩みを注意深く考えなさい。人生における優先順位をもう 1 度考えてみなさい。」誰が私たちを満たすのでしょうか。
何が私たちの奥深くに安心を与えるのでしょうか。
神ご自身が私たちを誰よりも心配し、誰よりも気にかけ、誰よりも待ち望んでくださっているお方です。
必死に生きていても、何か満たされない。足りない。
もし、そうだとしたら、「あなたは神をないがしろにしていないか」という聖なる問いかけがされています。
私たちを陥れる問いかけではありません。これは私たちを救いに導く聖なる問いかけです。
3. 恵みの福音:心配しなくていい、わたしが共にいる
一生懸命、私たちは生きています。ベストを尽くし、限界を越えるまでがんばっても、うまくいかないことがあります。
知らず知らずのうちに、そんなつもりはなくても神を後回しにしていることがあるかもしれません。
今日、心に留めたいことは、神は私たちを招いてくださるということです。
「そのままでいいから、私のところに来なさい。私があなたを満たす。
私があなたの神だから。私があなたと共にいる。だから、何も心配しなくていい。」
■小グループで分かち合うヒント
● 一緒にいるから心配しなくていいと言ってくださる神の前で、「あなたがたの歩みをよく考えよ」という神からの問いかけを振り返ってみましょう。
● 後回しにしていたけど、今取りかかるように神様に招かれていることはあるでしょうか
説教者:片山 信彦 先生
聖 書:ローマ人への手紙 5章3節~4節
練られた品性を生む
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。
それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 先週私たちは棚瀬悦之兄を天に送りました。兄弟の愛称聖句はテサロニケ人への第一の手紙5章18節「すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」でした。
どのような時にでも感謝することのできる人は素晴らしいな、その様なあり方、存在でありたい、と素直に思いました。
感謝する存在であることが神様の私たちに対する御心なのだということを棚瀬悦之兄から教えられました。
これは何か強制的に、あるいは命令として受けたのではなく、自然に心のうちから湧いてきた思いでした。
どのような過程をたどればすべてのことを感謝できるようになるのだろうか、と考えたのでした。
- 口語訳聖書は、「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。」と訳しています。
新共同訳聖書は、「私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と訳し。
聖書協会共同訳聖書は、「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです」と訳しています。
「練られた品性」と訳されたギリシャ語は、「ドキメー」という名詞です。
この言葉は、「何かを吟味して、本物であることを証明する」という意味の「ドギマゾー」という動詞に由来しているようです。
そこから推測すると、ドギメーは、吟味された結果、明らかになってくる「本物としての性格」を意味している様に思います。
それは上品になるというよりも、練られた結果その人らしさが発揮された、その人の本物の性格、人格になっていくということのようです。
- 覚えるべきは、既に私たちは神に愛され、神との平和の中に置かれているという信仰を持っているということです。
その信仰によって直面する苦難から意味を見出していくことができる。
意味を見出していければ忍耐することができ、その積み重ねで練られた品性を生みだすのではないでしょうか。
例え自分の弱さの中にいる時でもイエスは共におられ、その弱さを担ってくださいます。
パウロは十字架のキリストに弱さを見て、その弱さの中にこそ、神がおられ、だからこそ自分の弱さの中にもイエスがおられるので、
自分の弱さをもって生きるのだ。弱さの極みであるキリストの十字架こそ神の力の現れであり、そこに愛と勝利があることを見て、
弱さや苦難を通して自分らしく生きることができるのだと語っています。
(第二コリント13章3節~5節)困難や弱さの中で品性が練られ、その人の性質や性格が本来のその人らしい良き品性に変えられ、
希望を生み出す品性へと変えられていくのではないでしょうか。
自分の弱さに負けずに、キリストの恵みによって 自分らしい本物の品性を生み出すよう、
そして互いに他の人の品性が磨かれていく様に励まし合いながら、キリストと共に歩みましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:エズラ記 4章24節
嫌がらせと妨害
24 こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシアの王ダレイオスの治世の第二年まで中止されたままになった。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 最初の誘惑は断れたけど
神殿再建が始まったというニュースを聞いたその土地の民が一緒に協力すると申し出てきたと4:1-2に記されています。
この人たちは、主なる神を礼拝しつつ、元々礼拝していた地元の神々を拝んできました。
偶像礼拝が国を滅ぼした原因だと理解していたゼルバベルたちはこの申し出を断りました。
最初に全焼のささげ物をしたように、神への礼拝を大切にしていた姿勢がここにも見られます。
- 妨害された神殿再建の道
その地の民(4:4)は簡単には諦めません。
最初は甘い言葉を使い(4:1-3)、それが失敗したら、今度は、気力を失わせるような働きかけが繰り返し続き、脅して建てさせないようにとしました(4:4)。
また、ペルシャの役人に賄賂を送り、役人を買収して、神殿の工事に反対させ、神殿建設の計画を潰そうとしたのでした(4:5)。
反対運動の結果、神殿再建のプロジェクトは、20年も頓挫することになったのです。
あれだけ順調だったのですが、敵の嫌がらせと妨害行為は大きな成果を挙げました。
- 恵みの福音:妨害され止まっても、一時的
神の働きは反対に遭うことがあります。神の働きだったら、反対に遭うことはないというわけではありません。
神の目的を妨げようとする悪魔の働きはいつの時代も、かなり手強いです。
イエスご自身が十字架に進んでいかれたことを考えても、この地上で、妨害されるような出来事はたくさんあります。
しかし、イエスが死んで終わらずに、復活されたように、神の働きは決して終わることはありません。
だからこそ、日々、色々な困難を前にして、心が折れそうな場面があったとしても、そういう時こそ、神様に頼ることを思い起こしたいと思うのです。
■一緒に考えてみましょう
- 神の働きを妨げようとする敵対者の働きがあります。
ダビデが息子ソロモンに神殿建設を託す際に話した言葉は私たちが神の働きに関わる際に、大きな励ましとなります。
第一歴代28:20を読んで、感想を分かち合ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:エズラ記 3章10-11節
神殿再建の第一歩
10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、
祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。
11 そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」
と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神殿再建の第一歩は、祭壇でささげ物を
イスラエルにとって最も神聖な月が第7の月、民が一斉にエルサレムに集まってきて最初にしたことは、
祭壇を築き、全焼のささげ物をすることでした(3:1-2)。
全焼のささげ物とは、文字通り、いけにえとして捧げた動物を全て焼き尽くすという献げるものです。
これは、神への完全な献身を表しています。全てを神様に捧げますという思いを込めて、祭壇で全焼のささげ物を神に献げました。
このように神を礼拝することが建物を建てることに先立って行われたのでした。
- 恵みの福音:神殿再建の第一歩は献身から
新約の時代、つまり、イエスの十字架によって、完全ないけにえが神に捧げられたので、
もう私たちは動物のいけにえを捧げる必要はないと聖書は教えます。
しかし、旧約聖書の時代から継続していることがあります。
それは動物の捧げ物をする際の心を受け継ぐ必要があります。
私自身を神の前に捧げますという、献身の思いと行動を神の前に表すことは、昔も今も、変わらない大切なことです。
私のために、命を捧げてくださるイエス・キリストの十字架を思い起こし、私もイエスに自分自身を捧げていく。
この想いから、礼拝は始まります。
- 礎が築かれ、賛美を献げる
神殿の礎が完成し、人々は大声で賛美し、感情を爆発させました。
「主はいつくしみ深い」と。8月、国が滅ぼされた、その悲しみの中で、「主はいつくしみ深い」と哀歌の中に書いてあったことを取り上げました。
今日は、喜びの中で、確かに主はいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまでと人々は大声で告白することができました。
このように神の恵みを目撃し、神への信頼、信仰がより確かなものへと変えられていくのです。
■一緒に考えてみましょう
- 礼拝に参加するにあたり、私たち自身が献身の思いをもって参加できたらと思います。
どのような準備をすることが自分自身の献身を促すことに繋がるでしょうか。 - 心から神に賛美を献げた体験を思い出してみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:エズラ記 1章2-4節
70年越しの約束
2 「ペルシアの王キュロスは言う。
『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。
この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。
3 あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。
その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。
この方はエルサレムにおられる神である。
4 あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。
その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、
銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 神の選んだ器、キュロス
「主はペルシャの王、キュロスの霊を奮い立たせた」(1:1)とあるように、この出来事は神によってなされたということが書かれています。
キュロスは主への信仰をもって政治を動かしたわけではありません。
ですが、神ご自身がキュロス王を神の器として用いたと聖書は語るのです。
実際、「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる」(イザヤ書45:5)。
キュロスに力を与えると宣言しつつも、あなた(キュロス)はわたし(聖書の神)を知らないと書かれています。
それでも物事は動いていくのです。
- 目的をもって帰還する
捕囚から帰っていくというのは、ただ生まれ故郷に帰るだけでなく、大きな使命をもって、帰っていくことになります。
それがイスラエルの神、主の宮を建てるということです。神殿を建てるというのは聖書全体を貫くくらい大きなテーマになります。
出エジプトのあと、神がご自分の民の中に住まわれる象徴的な場所として幕屋を作りました。
ソロモンの神殿を捧げる祈りにあったように、神殿とは、単に礼拝を行う場所ではなく、神ご自身の存在を明らかにする場所なのです。
- 恵みの福音:神殿を再び建てるという使命
神殿の再建は、主が自分たちの中に住んでおられることを人々がどれほど真剣に考えているかを示すものです。
神の存在が留まっているかどうかに関心があるのは、口先だけでなく生活に信仰が根ざした民の関心事なのです。
新約聖書では、生きた石が成長して霊的な神殿になるという観点から、神殿の建設を見ています。
私たちが互いのでこぼこを主の愛ゆえに認め合う中で、神の存在を見出していくことができるのです。
■一緒に考えてみましょう
- 神殿の本質は建物ではないということが語られます。神と神の民が共に住む場所。それが神殿の本質です。
どのようにして、神が共にいることを経験しているでしょうか。
聖書全体から教会の使命を
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ダニエル書 6章20節
救いを目撃した異国の王
20 その穴に近づくと、王はダニエルに悲痛な声で呼びかけ、こうダニエルに言った。
「生ける神のしもべダニエルよ。おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 異国の王の口に「生ける神」という言葉が
「生ける神」という言葉は、聖書では、イスラエル人の口から語られるものです。
ダニエルを近くで見ていたペルシャの王様は、ダニエルの神のことを知っていて、「生ける神」にいつも、王自ら語ることができたのでしょう。
それほどダニエルの信仰は筋が通っていて、国の全てを握っている異国の王にも伝わっていました。
神に仕え、人に仕えるダニエルは、悪事を考えることはなく、王に対しても、国に対しても、
誠実に、忠実に働いてきたことが王にも伝わっていたことでしょう。
- 恵みの福音:神への忠誠が人との関係に
ダニエルの場合、優先順位がはっきりしていました。神が第一。
日に3度の祈りを止めなかったように、神への信仰は決して譲りませんでした。
しかし、王への忠誠がないのかといえば、そういうわけでもありませんでした。
神に忠誠を誓うように、王への忠誠を誓っていました。
どちらかと問われれば、堂々と神を選ぶでしょうが、それは人に対して誠実に仕えることを妨げることはないし、
むしろ、神との確かな関係があればこそ、ダニエルは敵対者に訴える口実を何も与えなかったのです(6:4)。
- ダニエルから励ましを受け取ろう
このダニエルの姿勢に、日本で暮らすクリスチャンは大いに励ましを受けることができると思います。
自分だけがクリスチャンで周りは理解がないとしても、私たち一人一人が神様と繋がっていることによって、
神への忠実さや誠実さを養うなら、家族に対して、会社に対して、本当の意味で、裏切ることなく、
愛し、仕えることができるようになるということがダニエルの生き方からわかります。
■一緒に考えてみましょう
- 信仰が理解されない場面は、日本で生活していると少なからずあるでしょう。今まで、どのような葛藤を覚えてきたでしょうか。
- 全ての人に理解されることは難しいですが、筋の通った信仰を見て、神の救いを目撃する人もきっと出てくるでしょう。
どんな証を聞いたことがありますか。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ダニエル書 6章10節
信仰は弱点か
10 ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。
その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。
彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- それでも祈り続ける
ダニエルは知らなかったわけではありません。
そういう法律ができたことをちゃんと認識した上で、以前からしていたように、帰ってから日に3度、ひざまずき、
自分の神の前に祈り、感謝を捧げたのです。彼の行動は、何ら変わらなかった。
もしかしたら窓を閉めて、隠れて祈ることもできたかもしれないですが、
いつもと同じように、エルサレムの方角に、堂々と窓を開けて、日に3度の祈りを捧げたのです。
ダニエルにとって、心を尽くし、思いを尽くし、神に遣わされた地で誠心誠意、国に仕え、人に仕えることが神に仕えることでした。
- 恵みの福音:命より大事なものを知っている
命は神から託されている大事なものですが、命の危険があっても、選ぶべきことがあるということもダニエルの姿勢から教えられるように思います。
ダニエルの3人の友人たちが命の危険に冒された際、王に向かって答えた言葉が思い起こされます。
「もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。
王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。
私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17-18)
- 神の愛を受け取ることから
イエス・キリストは私たち一人一人のために、命を投げ出し、私たちをこの世の呪いから、束縛から、救い出してくださるお方です。
そのことを思うとき、神様は私たちに命を差し出せというのではなく、私が命を与えるから、神の恵みを、
愛を受け取りなさいと言われていることがわかります。
これが、経験を重ねたダニエルの生き方に、泉田昭先生の生き方にならう第一歩のように思います。
■一緒に考えてみましょう
- 自分自身の信仰を成長させるような習慣を持っていますか?どのような習慣ですか?
- 聖書を信じることによる迫害が世界を見渡せば、今も行われています。
私たちの周りで命を取られるような迫害はなくても、判断に迷うことや無言の圧力を受けることはあるかもしれません。
どのようなことが思い出されるでしょうか?
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:ダニエル書 6章4節
同僚からの嫉妬
4 大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようとしたが、何の口実も欠点も見つけられなかった。
彼は忠実で、何の怠慢も欠点も見つからなかったのである。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
- 捕囚中と日本の生活は似ている!?
ダニエルの状況は、実は日本でのクリスチャンの生活に近いように思います。
日本の場合、聖書の神を知らない人たちの中で生活することが多いでしょう。
特に日本では、ある程度、周りの人と行動を揃えることが良しとされますので、
変に思われるような素振りはあまりしたくないと感じる人も少なくないでしょう。
仕事上では、クリスチャンらしさを表に出すことはないかもしれません。そっちの方が無難です。
- ダニエルへの嫉妬
もう年老いたダニエルですが、非常に優秀でした。聖書はすぐれた霊が宿っていたからだと説明しています。
だから、王もダニエルを信頼していました。問題はここからです。
そんな状況をよく思わない人たちが一人、二人ではなく、何人もいました。
必死になって、ダニエルの欠点、失敗、悪いところを探しました。
でも、ダニエルは本当に忠実で、何の怠慢も欠点も見つかりませんでした。
だからと言って、引き下がるような相手ではありませんでした。
- 恵みの福音:悪に悪で返さない
意地悪な人は、どこまでも意地悪で、あらゆる手を使って、嫌がることをしてきます。
ねたみに対して、ねたみで返したくなることがあるでしょう。でも、それは私たちの心に害をもたらすだけです。
恨み、憎しみを抱えることがあるなら、イエス・キリストの足元におきましょう。
イエス様は私たちを妬みに囚われず、妬みから解放し、清め、キリストの宮を建てあげる大切なパーツなのだと語りかけてくださいます。
悪に悪で仕返しをするのではなく、イエス・キリストに信頼しましょう。決して失望することはありません。
■一緒に考えてみましょう
- 「ねたみ」のような悪い感情が浮かんできたら、どのようにその感情に対処するようにしていますか。
どのようにして、イエス・キリストの福音に立ち返っていますか? - 悪に悪で返したくなった場面を思い出してみましょう。その場面をイエス様と一緒に振り返ってみましょう。
説教者:蒔田 望 牧師
聖 書:エレミヤ書 29章10-14節
神は見捨てない
10 まことに、主はこう言われる。
『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、
あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。
それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。
あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。
わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
■アウトライン
1.偽預言者の聞こえのいい言葉
実はエレミヤの同時代の預言者たちは、こう言っていました。
「2年のうちに、国に帰れる。」(エレミヤ28:2-4)。エレミヤが語ったのは70年。
2年と70年では、全く違います。どちらか選べるなら、2年で帰りたいでしょう。
エレミヤは同時代の預言者たちを「偽預言者」と呼び、激しく対立してきました。
偽預言者は人々が言ってほしいことを言い続けます。
「全てうまくいく。すぐに帰れる。」そうだったらいいけど、神の言っていることは違うとエレミヤは言うのです。
- 70年を希望と受け止めたい
2年後なら、私が生きている間に戻れるかもしれないが、70年となれば、ほぼ全ての人が、自分の生きている間は帰れないということです。
自分のことだけを考えている人にとっては、絶望の知らせなのかもしれません。
でも、これは希望だと聖書は語ります。神は私たちを見捨てないのだ。
私が生きている間に戻れなくても、次の世代、次の次の世代が帰れる。
そのために、今を大切に生きる人でありたいと思うのです。
- 恵みの福音:戻ることができる
私たちはコロナによって、捕囚を味わっているかのようです。
失ったものが大きいほど、心の痛みは大きく、魂に負担がかかります。
しかし、キリスト教の信仰には必ず「帰還」があります。
イスラエル民族がバビロンから帰還したことを私たちは知っています。
私たち自身も、誰もがキリストのもとに戻ることができることを知っています。
聖書のメッセージは希望であり、私たちを抱きしめ、歓迎してくださる神のもとに戻ることができるのです。
■一緒に考えてみましょう
- 聞こえのいい言葉に惑わされずに、神のみことばを聞き続けるために、どんなことができるでしょうか。
- 苦難によって信仰が練られ、人として成長したと思うような出来事はありますか。